丹羽氏重(にわ・うじしげ、1569~1584)は、戦国時代~安土桃山時代の武将。尾張国の人物。
概要
父は織田家臣、丹羽氏勝。
ちなみに織田四天王の丹羽長秀の家系(児玉丹羽氏)とは縁はない。ちなみに丹羽長秀には丹羽長重という息子がいる。名前が似ていて紛らわしい。氏重の家系は足利氏の庶流一色氏の出のため一色丹羽氏といわれる。
19歳離れた兄に丹羽氏次がいる。
父は1580年、佐久間信盛、安藤守就とともに織田家を追放されている。
兄氏次とまだ幼かった氏重は追放に巻き込まれなかったようで、氏次は甲州征伐に信長の息子の信忠の軍団に組み込まれている。氏重も傍示本城の城主となっており、追放された父が隠居場所として過ごしている。
本能寺の変後に丹羽兄弟は、信長の次男織田信雄と不和になり、徳川家康に仕える。
1584年、羽柴秀吉と徳川家康&織田信雄の間で小牧長久手の戦いが起こる。
丹羽兄弟の城はまさに小牧長久手の戦場に隣接しており、兄の氏次は道案内として徳川家康に従軍していた。
氏重は兄の居城岩崎城の番をしていた。
所変わって豊臣方は池田恒興、DQN森長可、堀秀政、羽柴秀次などが家康の軍団の横腹をつく「中入り」という奇襲のため岡崎城へ移動を開始していた。その数なんと約2万。
そして不運なことになんと岩崎城は中入り部隊の進路上にあった。
当初、中入り部隊は、小城の岩崎城を無視して岡崎城に向かおうと城の前を横切った。
池田恒興「奇襲なので当然。」←フラグ
しかし、2万なんて大軍団の移動が静かなはずがなく、氏重はこの移動を察知する。
これを見た丹羽氏重、おもむろに鉄砲を持ってきて池田隊めがけてぶっ放した。
丹羽氏重「見過ごすは末代までの恥。」
銃弾は見事に恒興の馬に命中、恒興は落馬する。これで怒った恒興、完全に奇襲ということを忘れて攻城戦を開始する。
池田恒興「黙って通せば見逃してくれたものを…(#^ω^)ビキビキ」←フラグ
岩崎城は氏重や家老加藤景常含め約200名。池田恒興の率いる一番隊は約6000名。単純計算で30倍である。しかも後ろではDQNがアップを始めたようです。
氏重は池田隊を3度撃退するなど数時間奮戦したが、森長可隊が援護に加わり氏重が討ち取られ落城した。氏重はわずか16歳だったという。家老加藤景常ら城兵約200名もすべて氏重に殉じたという。
岩崎城を落とした池田恒興、森長可隊だったがここで数時間粘られたことが痛恨だった。
なんと遥か後方の羽柴秀次隊が丹羽氏次が先導した徳川軍によって敗走したのだ。突くはずだった自分たちが横腹を突かれる形になってしまった。「中入り作戦」は見事失敗、中入り隊は堀秀政隊以外はほとんど壊滅し、長久手の戦いで池田恒興、森長可は討死した。
長久手の戦いにて緒戦の局地的勝利をした徳川家康は
「一番の戦功者は、池田勢を足止めした丹羽氏重である。」
といい兄氏次に3000石(5000石とも)を加算したという。氏次はのちに大名に列せられたが、その陰には19歳離れた弟の氏重の活躍があることを忘れてはならないだろう。
信長の野望シリーズにはまったくでないほどマイナーな武将だが、この記事によって少しでも知名度が上がるのであれば、氏重好きな作成者としては幸いである。ちなみに戦国無双などでは出てく(ry
丹羽氏重は銅像となって岩崎城(愛知県日進市)で今日も観光客を迎えている。
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