千葉邦胤(ちば・くにたね 1557 ~ 1585)とは、戦国時代の武将、戦国大名である。
概要
生涯
27代・千葉胤富の次男。兄で28代当主の千葉良胤が反北条の姿勢を見せて家臣に追放されたため、1572年頃、家督を継ぐ。妻は北条氏政の娘。
関東八屋形のひとつに数えられた千葉氏もすっかり衰退してしまい、北条氏に従属してなんとか大名として命脈を保っている状態であった。また家臣の原氏や高城氏が北条氏から半ば独立大名扱いされるなど衰退は著しかった。そんな中でも邦胤は名門としての意地を見せ、何度も戦場へと出陣している。また、織田家が武田家を滅ぼし、滝川一益が使者を送ってくるとそれに対し
信長、勝頼を討滅して北条を侮る、たとえ氏政氏直父子は信長に屈伏せらるる事ありというとも、我は何ぞ渠を畏れんや
と啖呵を切って、使者を追い返している。神流川の戦いでも北条方として参戦。
1585年1月1日(※1588年とする説もある)。
新年の宴が千葉氏の本拠・本佐倉城で行われていた。そこで事件が起こる。近習で配膳係の桑田(鍬田とも)万五郎が壮大な屁をかましてしまったのである。それも2発。
一度目は笑って許していた邦胤も二度目には激怒して万五郎を衆目の面前で叱責する。すると万五郎も開き直り「出物腫れ物所構わずというでしょう」と反論。正月から一触即発の雰囲気が漂い、邦胤が刀を抜こうとするのを他の家臣が諫めて、なんとかその場は収まった。万五郎は家臣に預けられることとなる。
5月、同輩の嘆願もあり万五郎は赦された。しかし万五郎は恨みを忘れていなかった。ある深夜、邦胤の寝所に忍び込むと短刀で二刺しして逃走した。
邦胤は「あの憎い小倅にやられた、早くあいつを討ち取れ」と言い残すと間もなく息を引き取る。享年29。万五郎は追手に見つかったところを自害した(処刑されたとも)。
後継者・千葉重胤はまだ10歳と幼く、代わりに北条氏政の息子・千葉直重を養子に送り込まれて、千葉氏は完全に北条氏の傀儡と化したのであった。そして5年後の小田原征伐で北条方として改易。江戸時代を通して二度と復興できなかった。
なお邦胤と万五郎はアッー!な関係にあり、その痴情のもつれがこの事件につながったという説もある。どちらにしろ1000年関東に続いた名家は非常に情けない最期を迎える事となってしまった。
補足
もう彼の時代に千葉家がプレイ大名として存続している事は嵐世記くらいで、いち北条家臣としての登場が多い。特にこれといった逸話もないので非常に平平凡凡なステータスである。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
天翔記 | 戦才 | 112(B) | 智才 | 62(B) | 政才 | 86(B) | 魅力 | 62 | 野望 | 47 | ||||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 34 | 戦闘 | 36 | 智謀 | 51 | 政治 | 39 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 23 | 智謀 | 34 | 政治 | 27 | 野望 | 52 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 47 | 知略 | 37 | 政治 | 28 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 47 | 知略 | 37 | 政治 | 28 | 教養 | 43 | ||||||||
革新 | 統率 | 53 | 武勇 | 41 | 知略 | 36 | 政治 | 32 | ||||||||
天道 | 統率 | 53 | 武勇 | 41 | 知略 | 36 | 政治 | 32 | ||||||||
創造 | 統率 | 51 | 武勇 | 50 | 知略 | 41 | 政治 | 40 | ||||||||
大志 | 統率 | 50 | 武勇 | 50 | 知略 | 44 | 内政 | 40 | 外政 | 38 |
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関連項目
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