徳川秀忠 単語


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徳川秀忠とくがわ ひでただ(1579年~1632年)は、戦国時代の武将で、徳川幕府二代将軍。もっと評価されるべき人物である。

概要

1579年、徳川家康の三男として生まれる。母親はお愛の方(西郷局)。幼名は長丸(長松とも)。

長兄(松平信康)は謀叛のかどにより1579年に切腹、次兄(結城秀康)は豊臣家へ養子へ行っていたため実質的な世継ぎとして扱われた。(しかし家康は迷っていた部分もあったらしく、譜代の家臣らに「世継ぎは誰が相応しいか」と尋ねたりしている。この時秀忠を推したのは大久保忠隣だけだった)

関ヶ原の際には、榊原康政・本多正信・土井利勝・大久保忠隣などのそうそうたる面々の軍を与えられるも、真田昌幸・信繁(幸村)らの上田城攻めに手間取り、関ヶ原本戦に5日も遅参してしまった。家康は激怒し、しばらくの間秀忠と対面することも許さなかったという。

関ヶ原に勝った父が幕府を開くと、その2年後には征夷大将軍に就任し、27歳で徳川二代将軍となる。が、元和二年(1616)に家康が亡くなるまでは家康が実質的な権力を握っており「大御所政治」と呼ばれた。

慶長十九年(1614)に大坂の陣が起こると、今度こそ遅参すまいと全速力で軍を大坂に急がせたため、逆に家康に叱責を受けた。秀忠は関ヶ原での恥を雪ごうと考えており、強気な策を献策したが、その意見が容れられることはなかった様子。

大坂の陣が終わり、家康が死ぬと、今度こそ自身で政務を行う。武家諸法度を制定し、大名・公家ともに取り締まり、江戸が世界有数の都市になる礎を作った。
元和九年(1623)には父に倣って隠居し、嫡男・家光を征夷大将軍とした。しかし幕府内での権力は持ち続け、「大御所政治」を行っており、寛永三年(1626)には後水尾天皇を二条城に行幸させることに成功。しかしこの上洛中に正室・お江(江与)が死去している。

寛永九年(1632)、江戸城西の丸にて死去。享年53。

評価

上記の通り関ヶ原に遅参したこと、生涯を通して大した武勲を挙げたことがないこと、恐妻家であったこと、父親が偉大すぎることなどから、とかく地味で、あまり注目されることの無い人物である。
が、公家諸法度・武家諸法度を制定し、(家康には出来なかった)豊臣恩顧の大名を次々に改易して幕府の基盤を固めたことは評価すべき点であり、決して「バカ息子」ではない。むしろ偉大すぎる父親に追いつこうとクソ真面目に頑張っていたらしく、そんな点に人間らしさを感じたりする。

あまり知られていないが、実は家族関係の苦労がかなり多い。

  • 母であるお愛の方とは10歳で死別。同腹の弟である松平忠吉も28歳で亡くなっている。
  • 妻であるお江与(江)が非常に嫉妬深かったため、一度きりの浮気で出来た子(保科正之)には妻をはばかってかなり長い間対面しなかった
  • 弟である松平忠輝を不行跡のかどで改易し、追放した。
  • 長女・千姫をわずか7歳で豊臣秀頼のもとに嫁がせたが、19歳で大坂の陣に遭わせてしまった。
  • 次女・珠姫をわずか3歳で前田利常のもとに嫁がせたが、24歳で珠姫は病死。
  • 三女・勝姫を甥・松平忠直(結城秀康の息子)に嫁がせたが、のちに忠直は乱心ののち勝姫を殺そうとしたため、これを隠居せしめ、勝姫を江戸に引き取った。
  • 四女・初姫は京極家へ養女に出したのだが、初姫は若くして病死し、しかも夫である京極忠高とは仲が悪く、初姫が死んだときに忠高は相撲見物をしていた。秀忠は激怒し、初姫の葬儀を徳川家だけで行っている。
  • 嫡男である家光は秀忠を嫌い、家康を尊敬していた。
  • 家光の弟・忠長に不行跡のかどで蟄居を命じる(秀忠の死後切腹した)。
  • 五女・和子を後水尾天皇の中宮として入内させる。しかし後水尾天皇には寵愛の女官がいたため、入内の際には一悶着あった。また天皇は幕府の朝廷への介入を嫌い、和子も幕府と朝廷の間にあってかなり苦労している。

そんな中でもめげずに頑張った秀忠は、もう少し評価されるべきである。

そもそも今日秀忠の武将としての評価を貶める根拠となっている関ヶ原の遅参自体も、一概には秀忠の武将としての評価を落とすものとはいえない。

第一に、秀忠が上田城を攻めた期間はわずか3日である。西軍主力に対して慣れない城を2000足らずで2週間保った鳥居元忠をはじめ、細川幽斎や京極高次の例をとっても籠城側が3日間優位を保つのは当たり前である。

第二に、それでも昌幸は秀忠を素通りさせず上田に足止めさせたかもしれない。だがそれも家康が上田城攻めを指示していたともいわれているし、そもそも上田で足止めされていても、氾濫による使者の到着や行軍の遅れが無ければ秀忠に責任が帰される風潮も無かっただろう。

第三に、戦後増上寺のしゅう徳川秀忠とくがわ ひでただ(1579年~1632年)は、戦国時代の武将で、徳川幕府二代将軍。もっと評価されるべき人物である。

概要

1579年、徳川家康の三男として生まれる。母親はお愛の方(西郷局)。幼名は長丸(長松とも)。

長兄(松平信康)は謀叛のかどにより1579年に切腹、次兄(結城秀康)は豊臣家へ養子へ行っていたため実質的な世継ぎとして扱われた。(しかし家康は迷っていた部分もあったらしく、譜代の家臣らに「世継ぎは誰が相応しいか」と尋ねたりしている。この時秀忠を推したのは大久保忠隣だけだった)

関ヶ原の際には、榊原康政・本多正信・土井利勝・大久保忠隣などのそうそうたる面々の軍を与えられるも、真田昌幸・信繁(幸村)らの上田城攻めに手間取り、関ヶ原本戦に5日も遅参してしまった。家康は激怒し、しばらくの間秀忠と対面することも許さなかったという。

関ヶ原に勝った父が幕府を開くと、その2年後には征夷大将軍に就任し、27歳で徳川二代将軍となる。が、元和二年(1616)に家康が亡くなるまでは家康が実質的な権力を握っており「大御所政治」と呼ばれた。

慶長十九年(1614)に大坂の陣が起こると、今度こそ遅参すまいと全速力で軍を大坂に急がせたため、逆に家康に叱責を受けた。秀忠は関ヶ原での恥を雪ごうと考えており、強気な策を献策したが、その意見が容れられることはなかった様子。

大坂の陣が終わり、家康が死ぬと、今度こそ自身で政務を行う。武家諸法度を制定し、大名・公家ともに取り締まり、江戸が世界有数の都市になる礎を作った。

元和九年(1623)には父に倣って隠居し、嫡男・家光を征夷大将軍とした。しかし幕府内での権力は持ち続け、「大御所政治」を行っており、寛永三年(1626)には後水尾天皇を二条城に行幸させることに成功。しかしこの上洛中に正室・お江(江与)が死去している。

寛永九年(1632)、江戸城西の丸にて死去。享年53。

評価

上記の通り関ヶ原に遅参したこと、生涯を通して大した武勲を挙げたことがないこと、恐妻家であったこと、父親が偉大すぎることなどから、とかく地味で、あまり注目されることの無い人物である。

が、公家諸法度・武家諸法度を制定し、(家康には出来なかった)豊臣恩顧の大名を次々に改易して幕府の基盤を固めたことは評価すべき点であり、決して「バカ息子」ではない。むしろ偉大すぎる父親に追いつこうとクソ真面目に頑張っていたらしく、そんな点に人間らしさを感じたりする。

あまり知られていないが、実は家族関係の苦労がかなり多い。

母であるお愛の方とは10歳で死別。同腹の弟である松平忠吉も28歳で亡くなっている。

妻であるお江与(江)が非常に嫉妬深かったため、一度きりの浮気で出来た子(保科正之)には妻をはばかってかなり長い間対面しなかった

弟である松平忠輝を不行跡のかどで改易し、追放した。

長女・千姫をわずか7歳で豊臣秀頼のもとに嫁がせたが、19歳で大坂の陣に遭わせてしまった。

次女・珠姫をわずか3歳で前田利常のもとに嫁がせたが、24歳で珠姫は病死。

三女・勝姫を甥・松平忠直(結城秀康の息子)に嫁がせたが、のちに忠直は乱心ののち勝姫を殺そうとしたため、これを隠居せしめ、勝姫を江戸に引き取った。

四女・初姫は京極家へ養女に出したのだが、初姫は若くして病死し、しかも夫である京極忠高とは仲が悪く、初姫が死んだときに忠高は相撲見物をしていた。秀忠は激怒し、初姫の葬儀を徳川家だけで行っている。

嫡男である家光は秀忠を嫌い、家康を尊敬していた。

家光の弟・忠長に不行跡のかどで蟄居を命じる(秀忠の死後切腹した)。

五女・和子を後水尾天皇の中宮として入内させる。しかし後水尾天皇には寵愛の女官がいたため、入内の際には一悶着あった。また天皇は幕府の朝廷への介入を嫌い、和子も幕府と朝廷の間にあってかなり苦労している。

そんな中でもめげずに頑張った秀忠は、もう少し評価されるべきである。

そもそも今日秀忠の武将としての評価を貶める根拠となっている関ヶ原の遅参自体も、一概には秀忠の武将としての評価を落とすものとはいえない。

第一に、秀忠が上田城を攻めた期間はわずか3日である。西軍主力に対して慣れない城を2000足らずで2週間保った鳥居元忠をはじめ、細川幽斎や京極高次の例をとっても籠城側が3日間優位を保つのは当たり前である。

第二に、それでも昌幸は秀忠を素通りさせず上田に足止めさせたかもしれない。だがそれも家康が上田城攻めを指示していたともいわれているし、そもそも上田で足止めされていても、氾濫による使者の到着や行軍の遅れが無ければ秀忠に責任が帰される風潮も無かっただろう。

つまり秀忠は武将としても決して無能ではないのである。秀忠乙>

尚、戦災で消失した墓所「台徳院霊廟」が昭和33年に歴代将軍の菩提寺・増上寺近くへ移転される際に発掘調査が行われ、遺骨から複数の弾痕が発見された。この事から銃弾の飛び交う最前線に自ら赴き、陣頭指揮を執るだけの度胸がある一面が判明している。やっぱり三河武士の血は争えないんだな。

子女

  • 長女・千姫(1597-1666):豊臣秀頼の正室。のちに本多忠刻に再嫁。
  • 次女・珠姫(1599-1622):前田利常の正室。両親に先立って死去。
  • 長男・長丸(1601-1602):生母不明。生後九ヶ月ほどで夭折。
  • 三女・勝姫(1601-1672):松平忠直の正室だが、離縁。
  • 四女・初姫(1602-1630):お江の姉であるお初(常高院)の養女となる。
  • 次男・家光(1604-1651):徳川幕府三代将軍。
  • 三男・忠長(1606-1634):秀忠の死後、乱行のかどで自害した。
  • 五女・和子(1607-1678):後水尾天皇の中宮で、明正天皇の生母。院号は東福門院。
  • 四男・正之(1611-1673):母親はお静(浄光院)。保科家に養子に出され、保科正之と名乗る。会津松平氏の祖。

信長の野望

信長の野望」(PCシリーズにおける徳川(松平)秀忠の力一覧 。

初期の2作品では平均レベルの戦闘力だったが、「天翔記」以降は家康の息子達の中で唯一の完全な内政特化型の能力値となっている。第14作「創造」では自らの被弾も厭わず最前線に出向く度胸が評価されたのか武勇が倍近く高められ、統率も少し伸びているが、それでも戦闘面が貧弱な事に変わりは無い。

顔グラは「創造」までは蒼天録以前の月代頭か「天下創世」以降の総髪かの違いはあれどこれと言って目立つ物では無かったが、第15作「大志」では西福寺所蔵の肖像画がモデルの衣冠束帯姿に改められ、より精悍さが増した。

作品名 軍事能力 内政能力
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 魅力 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 58 政治 69 魅力 75 野望 52 教養 67
覇王伝 采配 80 戦闘 58 智謀 49 政治 77 野望 52
天翔記 戦才 48(C) 智才 172(A) 政才 162(A) 魅力 80 野望 87
将星録 戦闘 23 智謀 88 政治 87
烈風伝 采配 33 戦闘 21 智謀 82 政治 85
嵐世記 采配 28 智謀 79 政治 76 野望 85
蒼天録 統率 25 知略 80 政治 81 野心 94
天下創世 統率 18 知略 81 政治 75 教養 61
革新 統率 21 武勇 18 知略 83 政治 84
天道 統率 21 武勇 18 知略 73 政治 84
創造 統率 28 武勇 34 知略 72 政治 80
大志 統率 31 武勇 34 知略 71 内政 82 外政 76
新生 統率 38 武勇 35 知略 70 政務 85

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関連項目

  • 戦国時代
  • 戦国時代の人物の一覧
  • 徳川家康
  • 豊臣秀頼
  • 結城秀康
  • 松平忠吉
  • 松平忠輝
  • 徳川義直
  • 徳川頼宣
  • 徳川頼房
  • ニコニコ歴史戦略ゲー
  • 葵徳川三代(2000年の大河ドラマ。秀忠ファン垂涎必至)
  • 征夷大将軍
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