真野頼包(?~?)とは、戦国時代の武将である。
真野一綱の後任として頭になったが、実は出自がよくわかっていない。『翁草』の真野一綱の子供、『張州雑志』の津島四家の大橋家の大橋定元から真野定季に養子入りした人物、『美濃国諸家系譜』の大橋長将の息子、『武徳編年集成』の大橋重賢の息子、『天宝校訂紀氏雑録』の織田信武の息子、と別々であり、しかもそれぞれ縁戚や没年まで異なったものである。ともあれ津島の出身であり、その縁で織田信長に取り立てられた家の出身ではあるようだ。
最初に名乗ったのも、大橋源蔵か大橋源次郎か今一つ定かでない。しかも以後の事績も前任者の真野一綱といまいち混同されてしまっている。少なくとも慶長16年(1611年)の豊臣秀頼上洛に付き従った真野半左衛門がその前身ではないか、ということしか言えないようだ。
真野一綱との関係も養子だったかどうかはっきりしたことは言えない。しかし、大坂七手組の頭としては、彼のほうが担っており、配下の川北正勝に相撲をやめたらどうかといった逸話が残されている。
しかし、大坂冬の陣では後備だったためいまいち活躍できず、大坂夏の陣で鬱憤を晴らすかのように、藤堂高虎や井伊直孝とあたっている。そして5月7日に死んだといわれているが誤りで、元和2年(1616年)に藤堂高虎に仕えたことがはっきり残されている。数年後に死んだらしいが、いつかは不明。
真野氏の系図はほとんどがすでに成立していた軍記のコピペのため実は以後もよく分かっておらず、息子の真野頼継が生駒家に仕え、生駒家の改易の年に亡くなったことまでしかよくわからない。
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最終更新:2025/12/05(金) 20:00
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