京極高次(1563~1609)とは、四職・相伴衆の名門である宇多源氏・京極氏の末裔であり、様々な偶然が重なって自家を生き延びさせた蛍大名である。
京極氏は宇多源氏佐々木氏の傍流であり(嫡流は六角氏)、鎌倉時代には得宗に接近して評定衆の家系にあり、南北朝時代の佐々木道誉の活躍でもおなじみの家である(正直足利義詮時代こいつにだいぶ引っ掻き回されたとか言ってはいけない)。
四職といえば山名氏、一色氏、赤松氏、(さらに言えば土岐氏)とことごとく足利将軍家に一度は何かしら出る杭はたたかれたメンツばかりであるが、京極氏は常に勝者の側に立ち、足利義満に重用された京極高詮、足利義教に重用された京極持光、加州家の祖となり足利義教とともに嘉吉の乱で奮戦し亡くなった京極高数、といった具合に常に足利氏と歩みを同じくし、佐々木氏の多くが奉公衆や外様衆など将軍近臣として取り立てられていったのである。
むろん足利義政の時代の京極持清もそうであった。彼は山名氏との対立から細川氏側につき東軍の将として西軍についた六角氏などと争った。彼の嫡男京極勝秀を六角氏庶流の六角政尭と結ばせて近江を席巻する。ここまではよかったのである。ここまでは。
しかし、勝秀は1468年に若くして病没、京極持清は1470年ようやく応仁の乱が収束しかかってきたころに亡くなった。そこで何が起きたかというと家督をめぐる勝秀の嫡子・孫童子丸と庶子・乙童子丸、それぞれを擁立した勝秀の弟・京極政光と京極政経、守護代の多賀高忠と多賀清直の争いである。要するに甥っ子を旗頭に叔父たちが対立してしまったのである。
しかし孫童子丸は1471年と早くに亡くなり、さらに乙童子丸を掲げた政光派は西軍に寝返り、同じころようやく南近江を回復させつつあった六角高頼と結んだ。政経は六角政尭とともにこれを防ぐが、政尭が戦死すると情勢が変わり、政光は斎藤妙椿の協力もあり近江を奪回したのである。政光が亡くなると成長した乙童子丸、つまり京極高清と多賀清直・多賀宗直親子が北近江を支配した。
これに対し京極政経は出雲へ逃亡して雌伏の時を過ごした後、軍勢を整えて息子の京極材宗とともに1475年に上洛、高清との間に溝ができていた多賀宗直と協力した。高清は何度も逃亡を繰り返したものの30年にもわたる戦乱の末についに高清の勝利に終わったのである。…がこんなことをやっているうちに飛騨も出雲も隠岐も失うのであるが。
そして話はまだ終わらない。京極高清の後継者をめぐり1523年、嫡男の京極高広と高清が推す次男の京極高吉の争いが始まってしまったのである。この争いに近江の国衆たちは自家の権益拡大を狙い積極的に介入していった。その一人こそ浅井亮政である。
彼らの協力で勝利した京極高広であったが浅井氏を筆頭にした国衆たちの権力拡大を見かね高清と和睦、北近江は六角氏と結んだ京極氏と浅井氏を筆頭にした国衆との戦いに陥る。そしてその結果朝倉家の調停で両者は和睦し、京極氏は浅井氏の庇護の下に入る。浅井氏はその後浅井久政の下六角氏との協調路線に入るも、高清の死後京極高吉は再度六角氏と結びついて北近江を奪取しようとした。そこで起こったのが浅井長政のクーデター・および六角氏を敗走させた野良田の戦いであり、京極氏の再興はかなわなかったのである。
その後京極高吉は足利義輝の近習として過ごし、永禄の変ののちは足利義昭に付き従うが明智光秀や細川藤孝らと同様織田信長に従い、嫡子である京極高次を人質にして以降は隠居した。1581年まで生きていたようで、妻が京極マリアであるように熱心なキリシタンだったとされる。
こうして人質生活から彼の人生は始まる。1573年に浅井氏がようやく滅亡された後、10歳であった彼は織田信長から奥島に5000石を与えられてその家臣となった。はっきり言って織田家臣時代の彼について語ることはほとんどない。
その最初の転機となったのは1582年の本能寺の変である。妹の嫁ぎ先であった若狭武田氏の武田元明同様・旧領回復を狙った彼は秀吉の長浜城を攻めてしまうのである。しかし義兄弟であった元明と違い、彼は元明の妻である京極竜子が秀吉の側室となったことから許され、近江高島2500石を与えられ臣従することとなった。
彼は九州征伐・小田原攻めなどを経て大名についに復帰1595年には大津城6万石を与えられていた。加えて彼の妻は秀吉の側室であった茶々、羽柴秀勝の正室でありのちに徳川秀忠に嫁ぐ江の姉妹である初だったのである。嫁や妹の力で出世していく彼は「蛍大名」とうわさされあまりよく思われていなかった。
そんな彼を二度目の転機が訪れる。関ヶ原の戦いである。いったんは成り行きで西軍についた彼だったが、東軍に寝返り大津城に籠城、西軍の一部を引き付けることに抵抗する。関ヶ原の戦いの前に落城することとなったが、彼がひきつけた西軍の別動隊はついに本戦に参加することができなかったのである。
その功績から若狭小浜8万5000石を与えられ、弟である京極高知の家系が孫の代で大名としては改易されてしまったのに対し、以降も出雲松江、播磨龍野、讃岐丸亀の藩主として幕末まで続いていく。
そしてついに明治維新を迎え守護大名出身の家では数少ない華族になる家となったのである。
正直そこそこの内政屋としかいいようがない。大津城の戦いでは結局開城したことが響いているのだろうか。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 55 | 政治 | 60 | 魅力 | 67 | 野望 | 69 | 教養 | 70 | ||||
覇王伝 | 采配 | 57 | 戦闘 | 53 | 智謀 | 30 | 政治 | 62 | 野望 | 69 | ||||
天翔記 | 戦才 | 106 | 智才 | 60 | 政才 | 124 | 魅力 | 67 | 野望 | 59 | ||||
将星録 | 戦闘 | 47 | 智謀 | 55 | 政治 | 63 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 52 | 戦闘 | 31 | 智謀 | 55 | 政治 | 58 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 38 | 智謀 | 45 | 政治 | 49 | 野望 | 57 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 36 | 知略 | 47 | 政治 | 49 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 36 | 知略 | 47 | 政治 | 50 | 教養 | 63 | ||||||
革新 | 統率 | 43 | 武勇 | 38 | 知略 | 53 | 政治 | 52 | ||||||
天道 | 統率 | 48 | 武勇 | 38 | 知略 | 67 | 政治 | 58 | ||||||
創造 | 統率 | 47 | 武勇 | 47 | 知略 | 65 | 政治 | 58 |
掲示板
14 ななしのよっしん
2023/08/02(水) 11:08:16 ID: gYb6C5Cc/f
最終的に勝ち馬に乗れたわけだし
経歴をみても全能力+10くらいはしていいと思う
15 ななしのよっしん
2023/09/22(金) 10:03:19 ID: Q3So/ARu7t
👎確定だけど、山内みたいな臭いと生きざまや生理的にムカつくから嫌だよ。
最近の信長の野望の勝ち馬を見極める、失敗を糧にした知力は妥当。
16 ななしのよっしん
2024/01/28(日) 22:08:53 ID: kvHYwF0jfK
大津城の戦いって一週間続いたのか。3日程度と勝手に思ってた。
毛利や立花相手に一週間粘るのはたいしたもんでしょ。
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最終更新:2024/04/28(日) 20:00
最終更新:2024/04/28(日) 20:00
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