江戸時代(えどじだい)とは、日本の時代区分の一である。
大雑把に言えば徳川幕府 (江戸幕府) が存在していた期間をさす。そのスパンは265年と1週間と2日で、日本の有史以降では平安時代の次に長い。
比較的安泰で多くの庶民文化が栄えた。後期は特に資料も多く残っており、その風習や思想、言葉遣いまで詳細に知られている。
この時代の文化は何気に現代の日本にも名残をとどめていたりする。現存の神道 (神社神道) は江戸時代の復古神道が明治時代の国家神道を経由して残されたものであり、また弾圧を受けながらも挙って投稿された川柳は現代でも根強い。
畳、障子、正座といったものが一般的になったのもこの時代。
内憂外患に悩まされた終期は幕末と呼んで区別することも多い。
現代の宝くじに当たる富くじは、当初は寺社の修繕費用として始まった。有名所では谷中の感応寺、目黒の瀧泉寺、湯島天神の富くじが「江戸の三富」として知られる。
富くじの購入方法・抽選方法は、まず同じ番号が書かれた木札と紙札を買い、木札は寺社に返す。寺社では木札を箱に収め、抽選日に箱から出した後再び箱に容れ、箱上部の穴からキリで中の木札を突く。突いた木札が当選番号となる。
(他にも何かあれば追加して下さい)
江戸時代は比較的平和な時代であり、様々な文化が生まれた。
食文化においても例外ではなく、今日の「和食」「和菓子」と呼ばれる物は江戸時代に誕生した食べ物が結構多く存在する。そのぐらいいろいろな物が流通した。
江戸時代後期にもなれば、働いた後に気の合う友人と居酒屋で天ぷらと蕎麦を食べながら安酒で一杯なんてこともよく有ったりするので、現在のサラリーマンとやっていることはあまり変わらないかも知れない。
外食産業が発展したのも江戸時代の特色である。江戸では17世紀中頃から飲食店が興り、煮売り屋、お善に乗せた食事を出す一膳飯屋、酒も出す煮売 り居酒屋など多様な飲食店が市街に軒を連ねた。また、屋台を用いて街道沿いや寺社で営業する「立ち売り」と呼ばれた販売方法が現れた。この時代の屋台は木 製で、肩で担いで場所を移動していた。売り物も非常に多彩で、天ぷら、うなぎ、おしるこ、団子、そば、寿司など多岐に渡った。外食文化の発展に伴い、食べ物番付や大食い選手権なども行われた。
これらの背景には農村からの出稼ぎ労働者が非常に多かったという事情もある。彼らは安い給料で働き、屋台で飯を食い、狭い長屋に住み、色街で遊んだ。金が溜まらないので結婚もできなかった。江戸の未婚率は高く、高齢化が進んでいたという資料もある。ますます現代に似ている。
江戸時代は200年以上も続く平和な時代だったために、数多くの面白い小話が生まれて、たくさんの本にもなった。
あるところにとても美人な娘さんがおりました。
しかし、その美人な娘さんが病気になり心配のあまり親は町医者を呼ぶことにしました。
親「どんなもんでしょう?」
町医者「安静にする必要がありますな」
親「食好みの娘なのですが、鯛のようなものはやってもいいですか?」
町医者「それはいいでしょう」
親「では、松茸のようなものは?」
町医者「それは大禁物!!!!!」
親「いいえ、松茸のことでございます。」町医者「松茸ならやつてもよろしいが松茸のようなものはいけません。」
江戸時代の時間の目安は不定時法で定められていた。現代の定時法と異なり、日の出と日の入りをそれぞれ六等分して測っており、季節によって昼夜の長さが変化した。例えば"明け六つ"は夏には午前5時を指すが、冬には午前7時を指す。同様に"暮れ六つ"は夏には午後7時を指し、冬には午後5時を指した。
江戸では市中に設置した計9つの鐘を鳴らすことで時間を知らせていた。鳴らす回数は初めに捨て鐘として3回鳴らした後、"暁九つ"(午前12時)もしくは"昼九つ"(午後12時)であれば9回鳴らし、次の"暁八つ""昼八つ"であれば8回鳴らす。
→不定時法
当時の人々は髪型がほぼ均一で、男性は月代を剃って髷を結うのが普通であり、女性は笄髷(こうがいまげ)、兵庫髷、島田髷、勝山髷の四つに分類される日本髪であった。細かい類型はあるものの、原則としてこれらから逸脱することは無かった。例外的に公家や医者など特定の身分の人々は総髪で髷を結っており、江戸時代末期には他の身分でも総髪が流行った。
女性の化粧品は種類に富み、化粧の指南本などもあった。よく知られているものとしては白粉(おしろい)と、お歯黒用品の鉄漿水(かねみず)が挙げられる。白粉は鉛を原料とした白い顔料で美白用品として使われたが、鉛による健康被害を引き起こすことがあった。(現代では白粉の原料として鉛を使用することは禁止されている)
鉄漿水はお歯黒用の塗料である。当時の既婚女性は眉剃りやお歯黒の習慣があり、お歯黒用の鉄漿水は必需品であった。鉄屑を酢や緑茶に浸したものに飴や粥を加え、更に五倍子粉(ふしこ)と呼ばれたタンニンを含む粉を混ぜて作った。渋みと不快な臭いがあったが、反面鉄漿水の原料であるタンニンや第一鉄イオンは歯や歯肉を丈夫にする効果があるため、虫歯の予防に役立っていた。
江戸では湯屋(銭湯)が繁盛した。江戸時代初期には蒸し風呂が主流であったが、中期以降湯張りが普及していった。当時は石鹸は無く、代わりに米を精米した後に残る米ぬかを袋に入れたもので体を洗っていた。この時代の銭湯は男女混浴であったが、これは男女で分けると燃料や施設拡充などの面で経済的に効率が悪いためである。混浴は当時でも不謹慎に思われる事があったらしく、松平定信や水野忠邦が混浴禁止令を出している。が、彼らが失脚するとすぐに復活したという。
江戸時代に入ると印刷技術の発展によって出版業が盛んになり、17世紀には京都や大坂で書籍が流通するようになった。大坂では井原西鶴や近松門左衛門などの著作が流行した。18世紀以降は江戸でも出版業が広く行われるようになり、山東京伝、十返舎一九、滝沢馬琴、柳亭種彦などによる、文章に挿絵を挟んだ『草双紙』と総称される本が一般に普及した。当時は紙は貴重で高価だったため、庶民は貸本屋から本を借りて読むことが多かった。
武鑑は大名や幕臣の名前、石高、官位、殿席(伺候席)の席次といった各種情報が掲載されており、大名と幕臣を併記したものや大名のみ、または幕臣のみを扱ったものなど様々な形式で出版された。
武鑑の原型が出版されたのは寛永年間(1624-1644)で、この時期に出版されたものを江戸鑑、古武鑑と呼ぶ。当時は京都の版元が出版していたが、元禄年間(1688-1704)には江戸の版元から出版されるようになった。武鑑の名がはじめて確認されるのは元禄8年(1695年)の『本朝武鑑』である。 その後記述項目が整備され、明和元年(1764年)の『明和武鑑』で記載内容が固定化された。明治時代に入るとその歴史的使命を終え出版されなくなっていった。
当然のことながらこの時代には電気もガスもなく、台所も蛇口をひねれば水が出るような便利なものではなかった。火を灯す際は火打石が使われ、これでかまどや火鉢、行灯(あんどん)といった各種用具に火を点けていた。行灯に明かりを灯す時に灯油として主に使われたのは鯨油やいわし油などの魚油(動物性油)で、植物性油に比べて安価で手に入ったが長時間使用すると悪臭が立ち込めたという。菜種油や蝋燭もあったがこれらは高級品で庶民にはあまり利用されなかった。ちなみに、新潟など一部地域においては天然ガスを使っているというところもあった。
水は共用の井戸から汲み、自宅の水がめに入れて利用した。洗濯は井戸から汲んだ水をタライに入れて行い、便所やゴミ捨て場も共用で利用した。江戸においては井戸は掘井戸ではなく、玉川上水から木樋(きどい)という木製の水道によって運ばれた水を地中の大きな桶に入れるという形式だった。
江戸では17世紀中期からゴミの埋め立て処分が行われるようになった。江戸の町が発展するに従い、ゴミ処理の問題に苦慮するようになった幕府は、明暦元年(1655年)、隅田川河口の永代島に投棄することを命じた。町々ではゴミ収集場が作られ、ゴミ処理専門の請負人が発足した。埋立地は徐々に広がり、その跡には永代新田、砂村新田などの新田や、木場町、深川六万坪町などが形成されていった。その後もゴミの埋め立て処理は場所を変えては継続されていった。
なお排泄物処理については、人の糞尿はそのまま畑の肥料になるため、農家が「食べ物の生産」と「肥料の消費」を行い、買う人間が「食べ物の消費」と「肥料の生産」を行うという非常に良い循環を生み出していた。[※1]。長屋のような共同生活の場においては集められる排泄物も大家が所有権を持ち、その売買も大家が行っていた(その代わりとして、大家からは年末に長屋の入居者に対して餅などが配られるなどといった特典もあった)。ちなみに流通経路の発達にともない問屋や小売商も現れるようになり、大名屋敷など生産量が多いところでは入札制度もあったという。
[※1] このスタイルは非常に息が長く、これを非文明的と見なしたアメリカの手によって農業方法が変えられる昭和20年代ごろまでは排泄物処理はこの循環が基本となっていた。ただし経験者にいわせると「臭い・きつい・汚い」の「3K」な仕事であったらしい。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/06(土) 06:00
最終更新:2025/12/06(土) 06:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。