織田信長から離反し、丹波で明智光秀と戦ったことで有名な人物。
なお、波多野氏の系譜関係は『波多野系図』と一次史料で相当異なっており、いまさら前者に依拠するとブチ切れられるので注意である。
丹波波多野氏は、評定衆家とは異なり、石見吉見氏の一族が母方の姓を名乗って細川勝元に仕えたことに始まる、とされる。その祖である波多野清秀は『幻雲文集』によると永正元年(1504年)7月24日に62歳で亡くなったとされる。なお、この波多野清秀が応仁の乱の功績で細川勝元に丹波国多紀郡を与えられたのが、八上城進出のきっかけだそうだ。
ここで文明年間に登場する「秀久」が、従来この波多野清秀の一族だと考えられてきたが、『兵庫県史』が寛永19年(1642年)に付けられた怪しい押紙の記載でしかないことを明らかにし、仮に波多野だとしても評定衆家の波多野であることがわかってきている。
ともあれ、この新興勢力である波多野氏は、物部姓上原氏の寄子として躍進していく。波多野清秀が文書に姿を現すのは、文明17年(1485年)の上原元秀の遵行状であり、丹波に移ってから25年の内に有力被官になっていたようだ。このことは文明17年10月晦日の『大乗院寺社雑事記』でも裏付けられる。
ところが、この上原元秀は明応2年(1493年)に他の内衆との抗争中に死去。その父親・上原賢家が守護代を引き継ぐが、明応4年(1495年)に一族もろとも没落し、守護代は内藤元貞が担うようになる。この過程で、既に多紀郡・摂津国などに経済基盤を持っていた波多野清秀もまた、上のポストが空いたことで躍進していくようだ。
その息子が、波多野元清、香西元盛、柳本賢治の三兄弟である。波多野元清は、永正年間頃に登場する。永正元年(1504年)の薬師寺元一の乱にもそれっぽい人がいるが、確実なのは永正4年(1507年)の細川政元による丹後攻めの時に、『細川大心院記』にこの波多野元清が内藤貞正とともに出てくるのである。丹後の一色義有攻めに赤沢宗益、香西元長、香西元秋らと、この丹波衆が加わっていたのだ。
以後、細川澄元・細川高国の戦いでは、当初は細川澄元方にいたが、永正5年(1508年)6月以前に細川高国方に離反。7月には多紀郡を占拠した。この頃には禁裏御料所上村庄にも権益を持ち、三条西実隆らと回路を持った。
しかし、かくまっていた瓦林正頼が永正8年(1511年)細川高国に誅殺されたあたりから雲行きが怪しくなり、大永6年(1526年)10月に路線対立から弟の香西元盛が主君に殺されると、末の弟の柳本賢治とともに細川高国を離反する。かくして細川晴元と連携して池田城に籠城するが、既に波多野秀忠を名代としていた波多野元清は、多分、享禄3年(1530年)にひっそりとなくなっている(『細川両家記』に享禄3年(1531年)に自害した話もあるのと、あれ官途違くない?というので、少し迷うが…)。
ここで、大永7年(1527年)に京都に攻めあがったのが、波多野秀忠である。かつてはこの波多野孫四郎は元清だとされてきたが、花押から秀忠だとされた。天文年間に出てくる波多野備前守は、波多野秀忠とされている。
享禄5年(1532年)にいったん天文法華一揆の絡みで一向一揆を避けて没落したと『言継卿記』にあるが、波多野秀忠は天文2年(1533年)に細川晴国をいったん擁立する。ところが、細川晴国の敗死で、再び細川晴元に従う、というように割とコロコロ勢力を変えていたようだ。
波多野秀忠は上村庄に加え桐野・河内郷にも進出していった。天文5年(1536年)には細川晴元の下で丹波守護代にもなっており、荒木清長などを従えていたようだ。が、『蜷川家文書』によるとこの荒木清長が御料所を荒らし、幕府は細川晴元→波多野秀忠の順に、これを何度もやめさせるように命令する必要があったほどであった。
天文14年(1545年)には細川氏綱党の内藤顕勝が国関城に籠城したため、三好長慶や三好政長らに救援を求めた。なお、基本的には『古蹟文微』と『蜷川家文書』で彼の事績が多くたどれる。
そして、天文16年(1547年)より波多野元秀が姿を現す。波多野元秀は細川晴元方として細川氏綱に寝返った三好長慶を攻撃し、波多野元秀、波多野秀親、塩川国満、波々伯部宗徹らが連合軍を結成した。かくして、天文22年(1553年)には松永久秀らと戦い、永禄の変の後は松永久秀側になった。
なお、弘治3年(1557年)に松永長頼に八上城を追われ、彼の敗死までは没落していたと書かれるが、一次史料を見た限り、多紀郡のどこかで権力を行使しており、真面目にわけがわからないので、この点はパスさせてほしい
ということで長々と前史をたどってきたが、ここである問題が生じる。
この記事の波多野秀治であるが、波多野晴通の息子、あるいは波多野元秀の息子と紹介される。よく言われるのが『波多野系図』によると父親は波多野晴通だが、伯父の波多野元秀の養子になったとされる、と書かれるのだが、ここまで見てわかるように波多野晴通って誰やねんという話である。実はこの波多野晴通だが、軍記にしか出てこず、ここ数十年で『波多野系図』の波多野元清を波多野稙通と書かれたりを修正した結果、なんかごっちゃになっているのである。
一応、『国史大辞典』で野口実が波多野元治をこう書いたのがコピペされているが、その後の芦田岩男の波多野清秀→波多野元清→波多野秀忠→波多野元秀→波多野秀治という系図、をさらに発展させて、八上城研究会が最後の波多野秀治を結局波多野元秀の養子にした系図が、現状一番新しい。
なお、さらにややこしい話として、福島克彦が郡代家として波多野秀長→波多野秀親→波多野次郎の系統を見出し、実は波多野を名乗る家が複数あるのである。
まあ早い話、頑張りに頑張ってここまでのことがわかってきたので、波多野秀治がどこの誰かは、いつかはわかるかもしれない、ということで、この程度の記載にとどめておく。
以後、地元の民俗誌や軍記には毛利元就を説得して正親町天皇の即位式への費用を献上させたことや、八上城を松永孫六から奪回したことが描かれるが、彼の事績かどうかそもそもが不明で、父親と混同されている可能性もある。少なくとも八上城奪還は『言継卿記』によると波多野元秀である。
なお、波多野秀治であるが、ぶっちゃけ一次史料は4点しか残しておらず、ほとんど軍記で事績が盛られている人物である。以下、できるだけこの影響を排除した記述にする。
永禄11年(1568年)に足利義昭が上洛するとこれに従い、以後は織田信長に通じていくが、特に何か事績があるわけではない。ところが、荻野直正(いわゆる赤井直正)を明智光秀が攻めている天正4年(1576年)に突如としてこれに離反し、明智光秀を攻撃。以後、丹波情勢を泥沼化させる端緒となった。
明智光秀はこの時点では丹波にかかりきりになれなかったものの、徐々に形勢を好転させ、天正7年(1579年)から本格的に平定を目指す。5月5日には波多野宗長父子の籠る氷上城が落城し、6月1日に八上城も落城した。『総見記』にある母親を人質にして和睦した明智光秀にだまし討ちされたに関しては、あくまでも虚説にすぎず、実際にあったことではない。
捕縛された波多野秀治と弟の波多野秀尚らは、8日に処刑された。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける波多野秀治の能力一覧。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 46 | 政治 | 66 | 魅力 | 92 | 野望 | 63 | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 61 | 政治 | 47 | 魅力 | 74 | 野望 | 63 | 教養 | 64 | ||||
覇王伝 | 采配 | 70 | 戦闘 | 71 | 智謀 | 44 | 政治 | 27 | 野望 | 49 | ||||
天翔記 | 戦才 | 146 | 智才 | 94 | 政才 | 90 | 魅力 | 72 | 野望 | 70 | ||||
将星録 | 戦闘 | 71 | 智謀 | 57 | 政治 | 47 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 59 | 戦闘 | 64 | 智謀 | 53 | 政治 | 43 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 57 | 智謀 | 45 | 政治 | 24 | 野望 | 59 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 60 | 知略 | 48 | 政治 | 26 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 59 | 知略 | 47 | 政治 | 27 | 教養 | 58 | ||||||
革新 | 統率 | 70 | 武勇 | 66 | 知略 | 53 | 政治 | 31 | ||||||
天道 | 統率 | 66 | 武勇 | 53 | 知略 | 72 | 政治 | 31 | ||||||
創造 | 統率 | 63 | 武勇 | 57 | 知略 | 70 | 政治 | 39 |
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最終更新:2024/12/01(日) 08:00
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