金子重輔とは、幕末の草莽の志士の一人。吉田松陰の最初の弟子として知られる。別名重之助(しげのすけ)。
概要
天保2年(1831年)2月13日、萩の染物商の家に生まれる。
嘉永6年(1853年)、江戸長州藩邸の雑役になる。江戸で儒者・鳥山新三郎の私塾に入門。そこで熊本藩士・永島三平から影響を受け、海外渡航を志すようになる。
同年12月、鳥山や永島の知人の長州藩士・吉田松陰がロシアの軍艦に乗って外国に行こうとしていることを知り、長崎から江戸に戻ってきた吉田に志を話して弟子入り。
翌嘉永7年(1854年)1月に米国艦隊が再来すると、吉田と共に密航する事を企て、3月に下田に赴いて吉田と小舟に乗って米国艦隊のミシシッピ号、次いでポーハタン号に接近。米国への渡航を希望したが、米国側から拒否されたため陸に戻って自首。四月に伝馬町の牢に投獄される。
9月、吉田と共に萩に護送され、再び投獄。護送中籠から出ることを許されず衰弱していた金子は病に侵され、翌安政2年(1855年)1月11日に獄死。享年25。
吉田は金子を「真に我が友」と呼び、漢詩でその死を悼み、同志たちに募って金子のために『冤魂意草』と題した詩集を編んだ。
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