仙石秀久 単語


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仙石秀久(1552年~1614年)とは、戦国武将・大名である。通称・権兵衛
豊臣秀吉最古参の家臣の一人であり、もっとも早く大名に出世した人物。
そして改易され、大名に復帰した数少ない人物である。

出生~大名

1552年1月26日、斉藤氏に仕えていた豪族・仙石久盛の4男として美濃国加茂郡黒岩(現在の加茂郡坂祝町)で生まれる。しかし、兄弟が不幸にあったため急遽家督を継ぐことになる。

15歳の秀久は稲葉山城の戦いで落ちのびた後、信長に勇壮な相貌を気に入られ、黄金一錠を与えられたといわれている。  信長公、秀久の容貌の勇壮なるを賞す「改選仙石家譜」
その後羽柴秀吉の配下として各地を転戦する。

1570年姉川の戦いで山崎新平を討ち取り、1574年1000石の一領主となる。
中国攻略に従軍してからも1578年に4000石、翌年に茶臼山城の城主へ。
着々と出世を続け1583年淡路洲本城主5万石の大名となる。
さらには1585年四国攻めの論功行賞により讃岐高松10万石に加増された。

例えるのも難であるが、1店長から数年で地方の統括を任されるようなもので、もはや給料が増えたというレベルではない。このあまりにも早い出世は後の悲劇につながることになる。

改易、そして「無」へ

 1586年四国を平定した秀吉に従い四国勢の軍監として従軍することになる。
十河存保や長宗我部元親・信親父子らの軍勢と共に九州に渡海し、豊後で島津軍と対峙する。
しかし四国攻めから間もない状態から四国勢は結束に乏しかった。加えて大友家からの援軍も少数に留まっていた。
秀久は秀吉からは本隊到着までは持久戦に徹するよう書状を受け取っていたが、互いに犬猿の仲である長宗我部親子と十河存保がそろって反対したにも関わらず両者の反対を押し切り先陣部隊だけでの攻勢を決定した(資料によっては十河存保は長宗我部親子への対立から賛意を示したとも)。
 1587年戸次川の戦いで大敗し、長宗我部信親・十河存保らが討死、軍勢も総崩れとなって退却した。

 四国へと真っ先に逃げ帰った秀久はこう記された。
「仙石は四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者」(豊薩軍記)
 ルイス・フロイスはこの時の仙石軍の様子をこう記した。
「豊後国に跳梁している最悪の海賊や盗賊は仙石の家来や兵士に他ならない」(日本史)
「恥とか慈悲と言った人間的感情を持ち合わせていない輩であり、できる限り(略奪して)盗み取ること以外目がなかった」(日本史)

 それ以上に、九州から四国・讃岐へ勝手に撤収するという醜態を見せ、これらの行状に秀吉は所領没収の上で

 高野山追放の処分を下した

 なぜこの処分となったのかは不明である。

復帰

その後高野山だけでなく京都、大坂を転々としていたらしい。
1590年に小田原の役がはじまると故郷・美濃で浪人達を集め、徳川家康の推薦もあって陣借りとして参陣。
鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をして合戦に参加したという逸話も残されており、「鈴鳴り武者」の異名をとったと伝えられる。
秀久は伊豆山中城攻めで『無』の馬印を背負い先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。その名声は箱根にある地名「仙石原」は秀久の武勇に由来するという説が存在する程である。

その功績から秀吉からする信濃小諸に5万石を与えられ、大名として豊臣家臣に復帰した。

その後

 秀吉の死後、徳川家についた秀久は1600年の関が原の戦いで東軍として参戦。徳川秀忠の側近として上田城攻めに参加。遅参し、秀忠に対して激怒する家康への謝罪に努めた。この働きが後に秀忠に重用されるきっかけとなった。
 江戸時代になってからは信濃小諸藩の初代藩主となった。秀久の治世では佐久郡において農民がストライキを起こすなどあまり内政は上手くなかったらしい。しかし、笠取垰、小諸城及び城下町を現在のようにしたのは秀久の功績でもある。また、街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績を残している。

 1614年、江戸から小諸へ帰る途中に発病し、武州鴻巣にて5月6日に死去。享年63。

評価

以上の事から、戸次川の戦いでの結果から長宗我部ファン、十河ファンの敵だったり
これだけの失敗をして大名に復帰するなんて許せないなどアンチが多い人物である。
しかし、彼が秀吉~家康のもとで結果を出し続けてきたことは事実である。

逸話

  • 仙石権兵衛秀久は豊臣秀吉が使っていた忍びとして登場し、商人に化けて九州に潜入、地理すべてを絵に描き、攻め入る地点を書き送ったなどと記されている「常山紀談」。
  • 伏見城で石川五右衛門を捕縛したのも秀久だといわれている「一色軍記」。公の捕縛者は京都所司代であった前田玄以。

漫画「センゴク」

『俺は死なん!生きるんじゃあ!!』

 本編の主人公。
15歳で当時の平均身長を上回る171cmの体格を持つ青年。笑ったり照れたりするとダンゴ鼻になる。
恵まれた体格と生命力を持ち戦場ではかなりの強さを誇る(三方ヶ原の戦いでは武田兵相手に一人で立ち回れる程)。
表裏の無い真っ直ぐな性格で周囲からは「ゴンベ」「ゴン」「ゴン兄」と慕われている。
頭脳労働が苦手な脳筋でもあるが、野生の勘が鋭く、年齢と経験を重ねるにつれて大局の見方を身に付けてきた。
 物語の展開上あまり目立たなくなってきているが、今後権兵衛が体験する戸次川の戦いでの大失敗~小田原の役での挽回が最新の歴史考証と現地取材でどのようなドラマが描かれるのか注目である。

仙石権兵衛秀久「戦国史上最も失敗し、挽回した男」

戦国大戦

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戦国大戦では戦国数奇で参加。『センゴク』の主人公の姿、仙石権兵衛として登場。
7/3、2コス、気合・魅力持ちの槍足軽。特技を考えればまあまあの能力と言えるだろう。

「死を越えるのが、生きるってことじゃ!」

計略の「無の一字」は、自分が味方で最前列の時、武力が上がり兵力が徐々に回復する。後ろにいる味方が多い程武力は上がる。気合持ちと回復計略は相性が良いので、原作の高い生命力を再現していると言える。あ、弓は勘弁な!

ちなみにこの数年前三国志大戦にて同作者による関平が登場していたがほとんどゴン。

Ver2.0でも豊臣家の参戦により彼も2枚目が登場している。1.5コスト最高武力の6を有しながら気合、更に豊国(兵力が一定以下でタッチすると兵力が瞬時に微回復+徐々に兵力回復)持ちで、計略の日輪の構えも日輪3使用で兵力回復、としぶとさに特化した武将。ただし本人は軽騎馬隊のため殲滅力はさほど期待できない。統率も2と低いのでダメージ計略にはあっさり負ける。
ちなみに豊臣家は武力6の1.5コスト軽騎馬が他に2人もいたりする(堀直政と甲斐姫)が、仙石を選ぶならその生存能力だろう。 

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