熊谷直実(1138~1208)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。
熊谷直貞の次男で通称次郎。武蔵七党の久下直光は姨母夫とされる。2歳の時父と死別し、兄・熊谷直正とともに直光に育てられた。「保元物語」、「平治物語」では源義朝軍の中に名前があげられており、古参の人物であったことが伺える。
熊谷直実は当初久下直光の代官として京都大番役に従事していたが、傍輩から無礼を受け、平知盛に仕えることとなった。その結果1180年8月の石橋山の戦いでは平家方として参戦し、源頼朝を山中に追った。しかしその後あっさり源氏方につき、同年11月の佐竹秀義との戦いでは平山季重とともに武功を重ね、熊谷郷の地頭となった。しかしこの結果久下直光の同郷の押領が停止され同地をめぐる争いが生じ始めていた。この後の直実の動きからも、どうやら同地をめぐる争いが頼朝軍への参戦のきっかけだったようだ。
一の谷の戦いでは子息・熊谷直家とともに参戦し、平山季重と先陣を競う。そしてここで起きたのが、かの有名な平敦盛を討ち取った場面である。このことはのちの出家にも影響したと思われるほど、平家物語の中ではドラマチックに描かれるが、平敦盛の記事にあるように次代を経るごとに伝承が生み出されていった点も見逃せない。
その後1187年に、流鏑馬の的立役を命じられて辞退したため所領の一部を召し上げられ、1192年には源頼朝の眼前で久下直光と所領争いをして敗北。ついには自ら髻を切って逐電してしまった。以後京都へ上洛して法然に帰依し蓮生と名乗る。九条兼実の邸宅を法然とともに訪れた時、自分は邸内に入れないことを不満げに口にしたなどの記録が残る。
その後1195年に鎌倉の源頼朝のもとへ参上し積年の思いを語り合った。頼朝は彼を引き留めたが、後日参上を約束して退出。やがて自分の死を予言し、多くの人に見守られながらその通りに他界した。
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最終更新:2024/11/25(月) 09:00
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