六角義賢(ろっかく・よしかた 1521 ~ 1598)とは、戦国時代の近江の守護大名・戦国大名である。六角氏15代当主。出家後は六角承禎(ろっかく・しょうてい)と号した。
はじめ浅井氏を従属下において中央政権に介入するなど精力的に活動するが、徐々に新興勢力たちの登場で雲行きが怪しくなっていく。そんな中で観音寺騒動と呼ばれる内紛が勃発、家中が混乱する中で織田信長の侵攻を受け、本拠地を追われた。
その後は甲賀忍者の協力でゲリラ戦を仕掛け続けたが、信長包囲網の崩壊と共に歴史の表舞台から姿を消す。
六角定頼の子。父・定頼は多くの先進的政策を駆使して六角家の最盛期を築いた名君。また、義賢の姉妹はそれぞれ管領・細川晴元、若狭の武田信豊、美濃の土岐頼芸、伊勢の北畠具教と各地の名門守護大名に嫁いでいる(北畠氏とは伊賀を巡るライバル関係なので和睦の意味合いが強いか)。しかし、この義兄弟たちはこの後ことごとく新興勢力の前に滅亡していくのだが……そして六角氏も……。
家督を譲られる前から共同統治の形で政治に参加する。京都を追われた将軍・足利義晴を匿ったりもしている。1546年には義晴は近江で息子・足利義輝に将軍位を譲るが、この時の義輝の烏帽子親は(本来担当するべき管領・細川晴元を差し置いて)父・定頼が務めている。それほどの存在感を六角氏は持っていた。
1549年の江口の戦いでは、1万の兵を率いて細川晴元・三好政長の援軍に向かうが、政長が先走って戦死してしまい間に合わずに終わる。これをきっかけに晴元は没落し、三好長慶が中央の実権を握る事になった。
1552年に父が死去して正式に家督を継承。なお同年、斎藤道三により美濃守護の土岐頼芸が追放され、頼芸を保護している。引き続き晴元や義輝を援護して三好長慶と戦うも、戦況は思わしくなかった。ただ一方で、北近江を領する浅井久政を従属させることに成功している。
1559年、早くも隠居して息子の六角義治(当時15歳)に家督を譲る。といっても実際には六角氏の長として君臨し続けており、父の代と同じく共同統治の形であった。
1560年、浅井家中で方針を巡る対立が悪化、反六角を掲げる一派により久政が隠居させられ、浅井長政が家督を継ぐ。続けて野良田の戦いが勃発。これが六角方の敗北に終わり、浅井氏の独立を許してしまった。これ以降、出家して「承禎」と号する。
こうした状況から、対浅井を目的に美濃の斎藤義龍と同盟を組むことになる。ただ承禎はこの同盟には乗り気ではなかったようで「あのどこの馬の骨とも分からん血筋の奴らと手を組むなんぞ…」的な書状を残している(※現存する)。この書状が発見された事で斎藤道三の国盗りが父子二代によるものと分かったのだが、ここでは省略。先述の通り承禎にとって斎藤氏と言えば、義兄弟の土岐頼芸を追放した存在なので、当然っちゃ当然の反応である。こちとら名門ですし。
腑に落ちない部分はありつつも対浅井の策は整いつつあった…が、1561年、抵抗を続けていた細川晴元が遂に三好氏に捕縛・幽閉されるという事態が発生する。
これを受けて河内畠山氏(尾州家)の畠山高政と共同で京都へと進軍。久米田の戦いでは三好実休を戦死させ、三好氏を京都から駆逐する事に成功した。その後はしばらく京都の統治者となる。畠山高政はこの機に三好氏をなんとしても叩くべく、飯盛山城を包囲するなど戦いを続行していたが、承禎はそれ以上の援軍を出し渋っている。理由は不明。結局、畠山勢が敗北・壊滅するとさっさと京都から引き揚げて、三好氏とも和睦してしまった。そこまで余裕がなかったのか、適当な落とし所を探っていたのか。
1563年。進藤貞治と並び「六角両藤」と呼ばれる重臣・後藤賢豊を、六角義治が暗殺するという大事件が起こる。
この事件の原因は様々な推測が成されているが、基本的には「義治が大名権力の強化を狙った」というのが定説。だが結果的には家臣たちの大反発を招き、一時は承禎・義治ともども観音寺城を追放される事態となった。最終的に「六角氏式目」という分国法を定める事になるが、内容は大名権力を制限するというマグナカルタ的なものであり、義治の行動は完全に裏目に出てしまった。この事件が原因で、六角氏は本格的な戦国大名になる事ができず、没落へと繋がっていってしまう。
一説に、承禎と義治の内部対立が原因とも言われる。承禎時代から重用されていた後藤賢豊を排除して、承禎の権力を弱めるという親子喧嘩だった、という話である。以前の斎藤氏との同盟でも父子の意見は対立しており、二頭体制は上手くいっていなかったようだ。
翌1564年、長年対立してきた三好長慶が病死して、畿内の情勢はまた慌ただしくなってくる。そしてこの怒涛の渦にやっぱり六角氏も巻き込まれていく。
1565年。将軍・足利義輝が三好三人衆らによって暗殺される。
難を逃れた義輝の弟・一乗院覚慶(足利義昭)を近江に保護し、初めは協力的に接していた承禎たちであったが、1566年には密かに三好三人衆方に寝返った事が発覚、義昭は若狭へと逃れていく。
この義昭保護時に、承禎らの仲介で信長の妹・お市の方と浅井長政の婚姻が成った。結果としてはその後の寝返りで、この斡旋が自身の首を絞めることになる。
1568年、美濃の斎藤氏を滅ぼした織田信長が足利義昭を奉じて上洛を開始する。既に三人衆側についていた承禎は抵抗の意思を露わにするが、吉田重政が守る箕作城(みつくりじょう)は木下藤吉郎の夜襲を受けて、たった一晩で落城。それを聞いた承禎・義治親子は観音寺城を捨てて甲賀へと落ち延びていった。
この行動は、祖父・六角高頼が幕府からの討伐を受けた際、甲賀の国人たち(いわゆる甲賀忍者)の協力を得てゲリラ戦術を展開、粘りの戦いで観音寺に復帰した事に倣ってのものだった。
一方、六角家臣団は多くが信長に降った。観音寺騒動で承禎たちを匿ってくれた蒲生定秀・賢秀父子も以降は織田家に仕える(賢秀の息子が、信長の娘婿となった蒲生氏郷である)。
その後はひたすら甲賀を拠点にゲリラ戦を仕掛け続ける。信長包囲網に参加して、南近江の各地を激しく攻め立てた。浅井長政も包囲網側に寝返った事で、一時信長は近江戦線ではかなりの苦戦を強いられることになる。
しかしその後は、和睦と各個撃破を駆使した信長の戦略の前に、1573年に浅井氏・朝倉氏が滅亡、武田信玄も死去した事で包囲網は瓦解する。こうなると承禎たちだけの力では対抗しようもなく、その後は歴史の表舞台から姿を消した。
以降は抵抗せずに隠棲していたとも、伊賀惣国一揆や石山本願寺と共に抵抗していたとも諸説あるが、六角氏が大名と呼べるような勢力を復興する事はなかった。
こんな感じですっかり過去の人になっていた承禎だったが、豊臣秀吉の天下統一後にひょっこりと再登場する。晩年は義治と共に、秀吉の御伽衆として仕えている。観音寺落城のきっかけになったのが秀吉の夜襲だった事を思うと、奇妙な縁である……。1598年、秀吉死去の5ヶ月前に死去。享年78歳。
どうにも守旧的・保守的な行動が目立つ人物といえる。息子と対立したり家中をまとめられなかったりと、組織のトップとしてもちょっと困った御人である(たった7年で隠居したのも何かあったのだろうか?)。同じ佐々木一族である京極氏が、浅井氏の下克上で早々に没落したにも関わらず、織田・豊臣政権に上手く取り入って復活、近世大名として生き残ったのとは対照的である……。
家臣・吉田重政から日置流(へきりゅう)弓術の家伝を半ば強引に伝授してもらっている。なおその後、重政の息子にちゃんと返伝しているのでご安心を。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける六角義賢(六角承禎)の能力一覧。
初期のシリーズでは(近江が一国扱いで浅井領のため)伊賀に追いやられていたりする。偉大な父に比べると武勇以外は二流といった感じ。しかし革新や天道では弓適正Sを持つなど、近年は一芸特化型に。包囲網崩壊以降は京都辺りを浪人しているので、保護してあげよう。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | 45 | 政治 | 63 | 魅力 | 90 | 野望 | 72 | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 43 | 政治 | 48 | 魅力 | 73 | 野望 | 74 | 教養 | 71 | ||||||
覇王伝 | 采配 | 73 | 戦闘 | 68 | 智謀 | 55 | 政治 | 37 | 野望 | 69 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 140(B) | 智才 | 110(C) | 政才 | 102(B) | 魅力 | 74 | 野望 | 79 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 67 | 智謀 | 55 | 政治 | 50 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 60 | 戦闘 | 49 | 智謀 | 38 | 政治 | 41 | ||||||||
嵐世記 | 采配 | 52 | 智謀 | 36 | 政治 | 35 | 野望 | 74 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 49 | 知略 | 36 | 政治 | 34 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 52 | 知略 | 36 | 政治 | 33 | 教養 | 63 | ||||||||
革新 | 統率 | 58 | 武勇 | 72 | 知略 | 55 | 政治 | 37 | ||||||||
天道 | 統率 | 58 | 武勇 | 72 | 知略 | 55 | 政治 | 37 | ||||||||
創造 | 統率 | 55 | 武勇 | 68 | 知略 | 59 | 政治 | 42 | ||||||||
大志 | 統率 | 54 | 武勇 | 66 | 知略 | 60 | 内政 | 43 | 外政 | 48 |
掲示板
15 ななしのよっしん
2021/12/19(日) 22:31:07 ID: OQoS8HhvSg
一回畠山と組んで三好と戦った(教興寺の戦い)けど負けて和睦して観音寺騒動が起きて大名権力弱体化したところに将軍が逃げ込むとか地雷も良いところだからな…
それまでは地蔵山の戦いや久米田の戦いで一度三好を京から叩き出したり三好実休討ち取ったり活躍してるけども
16 ななしのよっしん
2022/01/15(土) 21:21:47 ID: l4jJBF3U9C
17 ななしのよっしん
2023/06/22(木) 12:13:54 ID: djDNayF3mL
>>13
いろいろな面でワンパンチ足りない感じがする。
家の歴史は同じくらいでも世が世なら将軍になる可能性が1%でもあったのは今川氏真の方だし、
弓術も家臣の方が師匠というか達人だったしね…。
あと息子のせいだが信長に敗れたというよりも自滅する形で家が弱くなったのもマイナスだと思う。
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最終更新:2024/04/25(木) 14:00
最終更新:2024/04/25(木) 14:00
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