堀田正高 / 堀田図書頭(1552?~1615)とは、戦国時代の武将である。
豊臣家に使える大坂七手組の番頭の一人。通称は図書頭。
なお諱は本人の署名が欠損した状態でしか残っておらず、之〇ということしかわからないが、便宜的に一般的に流布している『難波戦記』の正高を親記事とする。他には『紀姓堀田氏系図』の勝善、勝寿、盛政、正次、『寛政重修諸家譜』の長政、長正、『藩士名寄』の正勝、『南紀徳川史』の正親、『美濃国諸家系譜』の勝喜、『武家事記』の盛重。一応、法号が龍庵と伝わっている。
豊臣秀吉に仕えた黄母衣衆の一人で、後陽成天皇の聚楽第行幸あたりから姿を見せる一人。小田原攻めの際には石田三成の指揮下にいたようだ。文禄の役の際には名護屋城で馬廻の頭の一人となっていた。
『諸方雑砕記』によると伊東長次とともに関ヶ原の戦いに際して事前に石田三成の挙兵を徳川家康に伝えたらしいが、以後の史実を踏まえると怪しい。実際には豊臣秀頼の馬廻として伏見城攻めに加わったことが確実である。
以後、豊臣秀頼の直参のうち、大身の存在としてあちこちで姿を見かける。大坂七手組と再編成された際には頭の一人となり、以後、同僚たちと行動を共にす。大坂夏の陣で5月7日に敗北して野々村吉安とともに撤退するが、炎上した城内には入れなかった。青木正重の助言でいったん屋敷に逃れ、妻子を殺し、『大坂御陣覚書』によると前田利常の軍勢にいた従兄と戦って討ち死にしたようだが、平野長泰によると真野一綱とともに切腹したらしく、いまいち最期はよくわからない。『寛政重修諸家譜』によると享年は63歳。
長男の堀田加賀守はいつ亡くなったかいまいちわかっておらず、次男の堀田甚左衛門は徳川家光に仕えたが刀傷で死去。三男の堀田小平太は同じく大坂の陣で死亡した。兄弟に関しては異説が多すぎてよくわからない。
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最終更新:2024/04/24(水) 03:00
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