公家成大名とは、豊臣政権時にのみ存在した官位秩序である。
関連要素として武家清華家(清華成大名)、諸大夫成についても述べる。
1585年7月、羽柴秀吉は関白に就任、武家官位ではなく正式な朝廷の役職で公家のトップになってしまった。その結果起きたことが、関白の特権として多くの家臣が六位以下の諸大夫に任官、さらに各地の大名を五位以上の高位役職に就けたのである。
武士が武家官位として勝手に官途名を名乗る、または上司の大名から与えられることは戦国時代に入ると近隣での抗争で有利に立つためなどの理由からしばしばみられるようになった(足利将軍家のみつくことになっていた左馬頭ですら、である)。しかしこの任官は日本全国に一定の秩序をもたらすものとして行われ、基本ある官職には一人しか任命されず、たとえ豊臣家に服属前に名乗っていた武家官位でも豊臣家内にその官職を与えられている者がいたら公式に名乗れず、といったことが行われたのである。
この中でさらに上位のものになると貴族の中でも上位に当たる清華家と同ランクにまで到達し、例えば徳川家康は豊臣秀吉が亡くなった直後に内大臣であったため、公家の世界ですらトップになってしまっていたのである。こうした人々は清華成大名、または武家清華家と呼ばれ、清華家の特権である関白との飲食や天皇との同席が可能となったのである。彼ら清華成大名は秀吉同様諸大夫を持つことができるので、家臣の多くが諸大夫成することとなっている。
なお、公家成以上の特徴は羽柴苗字を与えられていることである。
ただしやっぱりいろいろあったからか、江戸幕府成立後は禁中並公家諸法度で貴族が付く朝廷本来の官位から切り離されたうえで、改めて武家官位制が成立したのである。
もともといわゆる五大老に+豊臣、信雄系織田の7家だったが、織田信雄の改易、刑死急死もろもろで減り、その後養子の件で小早川が、そして時期はわからないが三法師こと織田秀信が加わり7家に戻った(足利義昭も条件は満たしているのだが、まあ…)。
参議にまでは上りつめている人々であり、参議になっても必ずしも清華成できるわけではないことを示す例である。
上に出てきていない豊臣家譜代は基本ここである。また毛利家臣や徳川家臣も多くがここに属し、文禄・慶長の役の影響で九州の大名のほぼすべてが順次ここにランクアップしていった。
単独では大宝寺、南部、相馬、佐竹東家の佐竹義久などもここにいる。
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最終更新:2024/05/06(月) 10:00
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