小笠原秀清 単語

オガサワラヒデキヨ

1.2千文字の記事

小笠原秀清(?~1600)とは、小笠原備前守、つまり京都小笠原氏の嫡流で15世紀に活躍した武将である。
小笠原少斎と書けばピンと来る人もいるかもしれない。

これまでのあらすじ

京都小笠原氏といえば、信濃守護小笠原氏の庶流であり、室町将軍師範として将軍に代々武故実を伝えた奉公衆、その中でも少しランクの高い節朔衆系にあたる。このは官途別に4つのに分かれており、嫡流にあたる備前守、庶流の美濃、播磨守、刑部少の4流が存在する。

彼らの属する奉公衆明応の政変をきっかけに解体に移ると、戦国大名国衆として人領層が自立していく一方、守護庶流、足利氏根本被官といった層は以後も詰衆番衆などとして在し、将軍近侍していった。

小笠原氏はそもそも、備前守小笠原政清が、足利義材故実の相伝をおこなうなど明応の政変以前の義材との関係は悪くなかった。しかし明応の政変が起こると、自分の属する三番衆番頭、大館政重とともに義材に見切りをつけ、京都小笠原氏は足利義澄に仕えたのである。

かしここで備前守に一大事が起こる。小笠原政清の死後、唐突に息子小笠原尚清も亡くなり、幼い小笠原稙盛に変わって刑部小が台頭したのである。さらに足利義澄落して、将軍職に足利義稙が再びつくと、刑部小は義澄とともに落し、播磨守だけが重用されたのである。やがて、足利義晴の代になると備前守が復権し、播磨守は後北条氏のもとへ去っていった。このように庶の伸長甚だしく、相次ぐ中央政局の変動によって備前守はその地位を脅かされていたのである。

小笠原秀清の生涯

小笠原備前守足利義輝の代に申次衆へと編入される。1563年ころ、申次として活動がみられるようになったのが、小笠原秀清である。である小笠原稙盛は能登近江に在し、能登畠山氏、六角氏などと関係を結ぶこともあったが、結局在することを選んだようだ。

そして永八年、1565年に三好義継松永久通らの足利義輝襲撃である。その際奉公衆の2割ほどが亡くなり、また生き残ったものも足利義昭の流浪に付き従ったものも多かったが、小笠原秀清は在継続していたのである。しかし足利義栄に積極的に出仕していたわけではなく、小笠原稙盛が足利義昭営に意を通じ所領をされていることが確認される。

そして足利義昭が上し、やがて追放されると、小笠原稙盛、小笠原秀清子はこれに付き従わなかった。以後同織田氏政権と関係を持ち、織田信長が亡くなると、丹後に下向して細川藤孝を頼った。以後細川被官として、京都小笠原氏は存続していったのである。

そして1600年、関ヶ原の戦いである。小笠原秀清は、細川ガラシャ石田三成勢の人質にならないよう死を選ぼうとする中、彼女介錯を務め、その後殉死したのであった。

子孫はその後も細川士として存続していく、丹後、豊前小倉、肥後熊本へと移っていった。

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