後光厳天皇(1338年~1374年)は、北朝第4代の天皇である。
諱は弥仁(いやひと)。
観応3年(1352年)、北朝の光厳・光明・崇光の3上皇と皇太子・直仁親王が南朝によって吉野に拉致される事件が発生。そのため、北朝には戴くべき天皇がいなくなってしまう。
窮余の策として朝廷と幕府は、妙法院に入室が決まっていた弥仁親王を即位させることにした。後光厳天皇である。
三種の神器?ないない。治天の君の譲位院宣?ないない。前天皇の譲位宣命?ないない。だって、上皇も天皇もいないんだもの…。
そこで北朝はどうしたか。後光厳の祖母の西園寺寧子(広義門院)を治天の君の代理に立て、「群臣議立」(臣下たちの総意)という体で弥仁を天皇にしたのである。もちろん、広義門院は皇室の血筋ではない。「群臣議立」に至ってはなんと、継体天皇の即位が前例である。あまりにも無理矢理な即位だったため、後光厳は「正統性のない、不完全な天皇」と言われ続けることになる。公家にも武家にも低く見られていた後光厳。気の毒です…。
後光厳の苦労は続く。
「あんな偽天皇、天皇とは認めねえ!」と、イキった南朝が何度も京都に攻め込んできた。後光厳は、近江や美濃へと逃げ回る羽目に(流浪の天皇)。
ようやく南朝の攻撃が静まり、京都で平穏な日々を送り始めた後光厳だったが…。今度は吉野から返還された三上皇と微妙な関係になってしまう。特に兄・崇光上皇と後光厳は不仲だった。
応安4年(1371年)、譲位。帝位を巡り、それぞれの系統が北朝の嫡流だと主張する崇光と後光厳が対立したが、結局は幕府の管領・細川頼之の裁量で後光厳の皇子・緒仁が新帝と決まった。(崇光上皇涙目)
治天の君として、院政を行おうと意気込んでいた後光厳だったが…。譲位の直後、興福寺の衆従が春日大社の神木を奉じ、強訴のために入洛する騒動が起こる。後光厳は強訴を鎮圧しようとするが、衆徒は神木を洛中に留め、後光厳に味方する公卿を「放氏」処分とする。
朝廷が機能不全となる中、孤立した後光厳は疱瘡にかかり、応安7年(1374年)崩御した。宝算37(満35歳)。
時代に翻弄され続けた帝であった。
なおざりに 思ふ故かと 立ち帰り
治まらぬ世を 心にぞ問う
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最終更新:2024/04/18(木) 14:00
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