文政7年(1824年)7月2日、会津藩士・丸山胤道の次男として生まれる。諱は胤永。号は韋軒。
学才を藩に認められ、10代末頃江戸に留学。昌平黌に入り書生寮の舎長に任じられる。
安政6年(1859年)、藩命により西日本各地の視察を行い、『観光集』『列藩名君賢臣事歴』などの見聞録を藩主・松平容保に提出した。
文久2年(1862年)、容保に従い上京。翌文久3年(1863年)1月には公用方に抜擢され、京都における対外折衝を担当した。文久3年の8月18日の政変では薩摩藩士・高崎佐太郎と謀り政変を実現に導いた。
元治元年(1864年)、秋月を後援していた家老の横山常徳が死去すると公用方を解かれ、翌慶応元年(1865年)には蝦夷地代官に左遷される。
慶応2年(1866年)、再び上京を命じられる。翌慶応3年(1867年)3月に京都に入り、薩摩藩との関係修復を模索するが時既に遅く、慶応4年(1868年)1月の鳥羽伏見の戦い敗退後は会津藩に帰国。軍事奉行添役に任じられ、越後方面で転戦。その後会津若松城に籠城。降伏の際には城から脱出し米沢藩を仲介して交渉を取り纏めた。
降伏後、反逆首謀者として終身禁固刑を受けるが、明治5年(1872年)に罪を解かれた。その後政府に出仕し左院少議生などを経て東京大学の教諭、次いで熊本五等高等学校教諭を勤めた。熊本では小泉八雲と知り合い、小泉からその人格を賞賛された。
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最終更新:2025/01/14(火) 09:00
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