宗義調(そう・よししげ 1532 ~ 1588)とは、対馬国の戦国大名である。宗家17代当主。宗晴康の子。
1542年に室町幕府12代将軍・足利義晴より偏諱を賜り、宗義親(よしちか)と名乗る。1552年には父より家督を継ぎ、翌年には13代将軍・足利義輝から更に偏諱を賜り義調に改名した[2]。
名君と名高い父の跡を受け継ぎ、貿易・農産業において心血を注いだ。特に朝鮮との貿易は莫大な利益が発生する、宗氏の生命線であったため、1547年の丁未約条の規制緩和を求める交渉を粘り強く続けていたが、不調に終わっていた[3]。
1555年、朝鮮で達梁倭変(乙卯倭変)と呼ばれる倭寇来襲事件が起こると、朝鮮の倭寇討伐に協力し、交渉を有利に進める下地を築いた。功を奏したのか、1557年に丁巳約条が結ばれ、規制も緩和されて三浦の乱前とはいかないが、貿易による収入が増加した。
1559年に15代・宗将盛の弟・津奈調親らが謀叛を起こすが、これを鎮圧して調親を誅殺する。1566年にまだ35歳にも関わらず、養子・宗茂尚(15代将盛の子)に家督を譲った。隠居しながらも補佐役として実権は握っていたが、病弱な茂尚は早世。続いて茂尚の弟・宗義純を養子・新当主としたが彼もまた若くして亡くなった。
1579年、将盛四男で先の二人の実弟にあたる宗義智(はじめ宗昭景)を養子とし、彼を20代当主とした。ただし実際には義調が引き続き政務を取った。永禄・天正年間の対馬の実力者として君臨し、豊臣秀吉の九州征伐の際には当主に復帰し、秀吉に陣中挨拶をして本領を安堵され、宗氏の存在感を知らしめた。
九州征伐後の秀吉にとって国内に残る大きな敵は北条氏しかおらず、東北の伊達氏も蘆名氏も南部氏も秀吉の敵ではなかった。そして、九州の向こうに君臨している李氏朝鮮をも従属させたいという思惑を抱き始めており、宗氏に朝鮮との交渉を命じる。だがその内容は、一年以内に李氏朝鮮が秀吉への従属を表明しなければ朝鮮へと出兵する、という過酷(というかムリゲー)なものだった。義調はこれは対馬の行く末を左右する一大事と考え、秀吉の朝鮮出兵を回避するために李氏朝鮮と交渉するも、志半ばで病死した。
過去2作に登場。近年の作品には壱岐と対馬が未実装のため登場していない。登場できれば一級内政屋として優秀な活躍ができるであろう。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録 | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 68 | 戦闘 | 52 | 智謀 | 56 | 政治 | 79 | 野望 | 60 | ||||
天翔記 | 戦才 | 104(C) | 智才 | 112(B) | 政才 | 158(A) | 魅力 | 68 | 野望 | 62 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - |
掲示板
1 ななしのよっしん
2023/01/23(月) 19:38:57 ID: YsH3qu0x4F
新生で復活めでてぇ
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最終更新:2024/05/11(土) 17:00
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