藤田宗一とは
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プロ入り以来一貫して中継ぎ投手として活躍した投手。600試合に登板して先発機会は0、投球回数454回という数字が物語るように、左打者に対するワンポイント・リリーフとしての起用がメインであったが、通算600試合登板は史上36人目の大記録である。
圧倒的に抑えるタイプではないが、故障が少なく常時起用できるのが強み。左打者の外に逃げるスライダーを武器に、1998年から2006年まで10年近く千葉ロッテマリーンズの必勝リレーの一角を占めていた。その後は巨人、ソフトバンク、独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスを渡り歩いた。
島原中央高校から西濃運輸を経て1997年ドラフト3位でロッテに入団。1年目から56試合に登板し6勝7セーブ、防御率2.17と申し分ない成績を残す…が新人王は西武の小関竜也に攫われてしまった。翌年以降もロッテ中継ぎ陣の一翼を担い続け、2000年には70試合の登板で19ホールドを挙げて最多ホールド(現在の最優秀中継ぎ投手)に輝いた。
00年代前半は安定して防御率4点前後と少し物足りない成績が続いていたが、2005年・2006年シーズンは好調を維持。同じく中継ぎの薮田安彦・抑えの小林雅英と"JFK"ならぬ"YFK"を結成、2005年のリーグ優勝・日本一に大きく貢献した。2006年には第1回WBCの代表メンバーに選出されている。
ところが翌2007年は一転して不振に陥り、肩の故障もあって防御率12.64という壊滅的な数字に終わる。オフに戦力外通告を受け、コーチ就任を打診されるがこれを固辞、現役続行を目指し巨人に入団することになった。長い間チームに貢献してきた功労者であり、当時まだ35歳と十分復帰の可能な年齢ではあったが、高年俸(推定1億3000万円)に加え、毎年契約更改で揉めていたことも戦力外の原因になったと思われる。
巨人入団後は故障こそ癒えたものの、越智大祐・山口鉄也ら若手リリーフ陣に押されて登板機会は減少しつつある。2009年はプロ入り以来最低となる19試合の登板に留まり、さらに2010年はプロ入り初の一軍登板なしに終わり、2度目の戦力外通告を受けた。シーズンオフにロッテの入団テストを受けたが不合格。所属球団が決まらないまま年が明けたが、1月24日に福岡ソフトバンクホークスと育成選手として契約した。その後3月7日に支配下登録された。
ソフトバンクでは主に左のワンポイントとして起用され、シーズン最終戦で通算600試合登板を達成したが、オフに戦力外通告。その後、群馬ダイヤモンドペガサスに選手兼任コーチ補佐として入団した。
2012年9月13日の試合後、現役引退を表明し、群馬を退団した。
引退後は赤坂にて焼肉店を営業している。2015年5月30日、かつてのYFKメンバーとともにQVCマリンフィールドにて始球式を行い、マリーンズファンに元気な姿を見せた。
2017年5月、高校の後輩であるケニア野球代表監督・廣谷弥咲氏の誘いでケニア野球代表チームに携わることになった。ケニア代表チームは2020年の東京五輪参加を目指しているとのこと。
通算:13年 | 登板 | 完投 | 完封 | 勝利 | 敗戦 | セーブ | ホールド | 勝率 | 投球回 | 与四球 | 奪三振 | 防御率 |
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NPB | 600 | 0 | 0 | 19 | 21 | 8 | 77 | .475 | 454.0 | 124 | 366 | 3.89 |
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最終更新:2024/04/24(水) 09:00
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