ペリリューの戦いとは、太平洋戦争中の、パラオ諸島のペリリュー島における日本軍と米軍の戦いである。
概要
昭和19年(1944年)の9月から11月にかけて、太平洋の小さな島で日米による激戦が行なわれた。
上陸してきた米軍に対し、日本軍は従来の玉砕戦法ではなく、洞窟陣地などを利用したゲリラ戦で徹底抗戦し、双方に大きな被害がでた。
米軍は猛烈な艦砲射撃と爆撃を加えた後に上陸するというこれまでと同じ作戦を取ったが、上陸する米軍に対して重火器による砲撃が加えられ、上陸後も日本軍の組織的攻撃により米軍は大きな犠牲を出した。
さらに米軍が島内へ進撃を開始してからは、日本軍は洞窟内の陣地にこもってゲリラ戦を仕掛けた。
最精鋭部隊と言われる第1海兵師団第1連隊の死傷率は、史上最も高い約60%という損害の大きさに業を煮やした米軍は火炎放射器を搭載した戦車を投入し、洞窟を丸ごと焼き尽くすという作戦に出た。
米軍の物量の前に日本軍の抵抗もだんだんと散発的になり、指揮官の中川大佐は自決し、戦闘は終結した。
ペリリュー島の戦いは、その後の硫黄島や沖縄の戦いで、米軍は自軍の損害を抑え敵を徹底的に殲滅するために、火炎放射器やナパーム弾等の兵器を大量に投入するきっかけとなった。
1944年の戦況
1943年のガダルカナル島撤退以降、太平洋各諸島に布陣する日本軍は防戦に回るようになった。ニューギニア戦線からはダグラス・マッカーサー陸軍大将率いるアメリカ陸軍・オーストラリア軍が、中部太平洋戦線からはチェスター・ニミッツ海軍大将率いるアメリカ海軍・海兵隊がそれぞれ追い打ちをかけて来ていた。
1944年6月15日にサイパン島への上陸、同日には中国の成都基地からアメリカ陸軍航空軍第58爆撃隊のB-29爆撃機(75機)が日本本土を爆撃するため発進。翌日には北九州市の重工業地帯を空爆した(八幡空襲)。しかし八幡製作所や小倉陸軍造兵廠などの工場地帯は無傷で戦果は挙げられなかったが、同時に日本本土防空網の脆弱性が明らかになった。1942年以来の爆撃機出現に日本国民は大きな衝撃を受けた。
また同月19日には太平洋の天王山と言うべきマリアナ沖海戦が始まり、日本海軍の大敗で終了した。孤立無援となったサイパン島守備隊はアメリカ軍の上陸から1か月後に玉砕。8月1日にはテニアン島が、8月10日にはグアム島がそれぞれ陥落した。サイパン・テニアン島はB-29爆撃機の飛行場となった。太平洋戦線以外では中国で大陸打通作戦・東南アジアでインパール作戦が始まっていた。
1944年は枢軸国にとって敗北が決定的になった年であった。欧州では同年6月6日には連合軍がフランス・ノルマンディー海岸に殺到した史上最大の上陸作戦であるオーヴァーロード作戦が開始され、22日には白ロシア(現ベラルーシ)において一大攻勢であるバクラチオン作戦が発動し125万もの赤軍がドイツ中央軍集団を潰滅させた。包囲殲滅を受けたドイツ軍はロシア全域を追い出され1941年の独ソ戦開戦時のポーランドまで撤退した。
日本側の状況
1943年、大本営は絶対国防圏を策定しマリアナ・パラオ諸島は防衛圏の要衝にする為、戦力増強を図った。連合軍はマーシャル・ギルバート諸島を攻略後、マリアナ諸島に迫ると予想され同方面の防衛を強化した。1944年2月に大本営は中部太平洋の陸軍部隊を統括する為に第31軍を新設、司令部をサイパン島に置いた。
アメリカ機動部隊は、1944年2月にトラック島を、同年3月にはパラオ諸島を空襲しその機能を喪失させた。トラック島の連合艦隊主力は空襲を受ける1週間前にはパラオへ向け移動していたため無事だったが、パラオも空襲されたことで古賀峯一連合艦隊司令長官は司令部をミンダナオ島ダバオへ移そうとして移動中に遭難してしまう。所謂“海軍乙事件”が起きてしまう。
漸減作戦に基づく決戦主義の日本海軍では新Z号作戦を策定しており、マリアナ諸島〜西カロリン〜西部ニューギニアに邀撃帯を設けて、ニミッツとマッカーサーの2方面で進攻してくるアメリカ軍を迎え撃とうとしていた。
しかし海軍乙事件により作戦構想が見直され軍令部が中心となって、2方向の予想侵攻ルートは合流してフィリピンに向かうものという一方的な想定と、帯よりも三角地帯で迎撃する方が艦隊決戦を行うには都合が良いという主観的判断で決戦構想がつくられた。
その三角地帯の内側にパラオがあり、サイパン・グアムの後方支援基地としても、パラオは日本軍にとって戦略的価値が急浮上していた。絶対国防圏の戦力強化に陸軍は満州や中国から兵力を引き抜きマリアナ・パラオ方面の防衛に回した。
しかし、大本営の予想よりもアメリカ軍の進撃速度が速く、第31軍の司令官小畑英良陸軍中将がパラオのペリリュー島に作戦指導中にサイパン島を攻撃され戻れなくなってしまう。そして上記のようにマリアナ諸島はアメリカ軍の手に落ちたのであった。
アメリカ側の戦略
マリアナ諸島を攻略中にアメリカ軍は戦略の再検討をした。日本攻略案には2つ案があり、①ニューギニア西方のモロッカ諸島からフィリピンを攻略し日本本土に侵攻する案、②フィリピンを無力化し台湾を攻略後に航空基地にして日本本土を海上封鎖し陸軍航空軍による戦略爆撃により日本を降伏させる案があった。
前者は特にマッカーサーが特に力を入れていた。フィリピンはアメリカの植民地だったが、マッカーサーの父の代から多くの利権を握っておりマッカーサー王国と揶揄されていた。マッカーサー自身はフィリピンを離れたかったがフィリピンでの雪辱をどうしても果たしたかった。後者は危険を冒しても日本を攻めることはせず、制空・海権を取り日本軍を閉じ込めておけば日本は飢餓に追い込まれ降伏するとニミッツが押していた。
ニミッツもマッカーサー案(フィリピンの脅威の排除)に同調したが、そこへアーネスト・キング海軍作戦部長が“フィリピンを迂回して台湾・中国南部に上陸して日本軍のシーレーンを破壊してから日本本土に侵攻するべきだ”と割って入った為に話が混乱し纏まらず、さらに会議中にサイパン攻略の陸軍と海兵隊の間でひと悶着あり海兵隊が陸軍の師団長を解任してしまう事態になり、今度は陸軍との調整に追われることになった(これは後にアメリカ議会に持ち込まれ政治問題になった)。
日本に限らず各国の陸海空の3軍の仲は悪く、予算・人員の取り合いで揉めていた。アメリカ軍もその例に漏れず、任務が重複する陸軍と海兵隊で縄張り争いをしていたが、それがサイパン攻略中に表面化したのだった。
アメリカ大統領のルーズベルトは元海軍次官で戦前から海軍贔屓であったが、政敵のマッカーサーが1944年の大統領選挙に立候補しない意思表示をしたのでフィリピン攻略を許可した。ただし確執が残ったのかフィリピン沖海戦では、ニミッツ指揮下のハルゼー大将率いる第3艦隊と、マッカーサー指揮下のキンケイド中将率いる第7艦隊で連携が取れないという事態となった。
早速マッカーサーはフィリピン攻略の準備を始めた。フィリピン攻略の障害になり尚且つ支援基地にするべく、パラオ諸島のペリリュー島とニューギニア西方にあるモロタイ島の攻略を進めることに決めた。
ペリリュー島とは
パラオ諸島はカロリン諸島の西部に位置している。ペリリュー島はパラオ諸島を構成する島の一つである。ドイツ帝国の植民地だったが、第一次世界大戦における勝利の成果としてドイツ帝国からの譲渡により日本の委任統治領になった。
1922年に南洋庁がパラオ本島のコロール島に設置されて内南洋の行政の中心となっていた。パラオに米食習慣を定着させ、茄子や胡瓜など野菜や農業を持ち込み、ツナ缶詰やカツオ節などの工場を作って雇用を創出した。ドイツ統治時代ではほとんど行われていなかったインフラ整備に力を入れ、道路を舗装し、島々を結ぶ橋をかけ、有線電話を通した。日本の企業が進出し、水産業、リン鉱石採掘業と小規模なパイナップル農業が企業化されていて、1943年にはパラオ在住者は33,000人おり、その内の7割は日本人であった。
国際連盟規約に基づく委任統治領の軍備制限により、パラオの要塞化など軍事的な根拠地を構築することは禁止されており、パラオ諸島最大の島バベルダオブ島(サイパン島よりも大きい)に民間用として小規模な飛行場があるだけだったが、日本の国際連盟脱退後は重要な海軍根拠地の一つとして整備が進められた。
1937年にパラオ本島飛行場の拡張とペリリュー島に海軍飛行場の新規建設が開始され、1941年の開戦時のペリリュー島には1200m滑走路2本が交差した飛行場が完成していた。
アメリカのペリリュー攻略計画
アメリカ軍はペリリュー攻略に休暇中の第1海兵師団を当てることにした。第1海兵師団はガダルカナル反攻からニューブリテン島のグロスター岬までの戦いを経験しており、海兵隊の中でも実戦豊富な部隊であった。唯一の不安は敵前強襲上陸の経験が皆無だったことで、それまでのガダルカナル島やニューブリテン島では島内のマングローブやジャングルが主な戦場だった。
アメリカ側は海軍乙事件や偵察機・潜水艦からの撮影で日本側の兵力を約1万程度とほぼ正確にすることが出来た。しかも、サイパン攻略時にパラオ周辺の日本軍兵力配置図を手に入れていたので裏付けも取れていた。
しかし、濃い熱帯林に覆われていた日本軍陣地や洞窟の脅威までは把握出来なかった。これが後にペリリュー攻略に大きく響くことになる。また、地図作成を急ぐ余りに地図作成の担当以外が作成していた。これも影響があった。
第1海兵師団長のルュパータス海兵少将は日米の余りの戦力差に“こんな小さい島2~3日もすれば攻略出来る”と全将兵達に向かって豪語した。またルュパータスは占領の暁には日本軍指揮官のサムライソード(軍刀)を持って帰って来て欲しいと幕僚達に伝えた。しかし、これまでに日本軍と戦った第1海兵連隊の連隊長ルイス・プラー大佐はルュパータスの楽観視を不安に感じていた。
もっともルュパータスにしても激を飛ばしたに過ぎなかったが、それでもタラワの戦いにように激しいがすぐに決着が付くと思っていた。
第1海兵隊団の予備兵力として陸軍の第81歩兵師団から1個連隊を待機させる予定だったが、陸軍の介入を嫌がったルュパータスは陸軍を排除して、予備兵力を1個海兵大隊にすることを決めた。この決定はジュリアン・スミス海兵遠征司令官の意に沿わぬものだったが、ヴァンデクリフト海兵総司令官と個人的な仲だったので、最終的にはルュパータスの希望通りに攻略部隊は海兵隊のみになった。
作戦を準備して行く段階でパラオ方面に展開中の日本航空戦力は先のパラオ大空襲で壊滅していることを見抜いたウィリアム・ハルゼー海軍中将は、“日本軍が要塞化している可能性があるパラオをこのまま避け、安全なウルシー環礁攻略を優先するべき”と意見を述べたが、作戦はすでに実施すると同盟国に通達済であったこともあり作戦は実行されることになった。
日本のペリリュー防衛計画
パラオ諸島には関東軍精鋭の第14師団を満州から転用した。栃木県宇都宮市に師団が置かれていた第14師団には満州からの復員兵が県民に餃子を紹介するなど、その後の宇都宮餃子の始まりとなるエピソードがある。ペリリュー島防衛の主力部隊である第2歩兵連隊は水戸に所在しており、茨城県の出身者が多数を占めていた。
第14師団は元々満州駐剳師団だったが南方へ転用されるにあたり、師団は大規模な改編が行われた。砲兵連隊・捜索連隊・工兵連隊・輜重兵連隊が解体されたかわりに歩兵連隊が増強され、師団戦車隊や師団海上輸送隊が編合された海洋師団と呼ばれる編制になっている。
ただし、配備予定の機関砲中隊などは輸送途上で失われ、独立工兵第22連隊を改編した師団海上輸送隊も、合流できないまま西部ニューギニアで活動した。しかしながら幸運なことに師団主力はアメリカ潜水艦の攻撃を受けることも無く無事に島に到着した。
パラオ本島バベルダオブ島には歩兵第15連隊と歩兵第59連隊が、ペリリュー島に歩兵は第2連隊と第15連隊より第3大隊、歩兵第59連隊より第1大隊がアンガウル島へそれぞれ上陸した。またペリリューには師団戦車隊も上陸した。
アメリカ軍の来寇に合わせて、日本軍は上陸が予想される南西部海岸に”イシマツ””イワマツ””クロマツ””アヤメ””レンゲ”と名付けたトーチカ群を事前に構築していた。それらは珊瑚礁の固い台地を利用し2〜3人が収容できる遮蔽されたトーチカが無数に掘ってあった。
浜辺には敵上陸を見越して地雷が埋設され、水際には上陸舟艇妨害用の杭を打ち機雷を敷設し、戦車の進撃を遅延させる対戦車壕も構築された。海岸のトーチカ群は十字砲火が出来るよう互いの射線をカバー出来るように設置させた。島には自然洞窟が500以上もあり、そこにも陣地を構築、洞窟同士を繋ぎアメリカ軍の攻撃で出入口を塞がれても別の穴から反撃出来るようにした。
また鉄筋コンクリート製の小さなトーチカも築かれ、速射砲(対戦車砲)が配備されていた。内陸部には、野砲や迫撃砲を配置するトーチカも築かれ、最も堅牢なものは1.5m厚のコンクリート製で出入り口にも分厚い鋼鉄製の扉が付けられていた。これらの砲は海上の艦船や航空機より直接は攻撃できないように工夫された配置になっており、高台にいる観測兵により正確な砲撃要請が行える体制となっていた。
サンゴ礁の硬い台地にした為、陣地の防御力が高かったが陣地構築に苦労した。兵士の手はサンゴの破片により切り傷だらけになった。
日本の防衛構想
ペリリューにおける日本側の防衛方針は堀情報参謀が作成した“敵軍戦法早わかり”を元に計画された。
元々日本陸軍は対赤軍での戦闘教義(ドクトリン)しかなく、対アメリカ戦は海軍の縄張りであったこと、相次いで玉砕してしまい詳細な戦訓が中々反映されないこと、現場から戦訓が上がっていたものの対赤軍に特化した組織の意識変更の難しいこともあり、それまでの戦闘は旧来の水際撃滅作戦で防衛計画を立てていた。
アメリカの豊富な物量により初回の反撃で返り討ちになる場合や、事前砲撃により海岸陣地を破壊され反撃も出来ない場合が多かった。
その中で対アメリカ戦を重視した指導書が“敵軍戦法早わかり”で、水際での陣地は艦砲や艦載機での爆撃により早期に壊滅してしまうので内陸に陣地を構築すること、夜間での戦闘は照明弾を打ち上げられ白昼化してしまい効果が無いことなどを盛り込んでいた。
パラオに向かう前に堀参謀から直々に指導されることになった。もっとも、この時には完成しておらず要点だけでも伝えようと南方への移動の直前の大連にて第2歩兵連隊の大隊長以上の幹部に向けて緊急会議を開いた。第2連隊長の中川大佐以下幹部達は堀参謀から指導を受け熱心にメモし質問するなど高い関心を持って臨んだ。
両軍の戦力
・歩兵第2連隊
・第3大隊(歩兵第15連隊より抽出)
第3通信隊
第214設営隊
第30建設隊
第30工作隊
合計10500人
・第1海兵師団
・戦艦 5隻
・駆逐艦 14隻
その他 上陸支援員
上陸前
アメリカ軍は8月下旬からビアク島などニューギニア北西部からの陸軍爆撃部隊が、9月6日からは空母群艦載機による予備爆撃に加え、9月12日からは戦艦5隻、巡洋艦9隻、駆逐艦14隻からの艦砲射撃と最近開発された新型爆弾“ナパーム”の爆撃を始めて、島内の日本軍陣地を焼き払った。艦砲射撃の余りの迫力に海兵隊員は”俺たち用のジャップはいるのか“と冗談を飛ばし合った。
上陸前と上陸中の支援として撃ちこまれた艦砲は合計6,894トンにおよんだ。上陸支援攻撃を指揮していたジェシー・オルデンドルフ少将は当時のいかなる支援より完璧で優れていると満足気だった。3日間に及ぶ激しい砲爆撃は、島内のジャングルを薙ぎ倒し、構築された障害物や防御施設を見渡す限り吹き飛ばしたが、それらはアメリカ軍に射撃効果を誤認させる為に設置された偽装にすぎず、日本軍の主要陣地はほとんど無傷であった。
上陸も2日前になると海兵隊員達は銃器の手入れを始めた。輸送船の両舷では照準の調整の為、小火器の試射音が響きわたり銃剣を砥ぐ光景があちこちで見られた。ガスマスクやメスキット一式を支給され、M1ヘルメットには迷彩カバーが掛けられた。
アメリカ側の作戦名はオペレーション・ステイルメイトⅡ。ちなみにステイルメイトとはチェス用語で“引き分け”を意味する。
上陸開始
上陸当日の9月15日午前5時半から西浜の海岸一帯への艦砲射撃が始まった。上陸前の海兵隊流の儀式として新鮮な卵とステーキが振る舞われた。軍用個人装備一式を装着し、下士官から簡単な注意事項(速やかに海岸を離れ内陸に進むこと)を受けLVT(以下アムトラックと記す)に乗り込んだ。
LVT通称“アムトラック”とは、それまでのLCVP上陸用舟艇“ヒギンズボート”に変わる上陸用トラクターで、ガダルカナルの戦いから後方支援車として補給物資の運搬や負傷者の輸送に使用されていた。タラワの戦いで、初めて実戦に使用され敵前強襲上陸に適していると判断された為、上陸作戦が多い太平洋戦線を中心に配備されていた。
“アムトラック”との通称は水陸両用トラクター(Amphibious Tractor)の略称“AMTRAK”から来ている。各型によるが最大30名を収容出来た。装備はブローニングM2重機関銃とブローニングM1919重機関銃が一丁ずつ上部に取り付けられていた。
船の船首からアムトラックが出撃した。そのまま上陸せず、船の外周を周りながら上陸開始まで待機していた。待機中に録音していたマッカーサーの演説が始まり、続いて海兵隊讃歌が流れた。
8時の上陸開始の少し前に艦載機50機の爆撃へ切り替わり、それから日本側の反撃を妨害するため発煙弾が打ち込まれて、上陸支援艇からの近距離援護射撃の下、第1, 第5, 第7海兵連隊の3個連隊12,000名を主力とする海兵隊が、第1波から第6波までに分かれて上陸を開始した。
アメリカ軍は上陸地点の南北3km弱の西浜を北からホワイト1, 2、オレンジ1, 2, 3というコードネームで5つに区分していた。ホワイトには第1海兵連隊、オレンジには第5連隊と第7連隊が向かっていたが、海兵隊が向かっている海岸には“全滅”しているはずの日本軍の各陣地が待ち構えていた。
海岸線に日本軍が設置していた障害物と機雷は、アメリカ海軍水中破壊工作部隊“フロッグマン”の活動と艦砲によってほぼ除去されていたため、上陸部隊は順調に海岸へ近づいていったが、珊瑚礁線に近づくと残存していた機雷によりアムトラック数両が大破した。その為、上陸部隊は一時混乱したがリュパータスは支援の為、もう一度発煙弾を撃ち込ませ混乱の沈静化を図った。上陸部隊は態勢を立て直すとまた海岸線への接近を再開した。
日本軍は中川大佐の命令により命中率を高める為、敵を徹底的に海岸に引き付ける事としており射撃を自重させていた。各5陣地を守る第5中隊を基幹とする主力部隊は、上陸部隊が目前に迫ると軍用犬で砲兵陣地に砲撃要請を行った。上陸部隊が数百mの至近距離まで接近したところで、射撃始めの命令が下された。特に中川大佐直轄であった野砲大隊は、山腹の洞窟陣地に配置されており事前の砲爆撃にもほとんど損害はなく、眼下に展開するアメリカ上陸部隊に一斉射撃を加えた。
突然の激しい砲撃でアムトラックの運転手は混乱し、上陸部隊の第1陣は砲撃をさけるように進み上陸地点を間違えてしまった。別の連隊の海兵同士が隣にいる混乱状況になった。上陸したアムトラックは(型式にもよるが)両側から乗り越えて外に降りる方式なので身を乗り出した瞬間日本兵に狙撃された。
釣瓶打ちの砲撃により第1陣の半数が釘付けとなり、そこを第5中隊が銃撃を開始し、海兵隊はさらに損害を被って煙幕を焚きながら海岸にしがみ付いていた。しかし第1波の上陸から1時間後には、アメリカ軍の第2波上陸部隊が西浜に殺到した。
日本軍は事前に野砲・迫撃砲の照準を珊瑚礁上に設定しており、上陸部隊は次々と撃破された。南部方面の海岸を守備していた(歩兵第15連隊)第3大隊の主力部隊は、前もって海岸線に強固なトーチカを設置しており、そのトーチカに設置した速射砲で上陸部隊を狙い撃った。
M4中戦車には貫通力不足な速射砲も、装甲が薄いアムトラックやアムタンク(アムトラックに75mm榴弾砲を載せた火力支援タイプ)に対しては過分な威力があり、上陸初日には60両以上が撃破されていた。
第1海兵連隊長のプラーの搭乗していたアムトラックも5発の砲弾を受け撃破された。プラーは先に上陸していた為無事であったが、降りる寸前の連隊幕僚や通信兵の乗っていたアムトラック5両が撃破され幕僚や通信兵が多数戦死し、第1海兵連隊間の通信ができなくなり上陸後8時間に渡って戦況が把握できなくなった。
また第1海兵連隊の15両の水陸両用型M4中戦車も集中攻撃を受けすでに3両が完全撃破され、他の車両も何らかの損傷を受けた。第1海兵師団は後に「太平洋戦争中で最も激しく混乱した戦闘」と評した。
支援射撃を指揮していたオルデンドルフは、壊滅させたはずの日本軍陣地から猛烈な反撃を受けている様子を見て非常な驚きを受けた。浜辺に到着したアムトラックの後方から海兵らが降車し日本軍のトーチカに迫っていったが、機関銃座による反撃で容易に前進できなかった。皮肉なことに日本軍が構築していた対戦車壕が塹壕代わりとなり緊急の避難場所となった。
対戦車壕は上陸の西海岸線全域に掘られていた為、海兵隊は壕内で反撃の態勢を整える事ができた。さらに幸運なことに海岸に多数埋設されていた日本軍の地雷の多くが海水で動作せず不発となった。一方で大量に残っていた海軍の航空爆弾を転用した急造対戦車地雷は少なからず作動した。多大な威力を発揮し地雷を踏んだアムトラックは吹き飛んだ。
前線より入ってくる報告は苦戦を知らせるものばかりで、上陸前は楽観的だったリュパータスら師団司令部は非常な不安に襲われ、直接状況を確認する為に副師団長のオリバー・P・スミス准将が海岸に上陸する事にした。
スミスらは第5海兵連隊と第7海兵連隊の上陸地点であった“オレンジ海岸”に向かった。“オレンジ海岸”はスミスが到着したころには対戦車壕で態勢を整えた第5連隊と第7連隊が内地に向かって前進を開始しようとしていたが、断片的な情報しか得られなかったリュパータスは“オレンジ海岸”に唯一の予備部隊である1個ライフル兵大隊を投入することにした。
しかし、通信機が破壊され連絡が取れなくなっていたブラー率いる第1海兵連隊がもっとも悲惨な状況で、死傷者は既に400名以上に達しており、最優先で予備部隊の投入が必要であったが、ルュパータスは知る由もなかった。また第1連隊内は指揮系統が完全に寸断されており、連隊を構成する部隊が日本軍陣地の中で散り散りに孤立しており互いに援護することも出来なかった。
日本軍の反撃
この状況を好機とみた日本軍は第1号反撃計画に基づき、反撃の戦力として温存していた九五式軽戦車を伴った歩兵共同による反撃をおこなった。17両の九五式軽戦車の車体には縄がまかれ、その縄を歩兵が掴み戦車跨乗での出撃となった。
戦車隊は第1海兵連隊と第5海兵連隊の中間点あたりに進撃してきた。第1海兵師団は今まで太平洋の戦場で日本軍の攻撃を何度となく撃破してきたが、この反撃は戦車と歩兵が連携した攻撃であり、今まで見たことが無かった。恐慌状態になり海岸へ引き返そうとする海兵を上官が無理やり戦わせるなどの一幕があった。
しかし装甲が薄い九五式軽戦車は、M4中戦車や多数揚陸済みであったM1バズーカで次々と撃破され、海岸付近まで達する事ができた車両はわずか6両であった。その6両も海兵隊の集中砲撃で次々と撃破された。
燃え上がる戦車から脱出した搭乗兵を海兵隊は次々と射殺していった。剥き出しの跨乗兵も次々に射殺されていった。生き延びたのはわずか2両となり反撃は失敗に終わった。
大損害を受けながらも海兵隊は日本軍トーチカを次々に攻略していった。仲間の援護射撃を受けながら銃座の死角に周り込み、梱包爆薬や火炎放射器でトーチカを次々に無力化していった。わずか1日でトーチカ群は全滅した。
夕刻遅くにようやく第1海兵師団司令部は第1連隊と連絡がつき、上陸初日の死傷者が1,111名と当初見込み500名の2倍に達した事や、その内の半分が第1連隊の損害であることが把握できたが、連隊長プラー大佐は援軍の申し出を拒否し、なんと連隊の後方支援要員(コックや憲兵も)まで前線に回し欠員を補充している。
第1海兵師団全体でも負傷兵が予想以上に出たため、医療品の不足が生じ放置される重傷者も多数に上った。また多数の輸送用のアムトラックが撃破されたため、前線に食糧や水を輸送することが出来ず、特に高温の中で水不足がアメリカ兵を苦しめた。
日が落ちて来ると、日本軍の通例である夜戦を警戒しアメリカ軍は守備陣地を構築し始めた。2名1組が入れる程のタコツボ壕を作り、あるいは砲撃で出来た穴を利用して陣地を作り始めた。日本兵の死体から記念品漁りに夢中になっていた若い海兵隊員を下士官が叱りながら夜までには急ごしらえの陣地が出来ていた。同士討ちを避ける為、合言葉が決められた。合言葉は日本人が発音し辛いRとLの音を使った単語を使った。
夜中、日本軍は“バンザイ突撃”をしない代わりに心理戦を試みたのか拡声器を使って罵詈雑言を浴びせてきた。それに煽られた海兵も大声で嘲り返すなど罵り合いが続いた。海兵隊はこのいやがらせに神経をすり減らす事となった。その隙に、攻略された日本軍陣地を日本兵が夜陰に紛れて奪還しアメリカ軍の後方を脅かした。
南部海岸で敢闘した(歩兵第15連隊)第3大隊の残存兵も夜間挺身攻撃に参加、アメリカ軍の前線突破に成功し、中には遠征軍司令官ジュリアン・スミス少将の指揮所にまで達した日本兵もおり、歩哨が発見し射殺した。しかし第3大隊も死傷者が60%まで達したので島南部に撤退した。
アメリカ軍は日本守備隊の完璧な防御戦術を見て、日本軍は緻密に各地区と連絡を取り合っており、その手段は伝書鳩と考えていた。その為、各大隊には散弾銃が配られ、ペリリュー島を飛ぶ鳥は片端から散弾銃で撃ち殺された。
飛行場横断(第5海兵連隊)
上陸2日目になってようやくアメリカ軍の前線の兵士に飲料水が届けられたが、洗浄が完全でない燃料用のドラム缶に入れられて来た為、水は錆と油で濁っており飲んだ者の多くが吐き出し体調不良となった。また多くの兵士が夜間に絶え間なく撃ちこまれていた日本軍の砲撃と罵倒合戦で寝不足になり十分に休息が取れていなかった。
そんな朝にリュパータス師団長ら師団幕僚達が状況視察にペリリュー島に上陸したが、戦況を確認するとみるみる不機嫌になり、上陸当日に最も大損害を被っていた第1海兵連隊には現状の膠着状態を打破し前面の高地を攻略、第5海兵連隊には飛行場の攻略、第7海兵連隊には島南端までの制圧をそれぞれ命じた。
第5海兵連隊の攻撃目標の飛行場は飛行場北方にある半壊した格納庫ある他、日本海軍航空機の残骸が唯一の遮蔽物であり、海兵隊は何もない開けた空間を数Kmも突き進まねばならなかった。
日本軍は飛行場を見下ろす高地から砲撃してきたが、攻撃開始前に連隊司令部が置かれていた塹壕に砲弾が命中し、第5海兵連隊連隊長バッキ―・ハリス大佐が重傷、参謀も死傷し連隊司令部が大損害を被ってしまった。
海兵隊員は神に祈りながら飛行場に突撃、遮蔽物のない開けた地形で日本軍のあらゆる火器の集中攻撃を受けた。砲撃でできた窪みや、飛行場に散乱する撃破された軍用機の残骸に身を隠し釘付けとなった。
第5海兵連隊には先のガダルカナルの戦いやグロスター岬の戦いを戦った古強者の兵士も多かったが、日本軍の激しい攻撃に容易に進撃できず、多数の死傷者を出した。第5連隊の兵士らは「ペリリュー島の飛行場を巡る戦いが、戦争中で最悪の経験だった」と回想している。
飛行場攻略には援護の為、戦車隊と第1海兵連隊が進出してきたが、それまでに飛行場で立ち往生していた第1大隊(第5海兵連隊所属)は戦闘能力を失っていた。また第1海兵連隊は前日までに500名の死傷者を出していたが、この日もさらに500名の死傷者を出し、人的損失は連隊の33%にも達することとなった。通常であれば最前線からは交代させるべきあるが、すでに予備兵力を使い果たした第1海兵師団にその余裕はなかった。しかし飛行場は援軍の到着もあり、日没までには陥落した。
ペリリュー南部の戦い(第7海兵連隊)
第7海兵連隊が攻略に向かった島の南部には、地形的には平坦地で日本兵の隠れられる場所はなさそうに見えたが、巧妙に構築された日本軍の陣地やトーチカ多数が待ち構えていた。第7海兵連隊は艦砲射撃や艦載機による航空支援を受け、日本軍陣地を1つ1つ着実に攻略しながら、前進を続け正午までにはペリリュー島の最南端に達した。
しかし、その頃には気温は40 ℃を超えており猛烈な乾きが多くの海兵隊を苦しめることとなった。前線に飲料水を運搬していた海兵を日本兵が次々と狙撃し、前線には中々補給されなかった。「飲料水の欠乏により兵士は干上がっている」と打電し、強烈な乾きの為に海兵達は動けなくなり作戦行動が困難となったので補給がくるまで陣地を構築し待機せざるを得なくなった。
南部地区では日本軍は地の利を得られなかった為、第7海兵連隊は他の地区と比較すれば順調に日本軍を掃討する事ができた。4日間に渡る島南部地区の戦闘で日本軍戦死者は2,609名にも達したが、第7海兵連隊の死傷者は497名のみだった。
捕虜を取らないことで有名だった海兵隊は、負傷している者や降参する日本兵も容赦なく射殺した。南部地区で生き残った日本兵はいなかった。(これは捕虜になると見せかけて自爆する可能性があったことも影響しているが、人種的な影響も否定できない)
尾根の戦い(第1海兵連隊)
海岸地区や飛行場周辺の攻防では、アメリカ軍に大きな損害を与えたものの、海岸周辺の日本軍陣地もほぼ壊滅した為、中川大佐は予定通りペリリュー島の山岳地帯に500個以上は存在すると思われる洞窟を駆使した持久作戦に移行した。
アメリカ軍はそれまでの戦いで繰り返された、“バンザイ突撃”を圧倒的な火力で撃滅し早期決着するという展開を望んでいたが、その傾向は全く見えなかった。
2日目までに1,000名の死傷者を出した第1海兵連隊は尾根の“通称ブラッディノーズ・リッジ”の攻略を命じられた。攻略する海兵隊は日本軍を見上げるような形になった為、日本軍に地の利があった。
攻略するアメリカ軍に対し日本軍は洞窟陣地を駆使して激しく抵抗した。洞窟陣地は内部で連結されており、相互に支援できるような位置に構築されていた。ある洞窟陣地から攻撃を受けた海兵隊が反撃しようとすると、日本兵は洞窟内部に引っ込み、今度は違う洞窟から攻撃を浴びるといった状況であった。
連隊長のプラーは各大隊を野戦電話で叱咤激励していたが、もっとも苦戦していた(第1海兵連隊)第3大隊のラッセル・ホンソウィッツ中佐から、攻略が上手く行かず200名の死傷者を出したのに戦果が捗々しくないとの報告を聞くと激昂した。
第3大隊には本来戦闘には参加しない連隊の司令部要員200名を補充したが、この時点で連隊の死傷者は1,236名にも達し連隊内での人員のやりくりではとても間に合わなくなった為、第1海兵連隊は師団参謀に補充を要請した。しかし予備兵力は既に使い果たしており、プラーは“上陸支援要員でもいいからよこせ、明日の夜までには1人前の海兵にしてみせる”と強く迫ったが、補充要請は却下され第1海兵連隊は現行戦力で作戦の続行を命じられた。
洞窟陣地攻撃に威力を発揮したのはM4中戦車であった。移動するトーチカと化した戦車は死角を随伴歩兵に守らせて前に近づき洞窟を発見すると片端から榴弾を叩き込み、1両当り1日で30か所の日本軍陣地を破壊していた。しかし図体が大きく狙い易い戦車の損害も少なくなく第1海兵師団の第1戦車大隊30両のM4中戦車の内、高地戦に至るまでに10両が破壊され、残りの車両も何らかの被害を受けた。
陣地を攻略されてもすぐに復活する為、破壊されたM4中戦車から砲弾を回収して戦わなければならないほど弾薬の消費も激しかった。また、日本兵はハッチから車外確認の為身を乗り出す戦車長に狙撃を集中させ第1海兵戦車大隊の戦車将校31名の内23名が死傷し、無事だったのはたった8名と戦車に搭乗しながら高い死傷率となっている。
第1海兵連隊は島南部の攻略を終えた第7海兵連隊の合流も受けて、引き続き尾根を強攻した。プラーは筋金入りの海兵隊員で、緻密な作戦よりは王道的な正面攻撃を重視する指揮であったが、すでに戦法を変えていた日本軍に対して、この指揮はあまりに代償が大きかった。
既に第1海兵連隊は兵員の半数を失っていたが、プラーは攻撃を緩める事を許さず、部下が窮状を訴えるも取り合わず「とっととあの忌々しい丘を落とせ」と命令する始末だった。
海兵隊は斜面に構築された日本軍の陣地を巡って激しい白兵戦を展開しており、夜間の戦いにおいて日本軍は手榴弾の投げ合いや銃剣格闘で攻撃してきたのに対し、海兵隊員は日本兵を陣地から素手で引きずり出すと崖の下に投げて落とすといった激しい格闘戦が繰り広げられた。
第1海兵連隊は多大な損害にもめげずに攻撃を続行し、中川大佐がウムロブロゴル山中核を中心に構築した、“通称ファイブ・シスターズ”に到達した。既に死傷者が1,500名以上にも達し戦力が大幅にしていた第1海兵連隊はこの陣地の攻略で致命的な損害を受ける事となった。
日本軍逆上陸(飯田大隊の出動)
ペリリュー島にアメリカ軍が上陸して1週間経った9月22日に第14師団の師団長井上貞衛中将はペリリュー島からの戦況報告を聞き、“米軍は消耗しており後一押しで撃退出来る”と判断し増援を送る事と決定した。
しかし中川大佐より“我々第2連隊だけで十分”と逆に増援を見送る電文が送られてきた。師団司令部としてもパラオにアメリカ軍のさらなる侵攻が予想される中で、ペリリューに兵力を注ぎこむことは避けたいとの判断もあり、最終的に歩兵第15連隊の第2大隊(飯田義榮少佐)を増援として、ペリリュー島に逆上陸することを命じた。バベルダオブ島には海上機動第1旅団の旅団輸送隊が配属しておりそれを利用することにした。
同日夜10時には第一陣として第2大隊第5中隊215名が大発動艇5隻に分乗し、パラオ本島アルミズ桟橋より出発した。途中でアメリカ海軍に発見されるもうまく回避し、7時間かけてペリリュー島北端のガルコロ桟橋に到達、揚陸作業中にアメリカ海軍機の空襲を受け大発動艇は全て撃沈されたが、人的損害は死傷14名に止まり、残りはペリリュー守備隊に合流した。
先遣隊の逆上陸成功の報に師団司令部は湧き立ち、「援軍は不要」と打電していた中川大佐も非常に感激した。師団司令部は次いで第2大隊主力の出発を命じた。命令を受けて第2大隊主力は総勢1,092名が大発動艇及び小発動艇合計29隻に分乗して23日の午後に出発した。
第2大隊の大隊長飯田少佐は大隊主力を4艇隊に分けて、場所や時間を変えてペリリューを目指したが、流石にアメリカ側も先日の日本軍逆上陸を察知しており、日本軍の増援を警戒していた。飯田少佐を含む第2艇隊は、駆逐艦まで投入して警戒するアメリカ軍を躱(かわ)しながらペリリュー島を目指していたが、全艇がペリリュー島近隣のガラカシュール島周辺の浅瀬に座礁してしまった。
ついにアメリカ軍は日本軍の意図を察し、ガラカシュール島周辺に激しい砲撃を加えアムタンクも差し向けた為、日本軍に死傷者が続出したが、飯田少佐らは浅瀬を徒歩もしくは泳いでペリリュー島にたどり着いた。
第3艇隊も同様にペリリュー島近隣のゴロゴッタン島周辺で相次いで座礁、そこを警戒していたアメリカ海軍艦艇に狙い撃たれ、撃沈され大破炎上する艇が続出した。大隊主力は合計で大発動艇8隻・小発動艇2隻が撃沈もしくは大破し、百数十名が戦死したが、残りはペリリュー島に上陸を果たした。
しかし部隊間の連絡が困難だった上に、大隊の一部がアメリカ軍部隊との戦闘となり多大な損害を被った為、27日時点で飯田少佐が掌握できている兵力は約400名と激減していた。
飯田少佐も中川大佐と同様にペリリューへの増援は無駄な戦力消耗にしか過ぎないと判断し、戦況報告と意見具申をする必要があったが、無線は海没しており連絡手段が無い為、誰かを伝令として警戒厳重な海を泳いで渡らせてパラオまで報告書を届けさせる必要があった。ペリリューからパラオ本島までは60kmもあり、泳ぎが達者を17名が選出された。
17名もの大勢の人数が選ばれたのは、非常に困難な任務であり、17名の内1人はたどり着けるだろうという最悪な状況を想定してからのことであった。9月28日にペリリューを出た伝令達は、互いに励ましながら潮流が強く波が高い海を不眠不休で懸命に泳いだが、途中で執拗なアメリカ軍機の機銃掃射を受け12名が戦死し残りは5名となった。途中の島で休息しながら10月2日にパラオ本島に到着した際は4名となっていた。
この命がけの遠泳伝令により、師団司令部は計画していた第二弾以降の増援計画を断念することとなった。その後飯田少佐らは悪戦苦闘しながらも9月28日に中川大佐の連隊主力と合流に成功した。
山岳の戦い(第1海兵師団の壊滅)
第1海兵連隊は強力な航空爆撃と艦砲射撃に支援されながら、引き続き日本軍の山岳陣地“ファイブ・シスターズ”の攻略を目指したが、損害ばかりが拡大し進撃は捗らなかった。この“ファイブ・シスターズ”という呼び名は、ペリリュー中部に連なる山岳地帯で5つの低い尾根が連なっている場所を称して名付けたものであるが、その連なる尾根には中川大佐指導の下で地形を最大限に利用して構築された、何重にも渡る縦深複郭陣地が待ち構えていた。
この陣地への攻撃中ガダルカナルで海軍十字章などの表彰を受けた歴戦の海兵隊員も命を落すか負傷した。そのような過酷な状況で、第1海兵連隊のC中隊は激しい戦闘の上、死傷者続出で中隊が90名に激減しながらも、標高100mの尾根“通称ウォルト・リッジ”の頂上に達した。
しかしそこは日本軍から丸見えで、四方八方から集中射撃を受けた上に、頂上奪還の為に反撃してきた日本兵との激しい白兵戦となった。ここでも今まで戦われてきた白兵戦と同様、日本兵は銃剣や日本刀で斬りかかり、アメリカ兵は小銃の台尻や時には素手で殴るといった激しい肉弾戦が繰り広げられた。
その後頂上を丸1日確保したC中隊であったが、手榴弾を投げ尽くし最後は石を投げるところまで追い詰められ頂上から命からがら撤退を余儀なくされ、その際の残存兵力はわずか9名になっていた。第1海兵連隊は激戦の中で傘下の第1大隊が壊滅したため、第2大隊と合流させたが、それでも通常の1個大隊分の基準兵力には大きく及ばなかった。連隊内部での人員のやりくりも限界に達しており、すでに炊事兵・ジープの運転手・憲兵・会計担当までを第一線に投入していたが、練度が低くまともな戦力にはならなかった。
9月21日に第3海兵水陸両用部隊司令官ロイ・ガイガー少将が戦況視察の為に海兵第1連隊司令部を訪れたが、その惨状を見て言葉を失った。プラーはガダルカナル島で受けた古傷が再発し歩行できなくなっており、担架に乗りながら作戦指揮をしていたが、疲労で憔悴しきっていた。兵員も約3,000名の連隊の定員の内1,749名が死傷しており、第1海兵連隊はまともに機能していなかった。
傘下の大隊の内、第1大隊の死傷率は71%に達しており事実上全滅していた。配下のライフル歩兵3個中隊(1個中隊は通常240名)の残存兵員は74名しかおらず、上陸時の小隊長は一人も残っていなかった。第2・第3大隊もそれぞれ56%と55%の死傷率であり事実上壊滅していた。それでもプラーは“ファイブ・シスターズ”を第1海兵連隊独力で攻略可能と息巻いていたが、ガイガーはその足で第1海兵師団司令部を訪れると“第1連隊は終わった”と言い放ち、リュパータスに陸軍の増援を求めるよう強く提案した。
しかしこの期に及んでもリュパータスは陸軍の支援を受ける事に難色を示した為、我慢の限界に達したガイガーはアンガウルの戦いで日本軍を撃破していた第81歩兵師団の予備部隊であった第321連隊をペリリュー島に移動させる命令を下した。
9月23日に交代が告げられた第1海兵連隊は、25日にはパヴヴ島へ移動する為に海岸まで撤退してきたが、第1海兵連隊の人数の少なさに第5海兵連隊の隊員達は衝撃を受けた。しかしそれは第1海兵連隊に代わってファイブ・シスターズ陣地に駆り出される事となった第5海兵連隊の将来の姿となった。
第5海兵連隊が大きな損害を被りながら攻略した飛行場には、島で激戦が行われていたにもかかわらず9月24日には早くも海兵隊の戦闘爆撃機部隊が進出していた。
海兵隊のパイロットはペリリューに到着すると即攻撃に出撃したが、飛行場から攻撃目標まではわずか15秒と第二次世界大戦中もっとも距離が短い爆撃航程であった。余りにも距離が近い為、航空機は離陸後に脚を格納する暇すらなかった。
日本軍は飛行場の運用を妨害する為、飛行場に向けて夜間攻撃をかけたが、その主力は逆上陸に成功した飯田少佐率いる第2大隊の残存部隊であった。飯田少佐は3名を1つの班とした斬り込み隊を組織し、夜陰に紛れ巧妙にアメリカ軍陣地に迫って斬り込みをかけた。
斬り込み隊は地下足袋を履き銃剣と手榴弾だけを持ち、音もなくアメリカ軍陣地に突入すると海兵隊を銃剣で刺殺し、発見されると手榴弾で自爆するといった決死の攻撃であった為、海兵隊も対策に苦慮し、日系2世兵士を使って降伏勧告促す放送を戦車に取り付けたスピーカーを通じて行い、ビラもばらまいたが返って日本軍の士気を高めただけだった。
日本軍の斬り込みによりアメリカ軍の飛行場要員にも100名以上の死傷者が出たが、飛行場の稼働を止めるまでには至らなかった。
ガブドス島の戦い(第5海兵連隊)
アメリカ軍のペリリュー攻略は第1海兵連隊の壊滅後、作戦の変更を余儀なくされ島南部から島中部山岳陣地への強行を断念し、島の西側の比較的日本軍の抵抗の少ない平坦地を掃討しながら島の北端まで制圧し、日本軍守備隊を山岳地帯に孤立させた後に日本軍の堅陣を突破できるルートを探す作戦に切り替えた。
残る第5海兵連隊と第7海兵連隊も第1海兵連隊程ではないがかなりの損害を被っており、第1海兵師団全体での死傷者は第1海兵連隊撤退時点で合計3,946名に達していた。
第5海兵連隊はペリリュー島北部にあるガブドス島に上陸作戦を行った。ガブドス島には、作りかけの小型機用の飛行場と日本軍の砲兵陣地があった為、砲兵陣地の制圧と飛行場を戦闘機用の飛行場として使用する為の作戦であった。また飯田大隊の逆上陸成功がアメリカ軍に更なる日本軍の援軍上陸の懸念を生じさせており、その防止の意味合いもあった。
ガブドス島にも日本軍はトーチカを構築していたが場所が平坦地であった為、戦艦を主力とする支援艦の艦砲射撃と航空爆撃と程なく無力化され、日本軍は470名もの戦死者を出したのに対し、第5海兵連隊の死傷者は50名であった。
山岳の戦い2(第7海兵連隊の撤退)
アメリカ軍の新たな作戦計画通り、中央の山岳地帯以外の地域については、第7海兵連隊と陸軍第321連隊によってほぼ制圧されたが、その後山岳陣地の攻略には劇的な進展はなく、攻撃した第7海兵連隊と陸軍第321連隊は第1海兵連隊と同様に日本軍の堅い守備に阻まれ損害だけが増えていた。
そのような状況下であったが、9月27日には、飛行場北端にある鉄筋コンクリート製の日本軍司令部跡に置かれたリュパータスの指揮所でアメリカ軍の勝利式典が行われた。北部山岳地帯での両軍による砲声が鳴り響く中で、式典は師団長と指揮下の連隊長と幕僚数名参席という簡素なものであったが、「勝利宣言」の直後の9月30日には第1海兵師団の死傷者は5,044名に膨れており、この後もペリリュー島の激戦は2ヶ月も続く事になる。
10月に入ってから、それまでずっと晴天であったペリリュー島にも雨が降り始めた。猛暑と乾きの中で戦っていた日本軍にとっては恵みの雨となったが、アメリカ軍にとっては、視界不良になったほか足元がぬかるむため、恵みばかりとは言えなかった。更に風雨が強まり、航空支援や補給物資の輸送にも影響が出るようになり、補給が滞るようになった。10月1日には海兵第1師団の唯一の戦車隊であった第1戦車大隊も疲労蓄積により撤退させられている。
10月3日には北部の掃討を終えた第5海兵連隊が山岳攻略に加わった。アメリカ軍は攻撃に先立って山岳地帯全体に激しい砲爆撃を加え機関銃が援護射撃を行う中で高地の斜面を前進していくが、砲撃をやりすごした日本兵が洞窟から反撃し死傷者が出始め進撃が停止し、今度は退避を援護する為に機関銃で援護射撃を行う中で、来た道を戻るといった場面が何日も繰り返された。
陣地に籠る日本軍は片時も目を離さずにアメリカ軍の動向を監視し、限られた弾薬を最大限に有効活用するよう務めており、日本軍の砲撃や射撃はアメリカ兵に最大限の損害を与えられると見極めた時に効果的に行われた。
特に日本兵が狙撃してきたときは、ほぼ例外なく誰かに命中しているとアメリカ兵が戦慄するほどだった。また日中は陣地に籠っていた日本兵は夜になると、アメリカ軍が夜襲警戒の為に絶え間なく打ち上げている照明弾の一瞬の隙をついて、砲撃で倒れた樹木や岩陰を利用して音もなく忍び寄り、アメリカ兵に夜襲をかけてきた。
音もたてずに近づいてくる能力は、アメリカ兵にとっては恐怖の的であり、アメリカ軍は対策として暗くなったら塹壕から出る事を禁止し、2人1組となって、1名が寝ているときは別の1名が寝ずの番を行うといった対策をとったが、それでも死傷者は減らなかった。
10月3日にはペリリューの戦いで海兵隊最高位の戦死者となった師団参謀のジョセフ・F・ハンキンス大佐が、前線視察中に日本狙撃兵に胸を撃ち抜かれて戦死している。
中川大佐は、アメリカ軍に心理戦を仕掛けるつもりで、アメリカ軍に対する降伏勧告文書を英語の達者に作らせた。そ中川大佐はこのビラを斬り込み隊に持たせアメリカ軍の陣地にばら撒いたが、アメリカ軍はその意趣返しか数日後に日本軍への降伏勧告のビラを大量に航空機からばら撒いている。しかし、両軍ともビラに書かれた内容を信じ降伏する兵士はいなかった。
上中将はその嵐の中を突いてパラオ各島から飯田大隊に続く増援を送ろうと画策したが、増援を懸念していたアメリカ軍の徹底したバベルダオブ島の船舶への攻撃により、部隊を海上輸送するだけの船舶を集める事ができず断念せざるを得なかった。
10月5日には第7海兵連隊が総力をかけた最後の攻撃を行った。その結果、第7海兵連隊は既に撤退している第1海兵連隊に匹敵する1,497名の死傷者を出していた。戦闘部隊としては既に部隊としての体を成しておらず攻撃失敗後に、第1海兵師団で最後に残った第5海兵連隊と交代しペリリュー島を後にした。
しかしこの頃になるとさすがの日本軍側の攻撃にも限界が見られるようになり、それまでは激しい砲撃と銃撃がアメリカ軍に浴びせられていたが、抵抗は散発的になり、より確実性を求めるようになっていた。日本軍の火砲は所定の成果を挙げると射撃を止めるようになり、戦場には静寂が訪れた。
日本軍も苦しんでおり、既に歩兵第2連隊の戦死傷者及び行方不明者は9,000名を超え、10月13日時点で中川大佐が掌握していた兵力は1,150名に過ぎなかった。
第1海兵師団の撤退
第5海兵連隊と陸軍第321連隊は山岳陣地を中心とした東西300m、南北450mの狭い地域に包囲することに成功していた。しかし第5海兵連隊も限界に達しており、10月15日にペリリュー島を離れる事となった。死傷者は第1海兵師団の中でもっとも少なかったとは言え1,378名に達していた。第5海兵連隊の撤退により、第1海兵師団の全兵力はペリリュー島から去る事となった。
包囲されている日本軍は10月17日にペリリュー島唯一の水源である池をアメリカ軍に奪われていた。その為水不足が深刻化し、日本軍は闇夜に紛れて水汲みに出かけたが、アメリカ軍はそれを狙い撃ち、日本軍は百数十名の死者を出す事となってしまった。
10月23日にはペリリュー島の攻略は完全に陸軍に引き継がれる事となり、「激しくて短い戦い」と宣言したリュパータスも飛行機でペリリュー島を後にしたが、宣言通り第1海兵師団単独で短期間に攻略できなかったという悔しさよりむしろ、ようやく最悪の戦場を後にできるという安堵の表情であったという。
海兵隊からペリリューの攻略を引き継いだポール・J・ミューラー陸軍少将は包囲網を慎重に縮めていく事で、これ以上の人員の消耗を避ける戦術を取ろうとした。新たな戦術として、ペリリュー島にふんだんにある珊瑚質の砂を利用し、土嚢袋を前線まで運び、車両が入れない狭い道などでは土嚢に砂を詰めると、兵士は土嚢ごと前進し日本軍の攻撃から防御する戦術を行い始めた。
この土嚢戦術は有効であり、固い珊瑚質の砂で出来た土嚢は、日本軍の小火器や迫撃砲の破片による損害を減少させた。また日本兵が潜んでいそうな洞窟を火炎放射器やガソリンを直接流し込んで焼き払い、爆薬で洞窟入口を爆破し生き埋めにしながら着実に攻略していった。
一方で、10月25日には包囲網を縮める戦いを行ってきた陸軍第321連隊が死傷者615名に達した為、陸軍第323連隊と交代した。アメリカ軍は次々と豊富な戦力を投入してくるのに対し、日本軍は増援も補給もなく次第に限界を迎えつつあった。
ついにアメリカ軍は10月28日には水源を鉄条網で囲い完全に遮断し、日本軍は乾きに苦しむ事となった。10月末時点で中川大佐が掌握していた兵力はわずか500名にまで減っていた。それでも日本軍は最後まで高い戦意を維持し戦い続け、攻撃するアメリカ陸軍第323連隊はたびたび苦杯をなめさせられた。
11月に入り8日までは再び訪れた台風で攻勢は中断となったが、その後は中川大佐の司令部洞窟のあるアメリカ側呼称“チャイナ・ウォール“を巡って最後の激しい戦いが続けられた。
“チャイナ・ウォール”の周辺は急峻な地形であり、陸軍の戦車が近づけず、アメリカ軍は榴弾や火炎放射器での攻撃ができなかった。この戦いの中で10月17日に日本軍の狙撃兵は、第323連隊第1大隊長レイモンド・S・ゲイツ中佐を射殺している。ゲイツの戦死はペリリュー島での陸軍部隊で最高位の戦死者となった。
ペリリュー島守備隊の玉砕 アメリカ軍の勝利
11月24日にはついに守備隊司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底を突き、司令部はいよいよ玉砕を決定、中川大佐は拳銃で自決。さらに村井権治郎少将(第14師団派遣参謀)、飯田少佐が自決した後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が本土に送られ、翌朝にかけて55名の残存兵力による“最後の突撃”が行われた。
11月27日、こうして日本軍の組織的抵抗は終わりついにアメリカ軍はペリリュー島の占領を果たすこととなった。南カロリン諸島の司令官J・W・リーブス少将は第81歩兵師団に労いの言葉をかけたが、“2~3日の作戦”は結果として73日もかかったことになった。
その後、第81歩兵師団の兵士が、守備隊司令部壕に入ると、中川大佐・村井少将・飯田少佐の遺体を発見した。3人の遺体は所持品により確認され、敬意をもって丁重に埋葬された。
ペリリューから後退した第1海兵師団はパヴヴ島にて再編成中であったがその中にはリュパータスはいなかった。個人的に親しいヴァンデグリフトの配慮により海兵隊学校の校長に任命されアメリカ本土に帰還していた。もっとも実際は第一線の実戦部隊指揮官からの明らかな更迭で、リュパータスの軍歴の終わりを意味していたが、ヴァンデグリフトはかつての部下のプライドを配慮し、ペリリュー島での功績を労う意味合いで作戦功労勲章を授与した。しかし第1海兵師団の中でリュパータスの離任に関心を払う者ほとんどいなかった。
ペリリュー守備隊の異例の奮闘に対して昭和天皇から嘉賞11度、師団司令部から感状3度が与えられ、中川大佐は死後に2階級特進し陸軍中将となった。
ペリリュー島上陸と同日にマッカーサーが率いる南西太平洋方面軍の陸軍部隊がモロタイ島に上陸した。ニミッツの海軍主体の中部太平洋方面軍との間で張り合う格好だったが、モロタイ島の日本守備隊は500名しかおらずアメリカ軍5万名に為す術もなくアメリカ側死傷者44名と軽微な損害だけで簡単に終了した。その後も日本軍により逆上陸も行われたが、結局は焼け石に水であった。
第1海兵連隊がペリリュー島から後退した頃には、アメリカ軍のフィリピン攻略の中継地点にモロタイ島が支援基地として利用されており、既にフィリピン沖海戦が行われており、日米の主要な戦場はフィリピンに移っていた。
同時期にアメリカ陸軍部隊が無血占領したウルシー環礁は天然の良港で、ペリリュー島より遥かに海軍基地を構築するのに非常に適した島であり、アメリカ海軍はここに巨大な後方支援基地を構築し、その後の硫黄島戦や沖縄戦での重要な拠点となった。
結果
以上のようにペリリューの戦いはアメリカ軍の勝利となったが、必ずしも手放して喜べなかった。
2~3日で攻略出来ると作戦を強行した結果、第1海兵師団は激烈な反撃を受け圧倒的な戦力差にもかかわらず第1海兵連隊を壊滅され、最終的には第1海兵師団も撤退しアメリカ陸軍部隊と交代した。
戦後ペリリュー攻略は意味があったのか作戦の意味が問われることになった。当初の目的であったフィリピン戦への航空支援基地としての役割についても、ペリリュー島の飛行場が整備されフィリピンへの支援が本格的にできるようになったのはマッカーサーがレイテ島に上陸してから1ヶ月も経った後の事であり、その時点ではペリリュー攻略は大きな戦略的価値を失っていた。
またアメリカ海軍のマッカーサー(陸軍)への対抗からも、また海兵隊のアメリカ軍部内での存在意義を示す意味(敵前強襲能力)からも、早期攻略が為し得なかったことでアメリカにとってのペリリュー攻略はすでに政治的にも価値はまったく無くなっていた。
海兵隊は自嘲気味に“損害が大きく利益が少ないのは海兵隊の伝統”と振り返った。ある海兵隊員は自国内の関心の低さに驚いた。特に家族達が、息子の戦っている島の地名を知らないことに衝撃を受けた。
これはルュパータスの2日ないし3日で戦闘は終わるとの話しを受け、ほとんどの従軍記者はペリリュー島に上陸しなかった為、アメリカ本国ではフィリピンの戦いの記事や同時期に起きたマーケット・ガーデン作戦が大きく取り上げられていた。
その後
ペリリュー司令部全滅後も他の陣地に籠っていた日本兵50名がアメリカ軍の掃討をかわし遊撃戦を展開した。1945年の時点には34名が生き残った。その34名はアメリカ軍の食糧貯蔵庫を襲撃し3年分の食糧を確保すると自作の刀剣と手榴弾で再武装し、アメリカ軍の遺棄物資や手作りの生活用品を用いながら2年近く洞窟内で生きながらえたが、1947年に澄川道男旧海軍少将の説得により投降した。この生き残りの34人は後に「三十四会」という戦友会を結成している。
第14師団主力があるバベルダオブ島にはアメリカ軍は上陸せず孤立状態になった。師団は敗戦まで自給自足した。ルュパータス少将は、この作戦の心労がたたったのか1945年3月に心臓発作で死去している。前述した通り関心が低くこの戦いは忘れ去られており知る人ぞ知る戦史になった。
日本でも近年ではドキュメンタリーなどで取り上げられていたが天皇・皇后両陛下の戦没慰霊のパラオ訪問、終戦記念ドラマや漫画などの影響により一気に知名度が上がり、ようやく幅広い世代でこの戦いが知られるようになった。
人的損害(資料によって差異があるので参考程度に)
・日本側
戦死者10695名
捕虜 202名
・アメリカ側
戦死者2336名
戦傷者8450名
※この他に戦闘疲労(PTSD)や熱帯病に掛かり戦闘不能になった兵士が2500~5000名
・現地人
関連動画
- 2
- 0pt