生きる意味を失う(あるいは、生きる意味を…失う…!)とは、レスリングシリーズ「パンツレスリング外伝 激闘編」において、いかりやビオランテが5:12付近に発する哲学的空耳である。
解釈
パンツレスリングシリーズでの、最も哲学的な発言の一つである。
「生きる意味」とは何なのか。誰がそれを失ったのか。
これについては様々な解釈があるが、ここではひとつの示唆という形でその答えを提示する努力をしてみよう。
かつてイングランドの国家哲学者トマス・ホッブズは、人類の自然状態を『万人の万人に対する闘争』だとした。つまり、我々人間は自己保存の無限の欲求を持つが故に、他者より優位に立とうとする。我々は皆、常に普遍的な闘争状態のもとに置かれているのである。
ここでガチムチパンツレスリングは、このホッブズが主張する『万人の万人に対する闘争』状態のひとつのモデルとして登場する。常に争い、憎し合う醜悪な人間の姿をレスリングという手法になぞらえることによって余すところなく見せた次の瞬間、ビオランテと野薔薇ひろしの『闘争』は思わぬ方向へと進化を遂げるのである。
つまり、ここでビオランテが野薔薇ひろしを暴力によって超越し、野薔薇ひろしに対する闘争状態を終結させてしまうのである。人間の本質たる闘争状態が消失してしまうことにより、ビオランテは人類を超克した存在、つまり『ロッカールームの神』として高位次元に昇華する。一方、野薔薇ひろしは頚動脈を圧迫されることによって気絶し、無限である筈の人間の自己保存の欲求を「アンインストール」されてしまう。暴力的とはいえ、人間の本質たる自己欲求を満たすために継続されねばならなかった闘争状態を失うことにより、野薔薇ひろしはもはや人間としてはおろか生物としてすら存在することは出来ない。つまり、"闘争"という「生きる意味を失」ったのである。
人類の闘争状態をパンツレスリングという事象になぞらえ、醜悪に描き切るという、一見意地の悪いこの試みは、この闘争状態を超克しようとせず、獣の如く本能的に争い、憎しみ合って血を流す我々人類への強烈なカリカチュアとしても見ることが出来るのである。
もう一つの解釈は、自分自身に向けての吐露ではないかという解釈である。
TDNコスギを倒し、パンツレスリング界の頂点を、垣間見た過去の自分。
しかし、頂点には更に兄貴という果てがあった。
幾ら上り詰めようとしても、自分には無理なのではないか――
たった今、勝者となっているはずの自分に、ふと不安が過ぎる。
かつて自分が考えていたことは、本当に真実なのだろうか。
果たして今得るような勝利、それだけがパンツレスリングの全てなのだろうか?
彼はかつてのパンツレスラー、ビオランテとしての生きる意味を、失う。
「――アンインストール」
もう一度、ゼロから始めよう。レスラーとしての一期一会にこそ価値を見出そう。
彼はそう考えたのかもしれない。
解釈の答えは、もしかするとビオランテが最後にひろしに対して行ったフェアリーテイクアウトの、その真の意図にこそ隠されているのかもしれない。
残る謎
このパンツレスリング界の金字塔である哲学的名言の前に、ビオランテはツンデレに関する幾つかの発言を残している。
「ツンデレね」「(良い度胸してる)ツンデレです」「ダブルツンデレ」という発言がそれである。
果たしてこれが何を意味するのか。
一般的に、これらが指すものはアイドルマスターのキャラクターである水瀬伊織であると看做されている。
度々の「くぎゅううううう」という発言のとおり、ビオランテが既に釘宮病の感染者である事は周知の事実であり、彼のアイマスへの造詣の深さを裏付ける証左であるが、しかし、ゆきぽの熱狂的ファン、あるいは特別な関係にあると目されているビオランテが、敢えて彼女に言及する理由は何なのであろうか。
1つ考えられることは、ゆきぽこと萩原雪歩はアイマス内で随一の小心者(=ヘタレキャラ)であること、
逆に水瀬伊織が、先述の空耳のとおり、ゆきぽと真逆の、良い度胸をしているツンデレキャラということである。
もしかするとビオランテは、「俺はゆきぽをダブルにした程のヘタレだ」という自省を「ダブルゆきぽ!!」という言葉に込めており(そして、だからこそビオにとって、ゆきぽは他人と感じられない特別な存在なのである)、そこからの成長の決意を込めた宣言こそがすなわち「ダブルツンデレ」なのではないだろうか。
それはゆきぽへの決別ではなく、むしろゆきぽを守ろうとすればこその、カズヤで言えば「強くなりたい…」と同義の、ビオランテなりの決意ではないかと考えられるのである。
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