キョウトシチーとは、1991年生まれの日本の競走馬・種牡馬である。鹿毛の牡馬。
中央競馬と地方競馬の交流が始まった時期にホクトベガやライブリマウントらとともにJRA代表として交流競走を盛り上げた馬。そして2023年現在、とある1位の記録を有している馬でもある。
主な勝ち鞍
1995年: ウインターステークス(GIII)
1996年: シーサイドステークス(GIII)、東京大賞典(交流重賞)、名古屋大賞典(交流重賞)
1997年: 浦和記念(GII)、白山大賞典(GIII)
1998年: 白山大賞典(GIII)
※本馬の活躍時期を考慮し馬齢は旧表記(現表記+1歳)で記載します。
概要
血統など
父サッカーボーイ、母マウンテンクィーン、母父*ニゾンという血統。父は尾花栗毛の派手な見た目とこれまた派手な末脚一閃っぷりで人々を魅了した「弾丸シュート」。本馬はその初年度産駒である。母は4戦して未勝利。母父はNijinsky産駒で現役時代にイタリアの長距離GIを1勝、フランスの中長距離GIIIを2勝。社台ファームによって輸入されて種牡馬となったがズブ目の馬ばかりが生まれ正直成功とは言えなかった。産駒には地方重賞を制した馬もいるため本馬のダート適性は彼からだろう。
馬主は日本最初のクラブ法人であり「シチー」の冠名で知られる優駿ホースクラブ。調教師は史上初の厩務員出身調教師で、桜花賞馬ファイトガリバーや厩舎に初重賞をもたらし1991年の天皇賞(秋)でメジロマックイーンの斜行被害を受けて最下位入線した同馬主のプレジデントシチーなどを管理した中尾謙太郎師。全56戦中、約7割に当たる39戦で松永幹夫騎手が鞍上を務めた。
名前の由来は古都京都。ちなみに「シチー」という冠名は英語のCityからきているので、本馬は要するに京都市である。
生涯
1991年-1995年:誕生 ~ 初重賞制覇
1991年5月3日に若林牧場で誕生。ちなみに同じ年にともに交流重賞を戦ったライブリマウントが同牧場で生まれている。
1993年9月18日に阪神の芝マイル戦でデビューするが2着。その後3戦して2着2回と勝ちきれぬまま3歳戦を終える。明けて94年、初のダートを試してみるとここを快勝。中1週で挑んだ500万下も勝利。
しかし当時のダートは芝で走れない馬が行くところというイメージが強かったので次走は再び芝のレース、当然ながら6着に敗北。その後ダートを2戦するも勝てず、なんか出走できた菊花賞はナリタブライアンがどうこういうまでもなく10着に惨敗。ダートをもう1戦(2着)して4歳戦を終えた。
明けて1995年。この年は「交流元年」と呼ばれるように中央競馬と地方競馬の間での交流が進み、地方競馬所属のまま中央のGIなどのレースに出走出来たり(笠松のライデンリーダーが代表例となる)中央所属のまま地方開催の一部重賞(交流重賞という)に出走できるようになったりした。これはすなわち中央の少ない番組で争っていたダート馬たちの選択肢が大きく広がったことになる。現にこの年上述のライブリマウントが中央のダート重賞を連勝した勢いそのままに交流重賞に殴り込んで3連勝(うち2勝は現JpnIの帝王賞とマイルCS南部杯)している。
とはいえ当時の本馬はしょせん900万下を走っている馬、まずは実績を上げないとどうにもならない身である。年内2戦目の大島特別(東京・2100m)を勝利して1500万下に昇級するが、昇級初戦でまた芝試して大敗。その後夏までに4戦して勝てず、当時の制度により900万下へ降級。降級初戦で再び芝を走らせてみたがまたしても敗北。これで芝への未練を断ち切ってダートに専念することに。すると連闘した竜飛崎特別(函館・1700m)を勝利。1500万下も2戦で突破。勢いそのままにウインターステークス(GIII、現GII東海ステークス)に参戦すると先頭で粘りこみを図るアイオーユーをアタマ差捉えて重賞ウィナーとなり5歳を終えた。
96年・中央競馬の代表として
1996年は3月の名古屋大賞典(交流重賞)から始動。1番人気は前年のオグリキャップ記念(笠松)にて中央場を下していた地元名古屋のマルブツセカイオー。交流重賞初見参となった本馬は3番人気にとどまった。しかしレースは2着の伏兵アメージングレイスに1と1/4馬身差つける快勝。交流重賞初制覇を果たした。
しかし次走の武蔵野ステークス(GIII)で1.8倍の人気を集めながら3着に敗れると、続く帝王賞(大井)ではホクトベガの後ろで10着に惨敗。中9日で出たアンタレスステークス(GIII)、その1か月後のタイムス杯(オープン特別)も敗北。9月のシーサイドステークス(GIII、現エルムステークス)では7番人気まで落としていた。しかしここは3コーナー途中から先頭に立つと突っ込んできたヤエノジョオーをクビ差振り切って重賞3勝目、復活を果たす。
その後は再び地方遠征を行い東海菊花賞(名古屋)を6着、浦和記念をホクトベガの2着とし年末の風物詩東京大賞典(大井、当時は2800m)に1番人気で出走。ここには前年王者のアドマイヤボサツや名古屋大賞典でも争ったマルブツセカイオー、翌年の帝王賞を制すコンサートボーイらがいたが、最終直線半ばで粘るマルブツセカイオーを捉えるとコンサートボーイの追撃も退けて見事優勝。
……2023年現在の感覚ではこれでGI制覇となるのだが、実際問題本馬はGI級のレースを制した馬としては扱われない。というのも当時の交流競走にはグレードの概念がなく(できたのは翌97年の4月から)、どのレースも全部「交流重賞」というくくりだったのである。残念。
ついでにいうと最優秀ダート馬にもなれなかった。まあこっちは同年にホクトベガがダート8戦8勝とかいう化け物じみた記録出してるからノーチャンスだったけど。
97年
年初は川崎記念から始動したがドバイワールドカップを目指すホクトベガに軽くひねられて2着。まあホクトベガはドバイで引退予定だしそのあとはこの馬の時代…かと思いきや、1番人気に推されたダイオライト記念(船橋)は2着、連覇を目指す名古屋大賞典では3着。
ドバイでホクトベガが予後不良になったというとんでもない報が入ったのちのオグリキャップ記念(GII)でも2着。続く武蔵野ステークス(GIII)では4着、帝王賞(GI)では6着、ブリーダーズゴールドカップ(旭川、GII)では5着。前年同様勝ちきれなくなってしまう。
しかし秋を迎えると再び復活。白山大賞典(金沢、GIII)にて重賞5勝目を挙げる。その後東海菊花賞(GII)を2着すると浦和記念(GII)を勝利して重賞6勝目。連覇とGI級制覇を目指して東京大賞典に乗り込んだが新星トーヨーシアトルに3馬身ぶっちぎられて連覇はならず。それでも船橋の地方総大将アブクマポーロに先着したのは前年覇者の意地だろうか。
98年以降
98年はなんと世界最高峰の舞台であるドバイワールドカップ(GI)に参戦し6着と健闘。帰国後はブリーダーズゴールドカップを2着、白山大賞典では連覇を達成。いまだ衰えないところを見せたが続く浦和記念は4着、東京大賞典は9着と惨敗。
99年は始動戦の川崎記念(GI)で2着に入るもその後3戦は掲示板外に沈み、東海ステークス(オープン特別、現在のGII東海ステークスとは別物)で2年9か月ぶりに中央のレースを制したもののそれが最後の勝利となり、3連覇を目指した白山大賞典で5着に敗れたのを最後に引退した。
2000年からは種牡馬となったが特筆するような産駒は出ないまま2009年に種牡馬を引退。その後2011年に20歳で死亡した。
獲得賞金について
本馬は6年間・56戦にも及ぶ競走生活の中で重賞7勝を含む13勝を挙げ[13-12-8-23]、中央では2億2435万円、地方ではなんと4憶435万円を獲得。この合計金額6億8270万はあのナイスネイチャを上回りGI未勝利馬としては史上最高金額である。
この後にステイゴールドがGIを勝てないままにこれ以上の金額を稼いだものの、最終的にはGIを勝利したためにこの珍記録は25年近くに渡ってキョウトシチーのものとなっている。2023年12月現在、いまだ現役のディープボンドがGI未勝利のまま本馬を上回る賞金を稼いでいるが、果たしてどうなるか。
血統表
サッカーボーイ 1985 栃栗毛 |
*ディクタス 1967 栗毛 |
Sanctus | Fine Top |
Sanelta | |||
Doronic | Worden | ||
Dulzetta | |||
ダイナサッシュ 1979 鹿毛 |
*ノーザンテースト | Northern Dancer | |
Lady Victoria | |||
*ロイヤルサッシュ | Princely Gift | ||
Sash of Honour | |||
マウンテンクィーン 1982 黒鹿毛 FNo.18 |
*ニゾン Nizon 1975 栗毛 |
Nijinsky | Northern Dancer |
Flaming Page | |||
Exit Smiling | Stage Door Johnny | ||
Chandelier | |||
ヤマカクイン 1972 鹿毛 |
*バーボンプリンス | Princequillo | |
Lyceum | |||
フエンス | トサミドリ | ||
クロサト | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Northern Dancer 4×4(12.50%)
関連動画
97年白山大賞典とドバイワールドカップ。
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関連項目
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