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ジョージモナーク

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ジョージモナークとは、1985年生まれの日本の競走馬である。芦毛の牡馬。

まだ地方と中央の垣根が高かった時代、交流元年を迎える前の日本競馬において、地方所属のまま中央の重賞を制した数少ない競走馬。

主な勝ち鞍
1991年:産経賞オールカマー(GIII)、関東盃(地方重賞)

※当記事では活躍した当時に合わせて旧馬齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています。

概要

父ミルジョージ、母レッドシグナル、母父ローンロケットという血統。

父ミルジョージは骨折により競走馬としては大成できなかったものの、輸出先の日本で7年間続いていたノーザンテーストの牙城を崩しリーディングサイアーに輝いた大種牡馬。主な産駒はジョージモナークと近い年代でも1つ上にイナリワン、同世代にミスターシクレノン、1つ下にオサイチジョージとロジータがいる。

母レッドシグナルはフランスで生まれイギリスで走ったあと日本に輸入され繁殖入りした。

母父ローンロケットは現在G1に格付けされている1964年のサセックスステークス、セントジェイムズパレスステークスなど12戦5勝。他の母父としての産駒には1980年のスプリンターズステークス勝ち馬サクラゴッドがいる。

1985年5月14日に現在門別で活躍中のベルピットなどを生産した古川渉氏(現厚賀古川牧場)の下で誕生。3歳になったジョージモナークは後にドラールオウカンやオリオンザサンクスを管理する南関東大井競馬の赤間清松厩舎に入厩した。

現役時代

1987年11月の新馬戦で的場文男騎手を鞍上にデビューし2着。1か月後の3歳戦で初勝利を飾る。2週間後にもう1勝を加え4歳1月のゴールデンステッキ賞では3着。赤間調教師はこの敗戦の後ジョージモナークが時折見せていた臆病さがレース中の競り合いなどが起きた時に悪さをしていると考え、南関東三冠路線へ向けて精神面を鍛えて闘争心を育もうと強い調教を掛けた。しかしその調教中にジョージモナークは脚の臼骨を骨折してしまう。しかも折れた臼骨は2つではなく3つに割れていて、それを見た獣医師が安楽死させた方がよいと診断する重傷だった。ジョージモナークはデビューしてから2勝2敗と飛びぬけた強さを見せていたわけではなかったが、馬主の須原秀晴氏はジョージモナークの素質を信じて治療するよう要望を出した。ジョージモナークは臆病さと同じくらい辛抱強い馬で、厳しい治療を耐え抜いて歩行するまでに回復し、4歳時は棒に振ったものの5歳2月にはレースに出れるまでに回復し奇跡の復活を果たした。

復活したジョージモナークは復帰戦を4馬身差で勝利すると、そこから特別戦を怒涛の5連勝で制して夏の重賞関東盃へ乗り込んだ。さすがに重賞ではまだ通じず6着に跳ね返され、休養を取った後の10月からでも初戦のおおとり賞でアラブの名馬ミスターヨシゼンに敗れ、11月でも春から夏の連勝が嘘のように調子を崩し、結局年末の東京大賞典もロジータの7着に敗れ、11戦6勝で復帰初年度を終えた。

6歳になった翌1990年は2月のウインターカップから始動。3着ではあったものの昨年末からは調子を少し取り戻し、5月の隅田川賞では2着、6月の準重賞ブリリアントカップでは56.5kgのトップハンデで3馬身差勝利。この勝利で陣営は再び重賞の大井記念、関東盃に続けて挑戦したが、大井記念では同期ダイコウガルダンが3頭の競り合いを制す中1馬身後方の4着。関東盃では1着テツノヒリユウには離されたがそこから僅差の4着と走りは悪くない物だった。赤間調教師は調教中の動きからジョージモナークには芝の適性があるのではないかと考え、当時数少ない地方競馬招待競走として行われていたオールカマーに地方枠として参戦することに決め、9月の中山競馬場へ向かった。

当時のオールカマーは地方招待競走とはいえ現在と同じく中央の強豪が多く出走する競走であることには変わらず、ダービー2着メジロアルダン、皐月賞馬ドクタースパート、ダービー2着、菊花賞3着のリアルバースデーなどGIで好走するメンバーが集まった。ジョージモナークはその中で8番人気の伏兵だったが、的場騎手は序盤からハナを切ってマイペースの逃げに持ち込み、最終直線までそのまま先頭でレースを運んだ。そのまま鮮やかに逃げ切り勝ちかと思ったところで最後方から11番人気のラケットボールが凄まじい追い込みを見せ、ゴール板前で差し切られ悔しい2着。しかしGI馬含む中央馬をゴール直前まで完封したことで陣営は自信を深めた。
その後ジョージモナークはオールカマーと同じく当時地方代表枠が存在したジャパンカップに出走することにし、前哨戦の富士ステークスからジャパンカップに向かったが、前年と同じく秋が深まるにつれ調子を落とし、富士ステークスこそ4着だったもののジャパンカップは15着、東京大賞典でも良いところなくダイコウガルダンの9着に敗れた。

7歳時の1991年は2月の大井金盃から始動。ここから早田秀治騎手に乗り替わりとなった。当日は年末の結果を受け6番人気に留まり結果も6着。しかし寒さも和らいだ4月の帝王賞ではチヤンピオンスターの2着に好走する。その後は前年と同じく隅田川賞、大井記念と進み7着、4着と伸びを欠いたものの、次に挑戦した関東盃ではツクバスキーをクビ差で破りこの年初勝利。そして7歳にして初の重賞制覇を達成した。ジョージモナークはこの勝利の後休養に入り、昨年の雪辱を果たす為中央競馬のオールカマーへ出走する。

1991年のオールカマーは昨年菊花賞2着、有馬3着、今年に入ってからは大阪杯を勝利していたホワイトストーンが1番人気。岩手から中央に遠征して来ていたスイフトセイダイが2番人気で、ジョージモナークは去年2着だったものの6番人気に留まっていた。本番では先頭こそユキノサンライズに譲ったものの先団につけ、中団から直線で並んできたホワイトストーンを半馬身差つけて勝利。地方馬が招待されるようになってからジュサブロー以来史上2頭目、南関東所属馬としては初のオールカマー制覇であった。その後はもはや恒例の感がある富士ステークス→ジャパンカップのローテーションで出走し富士ステークスでは着順を1つ上げて3着。ジャパンカップは最終直線まで先頭で逃げて見せ場を作ったものの最下位15着。年末の東京大賞典の出走は見送り、7歳時はこれで終えた。

8歳になった1992年も現役を続行し、1月の東京シティ盃から復帰し7着。続く川崎記念、大井金盃では南関東の伝説的ジョッキー佐々木竹見騎手に乗り替わって出走したが5着、9着と勝ち切れず、昨年好走を見せた帝王賞では16頭立て14着と流石に8歳ともなれば衰えは隠せなくなってきた。陣営は最後にこれまで実績を上げてきた芝のレースを走って引退することに決め、6月の大井記念を挟んで当時地方との混合競走として行われた新潟競馬場のBSN杯に出走した。地元では衰えが目立っていたジョージモナークだが、中央ではオールカマー勝利の印象が濃く残っていたのか3番人気。本番でもレコードで勝利したフェザーマイハットから0.1秒差の2着になり、上位を独占するかに見えた中央勢に唯一割って入った。陣営はこの結果を見てオールカマーをジョージモナークの引退レースにすることに決めた。本番では同じ厩舎の後輩ハシルショウグンと共に逃げを打ち、流石にそのまま勝利とはいかなかったもののイクノディクタスの5着に粘って掲示板に載り、これを最後に引退した。通算成績39戦11勝。うち重賞2勝。

引退後

引退後は種牡馬になることこそできたものの活躍馬は現れず、2003年には種牡馬を引退。その後は静内の織田牧場で余生を送り、2008年に死去。23歳没。

ダートをメインとする地方競馬に所属する競走馬でありながら芝を得意とし、ダートはそんなに強くないと評されたものの、当時地方馬が参戦しては跳ね返されていた中央の地方招待競走ではGI馬にすら先着する実力を発揮した、所属と活躍した場所のミスマッチから有名になった競走馬であった。ジョージモナークは4歳時の怪我の影響で冬になると調子を落としてしまったり左回りの競馬場を苦手とするなど決して順調な競走生活を送れたわけではなく、その中でも当時地方馬が出走できる芝のレースの少なさから苦手な要素を多く抱える晩秋のジャパンカップに毎年参戦することになったりと陣営も出走するレース選択に苦労することが多かったようである。かつて存在した地方招待競走やジャパンカップの地方代表枠と言った制度はダートグレード競走が始まった現在では耳馴染みのないものになりつつある、当時の日本競馬だからこそ生まれた名馬だった。

エピソード

  • 現役後半の主戦を務めた早田秀治騎手は現役生活45年の中でジョージモナークと勝ったオールカマーが1番うれしい勝利だったと語っている。
  • 競走馬を擬人化したゲーム「ウマ娘 プリティーダービー」において、地方からジャパンカップに挑んだ過去のウマ娘の1人として「テレビに映るために無茶な大逃げしたウマ娘」というジョージモナークと思われる説明のウマ娘の話が登場する。ただし「テレビに映るため」というのは当時存在した勝利できそうにない馬が競馬中継に映るために無茶な逃げを仕掛ける「テレビ馬」の事だと思われるが、ジョージモナークは確かに逃げてはいたものの無茶苦茶な大逃げというわけでもなく、オールカマーと同じ走りが出せれば勝利する可能性も無いわけではなかった為、同じ場面で出てくる殆どそのままのハシルショウグンよりは当てはまる所が少ない説明になっている[1]

血統表

*ミルジョージ
Mill George
1975 鹿毛
Mill Reef
1968 鹿毛
Never Bend Nasrullah
Lalun
Milan Mill Princequillo
Virginia Water
Miss Charisma
1967 鹿毛
Ragusa Ribot
Fantan
*マタテイナ Grey Sovereign
Zanzara
*レッドシグナル
Red Signal
1969 芦毛
FNo.1-s
Roan Rocket
1961 芦毛
Buisson Ardent Relic
Rose O'Lynn
Farandole Deux Pour Cent
Faramoude
Red Poppy
1963 鹿毛
Rockefella Hyperion
Rockfel
Red Shoes Bois Roussel
Picture Play
競走馬の4代血統表

クロスNasrullah 4×5(9.38%)

関連動画

勝ったレースの動画が見つからなかったので参戦したレースの動画を。

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関連項目

  • 競馬
  • 大井競馬
  • 競走馬の一覧
  • 1988年クラシック世代
    • ダイコウガルダン
    • オグリキャップ
  • ミスターヨシゼン
  • ロジータ
  • チヤンピオンスター
  • ホワイトストーン
  • ハシルショウグン
  • イクノディクタス
  • 帝王賞
  • オールカマー
  • 的場文男 - 競走生活前半の主戦騎手
  • 早田秀治 - 競走生活後半の主戦騎手

脚注

  1. *一方よしだみほによる馬なり1ハロン劇場ではジョージモナークが出走する対戦相手に自身と同じ芦毛が多かったことから目立つために先頭で走るという話があり、どちらかと言えばこのエピソードを基にしている可能性が高い
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