蒙古聯合自治政府とは、1939年から1945年にかけて存在した国である。
かつて蒙古(モンゴル)は清国の支配下に置かれていた。1911年に清国が崩壊すると、蒙古はすかさず独立運動を開始した。しかしソ連と中華民国の干渉を受け、外蒙古はソビエト領に、内蒙古は中華民国領になって独立の夢は泡と消えてしまった。
時は流れて1931年9月、満州事変が発生。これをモンゴル独立の好機と捉えた一人の男がいた。彼の名はモンゴル人のカンジュルジャブ。1925年に帝國陸軍の士官学校に入学していた過去もあり、関東軍に顔が利いた。関東軍からの支援を受け、青年を集めたカンジュルジャブは蒙古独立軍を編成。関東軍の作戦に協力した。1932年3月に満州国が樹立されると、カンジュルジャブの軍は興安南の警護に充てられ、カンジュルジャブはその参謀長に就任。反乱軍の討伐に奔走する。チンバス・ハーンの末裔である徳王は1933年、中国国民党総統の蒋介石に内蒙古自治政府の設立を要求し、無事許可を得る。同時に関東軍から接触を受け、徳王は対日連携を決意。満州国で協議を行い、軍事的・経済的援助の確約を取り付けた。
1937年7月、支那事変が勃発。徳王は昭和天皇と謁見し、陸軍大臣の板垣征四郎に蒙古の独立を訴えた。これにより10月28日に蒙古聯盟、察南、晋北の3つの自治政府が誕生する。統治を円滑にするため11月22日に3つの自治政府によって協同委員会が設立されたが、上手く機能しなかった。日本は12月27日駐蒙兵団を新編し、3つの自治政府を警備した。1938年、中国共産党軍が領内に侵入。7月3日にカンジュルジャブ少将率いる軍が迎撃のため派遣され、中共を撃破。逆に侵攻を行って12月までに約5000名を打ち倒した。中共の侵入に伴って駐蒙兵団は駐蒙軍に改名し、北支那方面戦闘序列に加えられた。
やがてギグシャクしている3つある自治政府を1つにしてしまおうという考えが生まれ、1939年9月1日にモンゴル駐留の日本軍によって蒙古聨合自治政府が樹立された。形式上は汪兆銘政権の下にある自治組織であった。
蒙古聨合自治政府は1939年9月1日に産声を上げた。初代主席には徳王が就き、首都は張家口に置かれた。政体は共和制で、一党独裁の体制が築かれた。各地には防共目的で日本軍が常駐し、内蒙古を「特殊防共地域」と発表した。軍備としては3個旅団からなる蒙古鎮圧部隊が結成され、後方地域の警備や敵対勢力の掃討に従事。徳王政権は対日協力の体制を取り、あらゆる面で補佐していった。政府樹立とともにサッカーチームが作られたが、ちょうどFIFAが戦争で中断期になっていたため加盟できなかった。
1941年2月、徳王が訪日。蒙古聨合自治政府を国として認めてもらいたかったが、それを果たせずに無念の帰国と相成った。とはいえ8月4日、蒙古自治邦政府に改名。半独立国状態となる。12月8日に大東亜戦争が勃発し、日本を始め枢軸国が次々にアメリカへ宣戦布告していったが、蒙古自治邦政府は参加しなかった。1942年8月8日に行われた満州国建国十周年慶祝東亜競技大会に自前のサッカーチームが出場。しかし日本のチームに0-12で惨敗しており、弱かった。
そしてついに最後まで独立する事は叶わなかった。1945年8月9日、ソ連が対日参戦。関東軍と支那派遣軍の連携を断つべく蒙古にも襲い掛かってきた。赤き津波は、うねりを伴って首都張家口に向けて猛然と突進してくる。中将に昇進していたカンジュルジャブは第9軍管区を預かる身になっていて、ソ連軍を迎え撃った。しかし劣勢は明らかで、8月12日に奉天方面への退却を命令。その後、副官とともに姿を消して指揮を放棄した。一方、根本博中将率いる駐蒙軍もソ連軍と交戦。ポツダム宣言受諾による停戦命令とソ連への投降が命じられたが、現地軍は悪逆なソ連軍を前に投降は現実的ではないと判断。非戦闘員の脱出を見届けてから、後退。中華民国に投降した。
8月15日に後ろ盾の日本が降伏した事で、8月19日に蒙古自治邦政府は崩壊。新たに成立したモンゴル人民共和国は真っ赤かであり、徳王を逮捕して中共に引き渡してしまった。
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最終更新:2024/04/27(土) 20:00
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