赤井幸家(あかい・よしいえ 1532 ~ 1606)とは、丹波国の戦国武将である。赤井時家の三男。仮名・新八郎。刑部大輔と称した。法名は釣月とす。
長谷城・三尾山城主。
長兄・赤井家清の戦死後、次兄・赤井直正を補佐する。
永禄年間に三尾山(兵庫県丹波市)に城を築き、三尾山城を居城として赤井氏の勢力を支えた。
1571年の山名氏との対立が契機となり、織田氏の侵攻を招く。
ただ、この時は信長包囲網が絶賛開催中であり、丹波国へと侵略する余力は無く、足利氏・浅井氏・朝倉氏・三好氏・六角氏・本願寺といった勢力との戦いに没頭していたため、直接の侵攻を受けることはなかった。
しかし、1573年までに本願寺以外の五者が滅亡、或いは畿内から一掃されると、1575年には明智光秀を大将とした大軍に攻め込まれる。
この時は波多野秀治の救援もあり、織田軍の攻撃を何度も撃退し、直正の指示の下で光秀を自害寸前へと追い込んだ。
だが、それも長くは続くことは無く、1578年に直正が病没すると、家督は直正の嫡男・赤井直義が継ぐこととなった。
しかし、直義は当時わずか9歳であり、満足に執行できる立場ではなく、やむなく幸家が後見人となり、赤井氏の事実上の総大将を務め、総指揮を執った。
直正の死後、赤井氏の絶対的求心力を失ったことで織田氏と山名氏の圧力を受ける。
事態打破を図った幸家は但馬竹田城へと進軍する。(尚、黒井城に近い丹波竹田城ではないようだ。)
ちなみに、但馬竹田城は兵庫県朝来市、丹波竹田城は兵庫県丹波市にあり、現在は隣同士の自治体である。
ともかくとして、竹田城攻めの留守中に三尾山城を光秀の大軍に攻め込まれて落城してしまう。
この後も赤井方の支城は落とされていき、黒井城のみとなり孤立無援の状態となった。
落城寸前の際に甥・赤井直義と共に城から脱出させることに成功した。父・赤井時家も当時85歳と高齢であり健在ではあったが、一緒に脱出したのかどうなのかは不明。
暫くは京都に隠棲するなど時を待った。
その後のことはしばらくは不明だが、京都で浪人生活を送っていたのだろうか。
信長亡き後、故郷に戻り、そこで病没した。享年75。
元プロボクサーで俳優の赤井英和は彼の子孫にあたる。(赤井の母方の直系の先祖であり、父は入婿。)
掲示板
掲示板に書き込みがありません。
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/26(金) 00:00
最終更新:2024/04/26(金) 00:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。