伊達政宗 単語


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伊達政宗(だて まさむね)とは

  1. 南北朝~室町時代の武将。伊達家9代当主。2との区別のため大膳大夫(だいぜんだいぶ)政宗とも称される。
  2. 戦国時代の武将、大名。伊達家17代当主。仙台藩初代当主。1との区別のため藤次郎政宗とも称される。
    いわゆる独眼竜政宗(後述)。
    1. 仙台の観測所で発見された小惑星の名前。2にちなむ。
    2. ゲーム『戦国BASARA』の登場人物。2から派生。 → 伊達政宗(戦国BASARA)

9代政宗

(文和2年/正平8年(1353年)- 応永12年9月14日(1405年10月7日)没)南北朝時代から室町時代の大名。兵部少輔、大膳大夫、五位下。入道円孝。

父親は8代当主伊達宗遠。父・宗遠と共に置賜郡に侵攻して長井氏を滅ぼして置賜を伊達氏の拠点とし、17代政宗の時代に豊臣秀吉の奥州仕置により本拠を岩出山に移すまでの200年余りにわたって置賜は伊達氏の支配下に置かれた。

正室は室町幕府3代将軍・足利義満の生母の妹で足利将軍家と強い結びつきがあり、鎌倉公方が領土要求してきた時はそれを拒み、1399年大崎氏、蘆名氏などと同盟して戦うがこの時は破れ出羽に逃れるが1402年ふたたび反旗を翻し、鎌倉方の上杉禅秀と戦い上杉方へ大打撃を与える。
「伊達政宗の乱」と呼ばれるこの2つの戦いは足利将軍家と鎌倉府の代理戦争でもあり、この戦いによって伊達家の名を近隣諸国に響かせる事となり9代政宗は「伊達家中興の祖」と称えられ、その名をあやかって17代政宗が命名される事となる。

弟の宗行は伊達郡大條(大条)村を与えられ大條(大条、おおえだ)氏と名乗る事となる。サンドウィッチマンのツッコミ担当・伊達みきお(本名・伊達幹生)はこの大條氏の流れを汲む[1]
妹は最上氏2代当主直家に嫁ぐ。

17代政宗

伊達藤次郎政宗(永禄10年8月3日(1567年9月5日) - 寛永13年5月24日(1636年6月27日))は、伊達家16代当主の父伊達輝宗の嫡男として米沢城で生まれた(・・・というのが一般的だが、米沢市中心部の現在上杉神社がある場所にあった米沢城ではなく、米沢市西部にあったという舘山城で生まれたという説が有力になり始めている)。幼名は梵天丸。
母親は出羽国の最上義守の息女で、最上義光を兄にもつ義姫。妻は愛姫。

政宗という名は伊達家中興の祖である9代大膳大夫政宗にあやかって名付けられた。
伊達氏は11代当主持宗から16代当主輝宗まで足利将軍の一人から一文字頂いていたが(補足として持宗は足利義持から、輝宗は足利義輝から)、17代目に対しては上記のとおり先祖の名を襲っている。

これには理由があり織田信長が足利義昭を京から追放し戦国の世も大詰めとなったところ、奥羽では群雄の勢いがますます強くなっていった。
そんな奥羽で父祖を築いてきたものをどう保ち、またそれを発展するか、そして中央の大勢力にはどう立ち向かうべきか、これを考えた時に中興の祖といわれる大善大夫政宗のような武将になるのが望ましい、従ってこの名を襲名させようとして元服の際に名乗らせた。
後に初陣で輝宗と共に相馬盛胤に奪われた領地の回復に成功しているため輝宗の願いは早くもここから始まったといえよう。

幼い頃に天然痘(疱瘡)にかかり右目を失明。
一説によれば右目を失明した事を生母が忌み嫌い、それが後にお家騒動(生母が弟である伊達小次郎を次期当主に据えようと画策し、政宗を毒殺しようとした事件)につながったともされる。
しかしもう一方の説は全く反対で、失明した事は伝説の高僧・万海上人の生まれ変わりである証拠と感銘して上人の遺徳を大いに讃えたとも言われており、実際の所は不明である。

なお、政宗の代名詞である「独眼竜」という中二病臭い二つ名は後世に名付けられたものであり、小説・大河ドラマで使われた事で有名になったが、初出は明治34年(1901年)に発行された『独眼竜伊達政宗』(高橋紫燕・著、久保天随・校、大阪:鍾美堂)で、元々は唐末期の突厥系軍閥で後唐の太祖となった李克用(856 - 908)の別名の一つである。

政宗は17歳で家督を相続すると、かつての伊達家の繁栄を取り戻すべく周辺の勢力(主に最上氏、芦名氏など)を討伐していった。
当時の奥州は政宗のご先祖様達の外交政策と、後にやらかした天文の乱によって婚姻による遠戚化や中小勢力の独立が進んでいて、ほとんどの勢力は辿れば何かしらの親戚となるような状態で乱立していた。
しかし、政宗は全く空気を読まずに、天文の乱以前の伊達家の繁栄を取り戻すべく武力による奥州の再統一を狙う。

手始めに、正室の愛子姫の実家である田村家と敵対していた大内定綱領の小手森城を攻め、見せしめのた女子供まで数百人なで斬りにする。大内定綱は芦名領へ逃亡し、同盟していた二本松城主の二本松義継は驚いて和議を申し入れるが、政宗は当然許さずに所領をほぼ没収しようとした。
それにブチ切れた義継がなんと和議の最中に政宗の父親である輝宗を拉致。政宗は逃走中の義継を父親の輝宗ごと射殺した。一説には義継は輝宗と刺し違えたとも言われている。これは父親の遺言、父を葬るための謀略、痛ましい不慮の事故など諸説あるが実態は不明。
ともあれ若くして父を亡くした政宗の怒りは収まらず、父の初七日が終わるや否や即座に二本松城へ侵攻したのだが、これに対して佐竹、芦名、相馬などの奥州連合軍が二本松の救援へ向かった。これにより発生したのが、伊達政宗の人生で最大の危機である「人取橋の戦い」である。
…冷静に見ると明らかに政宗の自業自得とも言える。

7000対30000という戦力比4倍以上の完全な詰み状態で、戦はあっという間に伊達軍の壊滅で1日目が終了。殿となった鬼庭左月斎の玉砕突撃や伊達成実の奮闘などでなんとか政宗は命からがら敗走し夜を迎えた。
ところがその夜、連合軍の中心であった佐竹軍で内ゲバがあったり佐竹領に隣国の北条氏が攻めかかるという報があったりしして、なんと佐竹軍はわずか1日でトドメも刺さずに撤退。連合軍は解散してしまった。
その後も佐竹氏は北条氏と小競り合いを続けたため、これ以降政宗と戦うことはなかった。
奇跡的に窮地を脱し最大の脅威が無くなった政宗はその後も武力による領土拡大を進めていくことになる。

しかし、中央では織田信長の跡を継いだ豊臣秀吉による天下統一事業が着々と進み、政宗のところにも何度も停戦命令が届く。それをやはり当然のように黙殺し続けていた政宗であったが、当時伊達家と同盟を結んでいた北条氏の小田原城攻めが開始された段階でとうとう秀吉の下に屈し、小田原攻めに遅参した。

この時の参陣の遅れについては、秀吉との駆け引きの他、参陣直前に母親に毒殺されかけるものの、解毒剤の撥毒丸(ばつどくがん)をすぐに使用したため一命を取り留めたものの、その後の療養のため、などの説がある。
背後には最上義光がいて、義姫が弟の小次郎(幼名:竺丸)を寵愛しているため小次郎に伊達家を継がせて掌握しようという陰謀があったともされるが、いずれも不明な点が多い。

秀吉政権下では明らかにアヤシイ行動を咎められ、何度か謀反を疑われるが機転の利いた対処で切り抜け、東北地方の有力勢力として存在し続けた。

ちなみに、秀吉晩年期における政宗の石高は58万石であった(参考:前田利家→81万石、宇喜多秀家→57万石、上杉景勝→120万石、毛利輝元→121万石、徳川家康→256万石)。
石高の順位(石高ランク第五位の“大大名”)から言えば、秀吉政権の中枢に政宗が入っていてもおかしくはない(※暴れん坊だから入らない方が良いという見方もある一方、虎視眈々と活動をおこなう政宗を抑え込むには逆に体制に組み込んで常に監視しておいたほうが良いのではないかという説もある)のであるが、なぜか入っていない
これは秀吉の親戚である宇喜多秀家の存在もあるだろうが(秀家自体は秀吉の一族ではないが一旦秀吉の養子に入っている事から扱いは一門になっている)、やはり「政宗ねぇ・・・」という危惧の声も大いに影響しているのではないだろうか。
ただ単純に、最初の停戦勧告の無視から何度も改易一歩手前の不祥事をやらかしまくっていたせい、という可能性もある。

関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍側に付き、伯父の最上義光ら東北諸大名と共に会津の上杉景勝を牽制する役目を担う。
この時、家康から秀吉の小田原征伐遅参の罰として没収された伊達家旧領6郡49万石を与えるという「100万石の御墨付」を得ていたが、小田原征伐に参加せず所領没収・改易された和賀郡の旧主・和賀忠親(所領没収後に政宗に保護されて胆沢郡に所領を与えられていた)による旧領回復の為の南部氏への反乱(和賀一揆)を煽動した黒幕である事が露見した為に家康に「100万石の御墨付」を反故にされ、論功行賞は自力で奪い取った刈田郡2万石の加増のみとされ(その後に近江国と常陸国に小領土の飛び地2万石が加増され)、仙台藩・伊達62万石が誕生し政宗は仙台藩の初代当主となった。

仙台藩初代藩主となってから、政宗は積極的に徳川家への接近を試みた。
初代将軍・家康はこれを警戒しながら対応していたが、二代将軍・秀忠以降は御意見番として将軍の相談に応じており「仙台公」あるいは「仙台侍従殿」「仙台黄門」(「侍従」「黄門(権中納言の唐風官名)」は政宗の官職に由来する)とも呼ばれ、三代将軍・家光からは「伊達の親父殿」とよばれて親しんだ。
その信頼の深さはさながら「副将軍」にも等しかったとされる。

晩年は美食研究などで知られ、日に1~2時間は二畳敷きの専用トイレ兼執務室に篭って朝夕の献立を考えるほどの熱の入れ様で、例えば「白鳥の塩漬け」は幕府に献上するほどの自慢の逸品だったとか。
そうした政宗の美食研究の結果生まれたのが仙台の名産品として知られる「ずんだ餅」「凍み豆腐」であると言われている。

尚、この美食が祟ったのか、晩年は肥満に悩まされたとも言い伝えられている。
一方で健康には人一倍気を遣っていたようで、煙草を1日3回きちんと吸っていた・・・って、当時の煙草は薬扱いなんだから仕方ない。(仙台にある伊達政宗霊廟=墓所である「瑞鳳殿」の調査が行われた際に政宗の遺骨ならびに副葬品等々の調査が行われた。その中に喫煙具一式もあった。)

深刻な歯周病持ちで、晩年は上の両犬歯しか歯が残らなかったという。加えてかなりの下戸で、飲酒にまつわる失敗談も幾つか伝えられている(これも政宗墓所の調査で判明した)。

戦国の気風を晩年まで保っていたことで三代将軍家光に慕われており、もっと早くこの世に生まれていれば・・・そう思わせる人物である。
寛永13年5月24日(1636年6月27日)江戸上屋敷にて死去。享年70歳。

辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く

戒名:瑞巌寺殿貞山禅利大居士

墓所:瑞鳳殿(仙台市青葉区)

この場所は政宗公が自ら自分の墓所の場所はここにと指定した場所であるが、墓所建築の際、地下から廟所が発見されて確認した所、政宗公が生まれ変わりだといわれていた満海上人(この人物も片目の人だったらしい)の廟所と判明し、政宗公の墓所を少しずらして建造したとの事。
なお瑞鳳殿敷地内には満海上人供養塔がある。殿内には発掘のさいに調査された遺骨を基にして作った伊達政宗の木像が安置されている。

大河ドラマ『独眼竜政宗』最終回に政宗墓所である瑞鳳殿の調査の際に公開された政宗本人の遺骨が紹介された(大河ドラマ史上類例のない“本人出演”)。その際に骨格調査と血液型検査が行われた結果、「身長159.4センチ、血液型はB型」であると発表された。

人物

幼いころより禅僧・虎哉宗乙(虎載宗乙)に師事し、文武両道に優れた人物であった。若いころから、奥州の領土奪回・拡大を目指し成功しているため、戦略的な能力は高かったと見られる事が多い。

近年のゲームや小説・漫画のイメージから、戦場での華々しい武功を想像しがちだが、実際は敗戦の記録も多く、特に人取橋の戦いは伊達家滅亡の危機でさえあった(佐竹氏が家臣の暗殺や北条氏の影響で急遽撤退していなければ、この時点で政宗が死亡していてもおかしくなった)。

しかし、結果として約5年という短期間のうちに、周囲の大名・豪族を討伐、または傘下に加え、佐竹氏・上杉氏と同等、もしくはそれ以上の広大な領域(近年では小田原参陣直前に90万石以上であったと言われている)を有する事に成功したのは、苛烈な侵攻策による畏怖を与えつつ、調略による懐柔を繰り返し、武略だけではなく知略にも長けけた器の持ち主であったことを証明している。
実際に、秀吉や家康といった権力者とに対する立ち回りや危機の切り抜け方などから、猛将型よりむしろ謀略等に長けた大名であったと評価する人も少なくない。

そんなこんなで、若年の頃より(かつ父が存命中であるのに)家督を継ぎ、伊達家の旗頭に立たせられる中、積極的な対外進出の上で磨き上げられた陰謀や画策の手練は必要であったどころか、もはや趣味の延長上に近い
これは師である虎哉禅師から「目に見える事(現実)だけが本当の姿(事実)ではない、目に見えぬ事(謀略や打ち合わせ)によって本当の姿が変わる事もある」「騙されたくなかったらすべてを疑ってかかれ」という教えを叩きこまれていた事も大いに影響するであろう。

※なお、伊達政宗の破天荒な性格の根本を作り上げた人物こそ虎哉禅師こと虎哉宗乙である。
この虎哉禅師は「心頭滅却すれば火もまた自ずから涼し」の辞世で有名な甲斐・恵林寺の快川紹喜和尚の弟子。武田信玄・勝頼に教えを諭していた師に同じく、禅の問答から権謀術数を知り、それを政宗に叩き込んだのである。

いずれにせよ秀吉・家康はもちろんの事、秀忠・家光などからも危険視され一目置かれる存在となり、幕末まで続く仙台藩の基礎を確立した手腕は、政宗という戦国人間としての能力の高さ(と、相手を驚かせるようなパフォーマンスと弁舌で難を乗り切るという世渡り上手な部分)を裏付けるものだろう。

反面、文化・教養人としても知られ、後水尾天皇より和歌を激賞されたこともある。後世、明治天皇はその文武両道性を高く評価し、大正天皇は従二位を追贈した。
手先も器用であったようで上述の通り料理を趣味とし、竹細工も得意とした。晩年は能に傾倒し、鼓や太鼓の名人であった(政宗が従四位下右近衛権少将の官位を賜った際に秀吉の前で披露したという)。

しかし、政宗の後世の人を引き付ける魅力は、戦国時代が収束していく中でも、奥州の暴れん坊と呼ばれ、晩年まで衰えなかった野望と、それらを示唆するDQN的行動エピソードの数々である事は間違いないだろう。

  • 小田原参陣の際は妻の実家・田村家に「参陣しないように」と指示を出しておきながら、自らは参陣
    結果として田村家は改易され、田村領は伊達家に与えられた為、実質的に田村を乗っ取った形になった(後に田村家は妻・愛姫の遺言により再興された)。 
  • 大崎・葛西領で大規模な一揆が起きた際、裏で一揆を煽動する書状を記したことを秀吉に咎められたが、政宗は白の死に装束金箔張りの十字架を背負った超デスパンクな出で立ちで出頭、「書状の鶺鴒(せきれい)の花押に針の穴が無いので、これは自分が書いたものではない」と言い抜けて処罰を免れた。
    それまでの他の書状は全て穴開きだった(ただし、現存する書状には穴開きのものは一つも無い・・・)。
  • 秀吉の重臣であり、政宗との仲も良好であった浅野長政に対して突然「絶縁状」を突きつける。その理由は十か条にまとめられている。
    多いので折りたたみ (1)知行を返上する旨の書状をだまして書かせた上に、その撤回をしていない
    (2)朝鮮出兵においては勝手な指揮をし、自分の面目を潰した
    (3)朝鮮での勝手な指揮について、伊達ではなく浅野に非があったという事を秀吉に報告していない
    (4)同じく朝鮮の役において、秀吉から支給された扶持米が自軍に供給されなかった
    (5)秀次事件の時に遅刻したが、その理由を自分のせいにした
    (6)同じく秀次事件の際に秀吉から疑われたが、その時に何の擁護もしなかった事
    (7)正当な手続きを取って帰国をしようとしたにも拘らず、不当な言いがかりをつけた
    (8)自分と仲の悪い木村吉清と懇意である事
    (9)自分と仲の悪い蒲生氏郷と懇意である事

    (10)自分の家臣が秀吉の親戚である木下勝俊配下の者に殺された事件の際、秀吉との仲介を依頼したがこれに応えなかった。
    ・・・ちなみに、この絶縁は一説によると政宗と長政が囲碁の最中に打ち手をめぐって口喧嘩となり、その“腹いせ”に起こしたという話も。
    なお、1994年に伊達家と浅野家は茶会を開き、これを以て400年以上にわたる絶縁は解消された。
  • 豊臣秀吉の後継として関白の地位にあった秀次が謀反の疑いをかけられて切腹し、親しかった大名が次々ととばっちりで連座させられる中、秀次と非常に親しかった政宗は岩出山から京にすっ飛んで行き、前田玄以らからの詰問を開き直って口先だけで躱してほぼ損害なしで乗り切った。
  • 関ヶ原(慶長出羽合戦)の際に南部領で一揆を煽動し、領土拡大を図ろうとした。
    これを重く見た家康によって「百万石の御墨付」を反故にされている(関ヶ原合戦後に政宗は居城を岩出山から仙台に移すのだが、仙台に移した理由は百万石の御墨付で領地獲得した場合、岩出山では北寄りになる為、ほぼ中間に位置する仙台に移す事を考えたらしい)。
  • 海外に目を向け支倉常長をスペイン・ローマに遣わすという先見性も持っていた。これには貿易による仙台の繁栄は勿論のこと、何よりこれらとの軍事同盟による家康への謀反を企てていたのである。
    常長は日本人として初めて太平洋と大西洋を横断してヨーロッパへ到達し、やはり日本人として初めてローマ法王に謁見、ローマ法王や常長自身の油絵、書簡など貴重な資料を持ち帰った。
    (禁教令により長らく死蔵されていたが、明治維新後に伊達家から蔵を買い取った地元の名士が発見し伊達家へ返却。現在はユネスコの世界記憶遺産となっている)
    しかし幕内のコネや新将軍候補が政争絡みの大疑獄(大久保長安事件)により処分された上、スペインとの交渉も不調に終わったことで頓挫。以後は佐幕に方針を転換し、二代将軍秀忠や三代将軍家光からは「伊達の親父殿」と慕われるほどになった(水面下での暗闘や牽制はともかく)。
  • 極めつけは、晩年に遺した「酔余口号(酒に酔って興が乗ったので詠んでみた、の意)」という漢詩。
    「馬 上 少 年 過
     世 平 白 髪 多
     残 躯 天 所 赦
     不 楽 是 如 何」
    この詩は、「若い頃は馬に乗って戦場を駆け抜けたが、世は太平になり自分にも白髪が増えた。天に与えられた余生が残ってはいるが……(1行目~3行目)」と、ここまでは素直に読める。
    しかし、4行目については、「この余生を楽しまずしてどうしようか、いや楽しむべきである。(楽しまずんば是いかん)」、「楽しいと思えないとはいったいどういう事だろうか?(楽しまず是いかに)」と二通りの読み方ができてしまう。
    すなわち、幕府成立後に太平の世となった事を愛でて、趣味・趣向の道に生きる事を悟った心を表したのか、太平の世となり自らの野心を捨てざるを得なくなった無念の心を表したのか、全く違う解釈が出来てしまうのである。
    この詩の解釈については、政宗死後から真っ二つに分かれており、今もってその論戦には決着がついていない。あるいは、そういう論戦が巻き起こる事を承知して、敢えて遺した政宗の意地悪心とも言われており、案外政宗自身は、あの世から後世まで続くこの論戦の様相を、ニヤニヤしながら眺めているのかもしれない・・・・・・。

自尊心が高く、勧進能のエピソードでは政宗が役者にもう一度見たいと言ったがその場にいた役者、金剛大夫は「アンコールは嬉しいのですがもう他の役者などが帰っておりますので・・・」というような事を告げると政宗は憤激。
この自分ほどの者の頼みが断られるとは黙っていられない。大夫以下役者を斬り捨て皆殺しにした後、この事を幕府に言上する。などと言ったらしい。「この自分」という言い方から政宗の自尊心の高さが窺える。 

東北最大の都市である仙台市の発展の基礎を築いた。当時仙台は「千代(せんだい)」と呼ばれていたが、これを「仙台(仙臺・仙人の住む尊い場所の意)」に改めたのは政宗である。
城名も「千代城」より「仙台城」へと改名させた(仙台城が別名「青葉城」と呼ばれるのは元の名前に由来する)。

廟所(墓所)である瑞鳳殿(ずいほうでん)は戦災で焼け落ちており、1974年に再建されたものである。
その再建にあたって発掘調査が行われ、遺骨の検査も行われた。身長が159.4cmだったことや、遺髪から血液型がB型であることが判明した。
また遺品からは金製のロザリオ(出頭した時に背負ったアレに非ず)が見つかり、彼がキリシタンであったという説もある(確証は無い)。

ちなみに『スターウォーズ』のダース・ベイダーは、政宗所用で現在は仙台市博物館に収蔵されている具足一式がモチーフになっているという。兜の三日月細工を外すと…うん、だいたいあってる。

暴走

若いころから暴走していた政宗だが、江戸幕府が開かれた後も相変わらず暴走。
故に一部の歴史ファンには「DQN四天王北の政宗」「鮭様の甥のまーくん」「文化財クラッシャー」等の愛称で親しまれている。

  • 文化財クラッシュ(王義之の書写、天目茶碗、銘刀正宗(未遂)、利休の茶杓・花入)
  • 大坂夏の陣で伊達軍は後藤基次を撃破するなど戦功を上げるものの、真田信繁(幸村)勢に圧されて後退。先鋒大将だった水野勝成の再攻撃要請を「鉄砲弾が足りない」「死傷者が多い」など適当な理由で何度も拒否
    そのため信繁に「関東勢百万と候えど、漢たるは一人も無きに見えにし候」とボロクソに言われた。
    この一件と関係があるのか、伊達軍の数名は水野勢と互いに味方討ちで馬を奪い合う小競り合いを起こした。もちろん先にやったのは伊達側。上が上なら部下も部下だった。
  • さらに夏の陣の最中、味方である神保相茂隊に鉄砲隊の一斉射撃を撃ち込み全滅させる。(戦後、家康ほか幕閣からも非難されたが、「神保隊が総崩れになったから巻き込まれないように仕方なくやった。伊達家の軍法には敵味方の区別は無い(意訳)」と言い逃れ、60万石近い大大名を刺激するのは好ましくないと判断した幕府は不問とした。)
  • ボヤ騒ぎで物置の一部が焼失→屋敷を全面改装(これは処世術でもある)
  • 二代将軍秀忠との約束を二日酔いでドタキャンし仮病を使う。家康への叛意を「毒じゃ殺さない」と暴露(逆に秀忠は死の床で「父の死の間際に貴方の謀反の噂があり、病をおして討伐する所だった」と述懐)
  • 三代将軍家光の御前で酩酊→爆睡したり、鷹狩の外泊を諌める際に自身の家康暗殺未遂を暴露したり
  • 老中に膝枕をしてもらったり、仕事中に唐突に相撲の勝負をふっかけて職務妨害したり
  • 加藤清正、上杉景勝らに熱々お吸い物で心からのおもてなし→唇が腫れた
  • 能を見に行く→もう終わってた→「やれよ!」→「無理です」→刀持ってこい(一座が戻りギリギリセーフ)
  • 政宗「能やるんで役者借せよ!」→「先約が・・・」→・・・いっぺん死んでみる?→「わかりました・・・」
  • ヤンデレ大名・細川忠興から狐憑いてんじゃね?と言われた(現代的に言うとキ◯ガイ扱い。お前だけは言うな感はある)。その意趣返しかどうか、忠興から家紋(九曜紋)を強奪(ちなみに仙台駅前周辺の街路灯には紺地に金色の九曜紋の小旗がついてます)
  • 老中である酒井忠勝を突然ひっぱたき、江戸城中で取っ組み合いの大騒動をおこす(廊下を歩いている酒井に突然「相撲を一番」と声をかけた途端にビンタをかましたとも)。
  • 正月に二代将軍秀忠を自邸に招いた際に政宗はこだわりの食事を出そうとした所、将軍の側近が「毒見をしなければ出せない」と言った事に激怒
    もし秀忠公を殺すのならば毒などという卑怯な手は使わず弓矢(=武力)をもって討ち取っておる!」と、秀忠に聞こえるように怒鳴った。
    これにはさすがの幕臣も閉口し、秀忠みずから政宗をたしなめた。
  • ひとたび客として訪れた二条城に他の大名が帰った後も居座って京都観光三昧(だから田舎者だと・・・)

ちなみにこれはほとんど晩年のことである。
エピソード自体かなり過激な上、当時は戦国の家風が色濃く残る時代。些細な不祥事・落ち度に目を付けられ、謹慎・隠居・切腹・改易が頻繁に行われていた頃である。
自分を必要以上にDQNと思わせ、将軍家やその周囲からの警戒を紛らわそうとしたとも言われているが、前記のような時代背景を考えると、政宗の行動は見ている側にとってハラハラするどころの騒ぎではない。
あまりにも嘘臭い(後世の創作ではないか)と思われる話もあるが、これらの話のソースの多くは、友人であった細川ヤンデレ忠興の手紙である。なので本当にやったっぽい。流石、独眼竜は伊達じゃない。

政宗公が如何に暴走してたかは「戦国ちょっといい話・悪い話まとめ」(http://iiwarui.blog90.fc2.com/)にてご覧になるとよろしいかと。
(リンク先左メニューのカテゴリー>東北・北海道>伊達政宗をクリック)

現代にも影響を与える伊達男

上記してきたように、伊達政宗は己が持つ能力をフルに活用して戦国乱世の中を生き抜いた。
その類まれな体力と根気、そして豪快さとアイディアはまさに戦国時代でも屈指のカリスマであったと言えよう。
天下泰平の世となっても虎視眈々と策を練って戦国の気風を生涯貫き、自分の思ったことは何が何でも実行するという気骨は多くの人から尊敬された(もちろん、危険視もされた)
歴史学者や歴史小説家も「生まれるのが10年早ければ、伊達政宗は天下を取っていたかもしれない」と言われている事も、様々なエピソードや実際に残されている華々しい経歴・戦歴をみれば納得できる。

特に一大センセーションを巻き起こしたのは1986年の大河ドラマ『独眼竜政宗』(原作:山岡荘八)で、当時新進の俳優であった渡辺謙を政宗役に抜擢し、同作品は彼の出世作となった。
配役も政宗の父・伊達輝宗に北大路欣也豊臣秀吉に勝新太郎徳川家康に津川雅彦最上義光に原田芳雄といった堂々たるもので、現在でも「平均視聴率 36.9%」(注意:瞬間ではなく、平均!)という記録は打ち破られてはいない。歴代大河ドラマで最も人気のある作品である事は言うまでもなく、2012年大河ドラマ50作を記念して行われたアンケートでも堂々の第1位を獲得している。
大河ドラマ『独眼竜政宗』の影響は非常に大きく、伊達政宗という人物を一気に日本史上屈指の人気者にした。同時に「最も好きな戦国武将」の上位に必ず彼がランクインするようになった。

もう一つ、政宗が現代人を魅了するものとして挙げなければならないのがファッションセンスである。
伊達家の家紋である“竹に雀(仙台笹)”の下にカラフルな水玉模様を配した「紫地羅背板五色乱星陣羽織」に代表されるように、自らがデザインしたもの、あるいは当時の常識を凌駕するファッションセンスは現代に通じるものがある。
基本的に戦国時代は「いかに目立つか」が重要であった(※とくに合戦の際には存在と手柄をアピールする必要があった)のだが、政宗は特に奇抜でインパクトのあるものであった。
しかも、単に派手で目立つものという訳ではなく、実用性がありなおかつセンスのあるデザイン・色使いのものが多く、彼の陣羽織や着用の具足をもとに作ったグッズは人気が高い。
「伊達男」という言葉の語源が政宗であるという説は有名だが、単に「派手」という意味だけを持つのではないという事を知っておこう!

伊達政宗の壮絶かつ豪快な人生は現代の厳しい世の中において特に光を放っている。
2011年、未曽有の災害をもたらした東日本大震災では政宗の作った仙台も大きな打撃を受けた。しかし、東北の人々は諦めることなく現在もなお復興に向けた取り組みを進めている。
その中で、乱世時代に天下という果てしない夢を追って何度でもチャレンジし続けた政宗の粘り強さ、彼の持つ強烈なリーダーシップとカリスマ性は東北、特に仙台の人々にとって少なからず“心の支え”になったのは言うまでもない事であろう。
仙台という名は政宗がその地を整備する際に「“千年(千代)”ではなく“仙人の住む地(仙台)”の如く永遠に栄え続ける地にする」事を願って改名した。その政宗の願いを無駄にしてはならない。

東北だけではなく、政宗の存在は全国・全世界にも形を変えて影響を与えている。
戦国時代をモチーフにしたゲームやケータイ小説などでもしきりに彼を登場人物としたものが流行っており、老若男女・ジャンルを超えて伊達政宗は現代でもなお輝き続けているのである。

実際は付けてないけど、創作ではトレードマークの眼帯

政宗の日常的なおしゃべりを書き留めていた小姓は、政宗の右脇腹が若いころに腫れて大変だったが片倉小十郎がお灸名目で手術した、という話を記録した。
その話がなぜか数十年後には右目玉を摘出する話になってしまったらしく、公式記録"性山公治家記録"にも、逸話集"明良洪範"にも収録されている。
逸話集ではさらに、片倉小十郎が政宗の目玉摘出時に「鎌倉権五郎景正は目に矢が刺さっても戦ってたのだからしっかりしろ」とお説教するようにもなった。
1942年に映画では政宗の右目に矢が刺さる演出がされ、目が治るまで3種類の眼帯を着用し、治ったら外した。刀の鍔の形をした眼帯は、やがて政宗を扱った小説の表紙や学習漫画、NHK大河ドラマなどに普及していった。
現実の疱瘡の膿が入って失明した政宗の右目は、木像にあるように白濁していたと考えられている。

政宗は「親に貰った両目をなくしたのは親不孝である(意訳)」という事で肖像画には両目を描くよう言い残した。それに従い、肖像画や青葉城の銅像などはやや小さくする形で右目が描かれている。

戦国大戦

奥州の独眼竜!今天下に飛翔せん!

Ver2.0で伊達家が新設された事により、彼も伊達家当主として参戦した。ちなみに舞台設定が1582年なので大分若々しい姿で描かれている。CV:中村悠一。

スペックは当主らしく2.5コスト8/7気合・魅力の竜騎馬隊と、采配持ちだとしても破格の能力。
計略の「独眼竜の覇道」は伊達家の味方の武力が上がるシンプルな大名采配だが、伊達家の使いやすい采配は政宗しか持っていないため出番は多い。ちなみに計略発動時は彼専用で「竜」の文字が出る。計略範囲も隻眼という事で若干円形がずれており、回転も可能と小回りは割と効く。
しかし、流石に伊達4(政宗、伊達成実、鬼庭綱元、葛西俊信のデッキ)として使用率・勝率共に高かったため彼も修正を受け、範囲縮小・効果時間短縮の憂き目に遭っている。特に効果時間は深刻で他の大名は最低でも6cはあるところを彼は5c強しかなくなっている。

 

天下よひれ伏せ!この独眼竜にな!

その後電影武将として登場している。CV:浜田賢二。
伊達家の主要計略があらかた下方修正された後に現れた。スペックはSRと同じ。

計略名は「竜閃覇」と書いてライトニング・ドラゴンと読む。BASARAでやれ。

計略内容は伊達家の味方の武力が長時間上がり竜騎馬隊であれば弾数が無い時タッチ突撃が可能になる。武力上昇値は覇道よりは少ないのだが問題はその効果時間。17cである。

その武力上昇値は下方される前の島津貴久の「英主の采配」に更に追加効果がついていて効果時間もそこまで変わらない、と本当に英主が涙目になる性能でVer2.01C現在やっぱり流行している。幸いなのは「電影武将(データ専用)」なのでカードショップ等で買えないことか。

信長の野望シリーズ

『信長の野望』(PC)シリーズにおける伊達政宗の能力一覧。

軍事能力 内政能力
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 魅力 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 84 政治 86 魅力 85 野望 93 教養 80
覇王伝 采配 95 戦闘 86 智謀 87 政治 94 野望 96
天翔記 戦才 178(A) 智才 186(A) 政才 190(A) 魅力 96 野望 94
将星録 戦闘 88 智謀 93 政治 96
烈風伝 采配 94 戦闘 76 智謀 92 政治 95
嵐世記 采配 86 智謀 84 政治 85 野望 99
蒼天録 統率 86 知略 84 政治 85
天下創世 統率 85 知略 82 政治 83 教養 72
革新 統率 95 武勇 86 知略 92 政治 93
天道 統率 95 武勇 86 知略 92 政治 93
創造 統率 96 武勇 88 知略 91 政治 89
大志 統率 96 武勇 87 知略 86 内政 95 外政 81

戦国無双

シリーズ一作目から登場。担当声優は檜山修之。
同年齢で活躍した時代も重なる真田幸村が18歳設定の主人公として登場しているのに対し、政宗は14歳設定の140cmの少年武将として登場し、破天荒なIFストーリーを担当することとなる。
2以降は青年程度に成長し、ストーリーも他のキャラクター同様に史実をベースにアレンジしたものとなっている。1の政宗のようなIF担当というのは2の風魔小太郎や3の毛利元就などに受け継がれている。

デザインはシリーズ通して一目で伊達政宗とわかる甲冑姿。
伊達軍のイメージカラーが緑に設定されており、マントや陣羽織は緑色である。
1の隠しコスチュームは虎の毛皮で作った衣装なのだが田舎の子供みたいな出で立ちだったが、露出度が高いのでショタ好きには人気。そのせいか雑誌のキャラクター人気投票で1位をとったこともある。

一人称は「わし」。口癖は「馬鹿め」。野心溢れる自信家で傲岸不遜。時流を読む賢さを持つが、それ故に生まれの遅さからの歯がゆさを味わうこともある。
外見年齢こそ変化しているものの、お市とは違って衣装傾向も性格も大きくは変わっていない。

1の時の武器は木刀二刀流で、すばしっこいスピードタイプなのだがモーションに隙が多く、小柄なので攻撃範囲が狭くお市と並んで最弱クラスの性能だった。必殺の独眼竜ビームも軌道がランダムだったり威力が低かったりと使い物にならない。しかし猛将伝のバランス調整を最大限に活かせば隙も消えて攻撃力不足も解消されてそこそことなった。NPC時は小柄さ故に敵の群れに埋もれやすい。

2以降は西洋風のサーベルと拳銃を兼用するスタイリッシュなスタイルのモーションに変更。中距離からガードを崩せるチャージ1や一度に複数命中させると高威力のチャージ5などが特徴。けして弱くはないのだが、刀+銃の似たような武器のchronicle男性主人公がとても使いやすいキャラクターな為比較されてしまいがちである。

1のシナリオでは信長が天下に迫る中、桶狭間や川中島といった戦場に乱入。2つの軍相手取る三つ巴の戦いを繰り広げた。その破天荒な振る舞いはモブの片倉小十郎を幾度となくビビらせることとなる。
史実ベースの出番は他のキャラクターの大坂夏の陣程度しかない。また前田慶次のシナリオでは彼を気に入って味方になってくれる。
猛将伝では主に今川義元のシナリオに登場。上杉と盟を結んでいる政宗が義元に翻弄されることとなる。

2では小田原城攻略戦から始まり、豊臣秀吉や徳川家康に取り入りながらも天下を狙う。犬猿の仲とされる直江兼続もライバルとして登場。大坂夏の陣で遭遇した雑賀孫市を引き込み、沈んでいた孫市を再び奮い立たせた。

3では上田城の戦いに匿名で参陣する所から始まる。孫市は開始時点で政宗と行動を共にし、幸村や慶次、兼続らとは友誼で結ばれることとなる。特に兼続のことは表面上は嫌っているが能力や内面を認めている。
また敵として出会った甲斐姫に影響を受けており、自信の野望は天下だけではなく、天下の中身を作ることであると考え始める。その甲斐姫とは「3empires」でラブコメ調の関係となり、賛否が分かれた。

「chronicle2nd」では主流勢力に参加しない場合、孫市が伊達家に紹介してくれる展開になる。地元の合戦である人取橋の戦いがついに登場し、伊達の章IFルートに進めば専用エンディングが見れる。
また上杉軍の史実ルートでも鬱化する兼続を心配する政宗が登場する。

三國無双・戦国無双を融合させた無双OROCHIシリーズでは、遠呂智が王の器を持つと認め遠呂智軍に協力している。

関連動画

関連項目

  • 歴史
  • 戦国時代の人物の一覧
  • 豊臣秀吉
  • 徳川家康
  • 愛姫
  • 独眼竜
  • 燭台切光忠(所持していた太刀)
  • 伊達政宗(戦国BASARA)
  • 政宗ダテニクル
  • 渡辺謙
  • 伊達みきお

脚注

  1. *父系で見た場合は17代政宗とは直接の繋がりは無いが、母系で見た場合だと17代政宗の直系子孫にあたる娘が大條氏に嫁いでいるので伊達みきおも17代政宗の血を引いているともいえる
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