山内首藤経俊(1137~1225)とは平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
父親は山内首藤俊通、母は山内尼で本領は相模国鎌倉郡山内荘。平治の乱の時には病床にあり父・俊通、兄・山内首藤俊綱が戦死したことで家督を継ぐ。
そして1180年源頼朝が挙兵したのだが、山内荘を源義家を介して得たほどの譜代で、母親・山内尼は頼朝の乳母であったにもかかわらず、安達盛長の挙兵の求めに応じなかったうえに暴言を吐き、大庭景親に従った。石橋山の戦いでは頼朝に矢を放ち、富士川の戦いの後に降伏した際、斬首を命じられそうになったところ山内尼の求めもあってかろうじて生き残ることとなったのだ。
助命後は土肥実平にあずけられ、1184年に志田義広を討ち取った功績から伊勢国守護となる。1185年には源義経に包囲されるも耐えきった。その後伊賀の守護も兼ねることとなる。しかし1204年の三日平氏の乱で守護所を捨て逃亡、平賀朝雅率いる討伐軍に合流したものの源実朝に許されず守護職を罷免された。しかし以降も幕府御家人としての面目は保ったようである。
牧氏の変の際復権を狙い息子の山内首藤通基が平賀朝雅を討ち取るが、守護職の回復は果たせず、西遷御家人として備後に移って戦国時代まで生き残り、毛利家の家臣となっている。また土佐藩主である山内一豊の山内氏が子孫を名乗っているものの、こちらに関してはまあ…
掲示板
1 ななしのよっしん
2021/07/09(金) 19:41:49 ID: eFJ1I+py+Q
コネと寿命だけで修羅集う鎌倉時代を生き延びたある意味すごいお方
2 ななしのよっしん
2022/09/22(木) 08:29:32 ID: INiu9Da+CJ
頼朝に話通さずに官位貰った御家人達の中にも名前が有る人、本当によく生き残れたね…、
3 ななしのよっしん
2025/02/16(日) 21:55:12 ID: 0PYFi6eu7Y
頼朝を何度もキレさせたけどコネだけの無能ではなく義経勢に取り囲まれたときも頼朝からは「あいつはそう簡単にはやられない(意訳)」と信頼されていたし、実際に虎口を脱してからは襲撃してきた伊勢義盛を返り討ちにしている。
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最終更新:2025/12/10(水) 15:00
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