信長包囲網とは、織田信長と政治的・宗教的・地政学的に対立した者達が、周辺勢力や各地の諸大名と結託して織田家による天下統一事業を阻んだ、大同盟連合(合従連衡)のことである。
一般的に、信長包囲網と呼ばれるものは大きく分けて三つある。
織田信長が足利義昭を奉じて、畿内への上洛を果たす。この際、信長は義昭の名代として各地に号令を発し、諸大名の即時上洛を命じた。
だがこれに越前の朝倉義景が応じず、信長は朝倉家へ制裁を加えるべく越前へ出兵。その途上で、それまで婚姻による同盟関係にあった北近江の浅井長政が反逆。これに呼応して、三好三人衆や六角義賢といった諸大名も相次いで反織田同盟への参加を決め、信長は苦しい戦いを強いられる。
1570年(元亀元年)の姉川の戦いで、織田・徳川軍が浅井・朝倉連合軍を破る。それを皮切りに、横島城の戦いや野田・福島城の戦いも、織田軍が有利に事を進める。だが、織田軍の優位も長くは続かず、この一連の戦いに本願寺教団が反織田側として介入してきたことで、信長は一気に苦しい局面に陥った。
織田信長は浅井長政・朝倉義景への決戦を志向するが、浅井朝倉両氏は信長の戦術采配を警戒し、拒否して比叡山に籠城。さらに六角義賢や伊勢長島の在地勢力が挙兵し、特に長島衆は信長の弟である織田信興を自刃させ、滝川一益を防戦一方にするなど、老若男女含む数の暴力で織田軍をジリジリと圧迫した。
織田信長との直接対決を避け、信長の戦力をできる限り削ぐ形となった「志賀の陣」と言われるこの戦いは、織田軍劣勢が日増しに顕著になる。一応、南近江では羽柴秀吉、丹羽長秀の奮闘もあり、また山岡景隆の協力もあってやや優勢ではあったものの、摂津、伊勢、尾張方面では戦線を支えきるのは難しい状況になりつつあった。また森可成、坂井政尚、織田信興といった重臣一門の戦死者も出始め、暗雲が漂っていた。
このまま包囲網の中で戦っていても、ジリ貧なのは明白だった。そのため、足利義昭は信長を救うべく外交的支援を行い、朝廷とも連携して正親町天皇を動かし和睦を成立させた。また反信長勢力も織田家との長期戦を不安視する声も出始めており、利害一致となった。
信長は六角義賢・篠原長房と、次いで浅井長政・朝倉義景とも和睦する。三好三人衆や本願寺・一向一揆衆は諸大名との和睦後もある程度の交戦を続けるが、六角や浅井、朝倉といった有力勢力が一時的に抜けたことで包囲網は勢力を大きく損なった。織田信長が体裁上折れる形でメンツが保たれた反信長勢力がひとまず兵を引くという形で戦いは終わり、信長はこの難局を乗り越えた。
虚実あるべし。(何かの間違いではないのか!?)
朝倉家への遠征途中、金ヶ崎で織田信長が発した一言。盟友であり妹婿でもあった浅井長政が裏切ったと知らされ、信長は珍しく狼狽しながらこう言ったとされる。
浅井長政が織田家を裏切ったという事実を、信長は妹・お市から贈られてきた小豆の袋によって窺い知ったという逸話が後世の創作では流布された。布袋の両端を紐で縛ってあった小豆袋を見て、信長は自身がこの袋の中の小豆であることを察し、上記の一言を発した。
信長の権力掌握によって室町幕府は一時的に再興したが、将軍である足利義昭は、後見人である信長のとの関係において駆け引きや対立をしながらも協調関係を維持していた。それは戦国初期の有力者と将軍との関係同様に不可避のものであった。義昭が信長に『副将軍』の地位を用意しても受けようとせず、また信長は『殿中御掟』を制定して義昭の行動を一部制限しようとした。
義昭は以前にも信長包囲網を形成した浅井・朝倉・六角といった畿内大名衆や、本願寺や延暦寺といった宗教勢力や一揆衆、更には東国の強豪として知られていた武田信玄に信長の副状のない御内書を乱発し、独自の活動を行う。
これに対して、信長は義昭の行動を苦々しく思いつつも各地を転戦し、1571年(元亀2年)には磯野員昌を降伏させて佐和山城を落とし、長島一向一揆では弟の織田信興を失ったが、苛烈に攻め立てて一揆衆を封じ込めた。また、同年には延暦寺を焼き討ちしている。
1572年(元亀3年)には、北近江の浅井長政に対して本格的な攻勢を開始。小谷城を包囲したことで美濃と畿内を結ぶ兵站線が安定したため、戦況はますます織田側へ有利に傾いていった。途中で松永久秀が反旗を翻したが、信長は各方面に対して冷静に対応した。反信長連合はいよいよ追い詰められ、味方となった甲斐の武田信玄にほぼ希望を託す形へとなっていた。
1573年(元亀4年)4月、西上作戦中だった武田信玄が病死したことで、包囲網は大きく力を損なった。信長の上洛以来、反織田姿勢を貫いていた三好三人衆も、中心人物だった岩成友通が7月に戦死したことにより、陣営としては崩壊する。(後に、その構成員の一人だった三好政康は大坂夏の陣に豊臣方として参戦しており、真田十勇士の一人である三好清海入道のモデルともなった。何年潜伏してたんだアンタは・・・)
信玄の死に勢いを得た信長は、その年の8月に朝倉義景と浅井久政を、9月には久政の子・長政を討つことに成功。これにより包囲網は事実上瓦解することになる。
また武田と織田の手切れを確認した後、1573年初頭に包囲網に遅れて参加した足利義昭は、1573年7月に槇島城で挙兵したが、既に時勢を得ていた信長には敵わずに槇島城を追われてしまっていた。(当時、義昭は信玄の死を知らずに信長の情勢は絶望的だと誤った判断をしてしまったという)
織田信長によって畿内を追われた足利義昭は、なおも幕府復興と信長への復讐を諦めきれず、庇護先の毛利家を中心とした新たな信長包囲網の構築を目論んでいた。
だが、頼みの綱だった甲斐武田家は、信玄の跡を継いだ武田勝頼が長篠の戦いで織田信長・徳川家康に大敗して以降はその勢力も下火となっており、畿内にはもはや織田家に対抗し得る有力大名はいなかった。そこで義昭は、未だに根強い抵抗を続けていた本願寺教団と、武田家と並ぶ強豪である越後の上杉謙信、更には瀬戸内海の海賊衆にも参加を求めた。また足利義昭は上杉謙信、武田勝頼、北条氏政の三者協調を説き、一貫して信長とあたるようもくろんでいたと言われている。
こうして、本願寺、毛利、上杉、武田らを始めとする、史上最大規模の大信長包囲網が出来上がった。(毛利家は当初、元就の方針により信長包囲網への参加には否定的だったが、元就死後は方針を転換した。)
毛利家は瀬戸内の海賊衆と協力して、当時重包囲下に置かれていた本願寺(石山御坊)への海路での兵糧補給を行い、これを成功させる。(その時、毛利水軍と海賊衆が織田・九鬼水軍との間で大規模な海戦を行っているが、毛利水軍がこれに勝利した。1576年の第一次木津川口の戦いである。)
また、北陸では上杉謙信が義昭の求めに応じて、加賀・能登への侵入を開始。翌年の1577年(天正5年)には、畿内で再び松永久秀が反逆するに及び、俄に反信長連合が勢力を盛り返し、織田信長はその対応におわれることとなった。これに信長は各個撃破戦術で対応し、紀州雑賀衆を紀州征伐で破り、また加賀一向一揆も重鎮の柴田勝家を派遣することで収束へと向かわせた。
また翌1578年(天正6年)には、手取川の戦いで柴田軍が上杉軍に敗北したものの、その直後に上杉謙信が病死する。また上杉家はその後、後継者争いにより御館の乱が勃発して外征どころではなくなったため、事実上包囲網から脱落した。また、御館の乱に伴い、武田勝頼と北条氏政が対立し、北条氏政は織田信長に味方した。結果、足利義昭の目論んだ上杉北条武田の三者協調路線は、ここに破綻することになる
北陸の脅威が消え失せ、信長は再び畿内を注視。反逆した松永久秀には嫡男の信忠をあたらせ、丹波の波多野秀治や赤井直正には明智光秀をあたらせ、これも順繰りに撃破していった。
だが一方、中国地方の戦況は芳しくなく、毛利軍の東進により播磨や丹後などが脅かされていた。これに信長は織田信忠・羽柴秀吉らをあたらせて毛利家との戦いに従事させるが、戦局膠着や播磨の別所長治の離反に伴い、対毛利の駒として用意していた尼子勝久と山中鹿介を見捨てることとなり、二人は上月城の戦いで戦死(勝久は自刃、鹿介は捕縛後殺害)してしまっていた。
またこの頃、摂津では荒木村重が本願寺・毛利方に寝返っていた。また、本願寺も毛利水軍による海上補給を受けて勢力を盛り返しており、予断を許さない状況にあった。これに信長は、新たに開発した鉄甲船を投入して再び海上封鎖を実施。毛利水軍と瀬戸内海賊衆を撃破し、本願寺の糧道を完全に断つことに成功した。(第二次木津川口の戦い)
1579年(天正7年)、寝返った荒木村重も別所長治も織田軍に包囲されて孤立し、丹波では波多野秀治が降伏。またその年の暮れには、備前の宇喜多直家が毛利家傘下を抜け出して信長に与したため、中国地方の戦況も徐々に織田軍有利な形勢へと傾き始めていた。
1580年(天正8年)、反織田同盟の最右翼だった本願寺教団が、法主・顕如の石山御坊退去によって事実上降伏し、10年近く続いた石山合戦が終結する。本願寺に協調していた雑賀衆も、雑賀孫市(鈴木孫一)を中心とする親信長派、土橋守重(土橋若太夫)を中心とする反信長派に分裂することとなる
その後、信長は1582年(天正10年)には東国の脅威だった武田勝頼を攻め滅ぼし、北陸と甲信越を制圧して上杉景勝を窮地に追いやる。関東では北条氏政が織田信長との連携を強めてはいるが、事実上その体制に組み込まれつつあった。また、中国地方では毛利家の要衝である備中高松城を秀吉が水攻めにしており、毛利氏の背後にいる大友宗麟が信長に味方して毛利氏を圧迫するなど、もはや包囲網瓦解も時間の問題となっていた。
ところが、その1582年(天正10年)の6月に、織田信長は明智光秀の謀反によって横死。その後の織田家の内乱などもあり、信長包囲網は、最大の敵であった信長が死んだこと、その後の政情混乱などもあり、その意義すらも徐々に薄れ消え行くものとなっていった。
織田家は、中心人物だった織田信長だけでなく、嫡男の織田信忠や、有力な家臣だった村井貞勝らを失ってしまったことで急速に弱体化していき、織田信雄・織田信孝の権力争いや羽柴秀吉の台頭によって次第に勢力を衰退させていくことになる。その後、秀吉が豊臣政権を打ち立て、織田秀信を始めとする織田家までもが豊臣氏に臣従すると、織田信長と織田家を巡った信長包囲網は完全に目的を失った。
そのため、外交体制の一新が行われていき、反織田の最先鋒として対立していた毛利家や上杉家は、羽柴秀吉と結ぶことでその後の豊臣政権下で重要なポストとなり、秀吉の天下取りを支えていくことになる。
一方、第三次包囲網形成の主導者であった足利義昭は、秀吉から山城槇島に1万石の領地を与えられた。その後、将軍職を辞して受戒、出家して余生を過ごした。(朝鮮出兵の際には、肥前まで名目出陣したりしている。)
また信長と最も激しい戦いを繰り広げた本願寺の法主・顕如は、石山御坊を去った後は一時的に紀伊国鷺森で隠遁していた。信長の死後は、秀吉と和睦したことで大坂城下に寺院を持つことを許され、そこに天満本願寺という新たな本拠地を築いてそこへ移る。
だが、罪人を匿った疑いをかけられたことで大坂から追われ、京都の七条堀川に新たな寺院を築いた。(顕如の死後、本願寺教団は徳川家康の裁定により東西二派に分けられることになる。)
一般的には、信長包囲網はいわゆる『旧態勢力の抵抗』という風に言われているが、実際は織田信長の外交の失敗において成立した危機という性質が強い。
掲示板
75 ななしのよっしん
2024/09/01(日) 18:23:09 ID: 73hQQjwEig
76 ななしのよっしん
2025/06/24(火) 09:34:06 ID: 0+TGElSjTp
織田を支援する大友を島津に攻撃させてやったー!
と思ったら近衛がすぐに大友と島津を和睦させ、じゃあ次の一手は秋月・龍造寺に大友を攻撃させ、
と足利義昭と近衛前久は争う宿命なのか相性が悪いのか
義輝時代も含めると足利兄弟と近衛は二十年くらい犬猿の仲だったか
義昭は境目の消せない火種を煽って放火するのが上手く、近衛は鎮火するのが上手い
77 ななしのよっしん
2025/12/05(金) 21:55:15 ID: OoUmbmkYUD
室町幕府は突出した勢力を将軍と大名でタコ殴りにして
牽制し合う政権だったから信長も同じ目に遭っただけだよね。
面白いのは突出した三好政権を義昭派の大名(朝倉義景や浅井長政、畠山昭高、三好義継、織田信長)でタコ殴りにした結果
突出した信長が他の義昭派の大名にタコ殴りされたこと。
ついでに旧三好政権もタコ殴りに加わっている。
室町時代の後期はこのパターンの繰り返しだよね。
信長も足利将軍を連れて近江に退く定番の流れに片足を
突っ込んでたと思う。
何とか踏ん張ったから室町時代のループから抜け出して
安土時代ルートに突入できたけど。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/08(月) 17:00
最終更新:2025/12/08(月) 17:00
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