豊臣秀保(とよとみ(の)ひでやす)とは、安土桃山時代の武将・大名である。
豊臣秀吉の甥。豊臣秀次と豊臣秀勝の弟。叔父である豊臣秀長の養子となり、その跡を継いだ。
叔父である豊臣秀長の娘と祝言をあげ、養子となった。
秀長の死後、その跡を継ぎ、秀長の側近である藤堂高虎と桑山重晴の後見を受けて、大和と紀伊の2国を治めた。
文禄の役では、次兄・秀勝と異なり、まだ若年であった秀保は代理に藤堂高虎ら配下を朝鮮に送り出し、自身は名護屋城に滞在した。
その後、 文禄2年に名護屋城から引き上げ、同年に上洛して従三位・権中納言となり、以降、 秀保は「大和中納言」と呼ばれるようになった。
しかし、病弱であったのか、それとも何者かに暗殺されたのか、若くして死去。
秀保には子供がいなく、同じく秀長の養子であった丹羽長秀の三男・仙丸は、まだ子宝に恵まれていなかった藤堂高虎の養子となり、その後継者として藤堂高吉と名乗っていたので(のちに高虎に実子・高次が生まれたので高吉は後継者から外された)、秀保の代で大和豊臣家は断絶してしまった。
豊臣秀保に関するニコニコ動画に投稿された動画を紹介してください。
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2 ななしのよっしん
2018/01/06(土) 10:57:02 ID: nsKH6lJyvA
もし連座しなかったら秀次事件後に秀次に代わりうる存在として自然と注目されてしまう
当時の秀吉にとって結局邪魔になるので、秀保事件でも秀勝事件でも普通に起こして殺すんじゃね
3 ななしのよっしん
2018/01/06(土) 11:32:40 ID: Ka07vPHKWu
秀次の場合は政権の仕事を秀吉から大分引き継いでいて、黒田官兵衛たち幹部たちが秀次の政務に協力したり、石田三成の息子のように幹部の子弟が秀次に仕えていた
秀保の場合は秀長の地位と家臣与力を引き継いだけど、晩年の秀長は干されていた疑いがあるし、中央の仕事の一部を受け持っていたかは分からない
なので秀次と秀保では立場が大分違う。秀保が秀次の代役に成り得る存在だったのか、秀吉から秀頼への承継を脅かす存在だったかは研究の進展が必要かもしれない
4 ななしのよっしん
2023/09/22(金) 22:24:20 ID: /Wgzd4EkeL
豊臣秀保…17歳没
豊臣秀勝(小吉)…24歳没
羽柴秀勝(於次)…18歳没
小早川秀秋…21歳没
豊臣鶴松…3歳没
豊臣家の公達は病弱が多過ぎる
誰か一人でも長生きしてれば天下は維持できなくとも豊臣(羽柴)の家名くらいは残せたかもしれないのに
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最終更新:2025/12/05(金) 23:00
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