龍馬伝とは、2010年1月から放送している第49作目の大河ドラマである。
脚本・監督は福田靖。2004年「新選組!」以来のNHKの完全オリジナル作品である。
(翌年の「江 ~女たちの戦国~」も完全オリジナル作品である)
岩崎弥太郎の過去の回想という視点から、幕末に生きた坂本龍馬を描く。
そのため実質、主役は坂本龍馬と岩崎弥太郎の二人となっている。
(無論、龍馬の方が出番が多い)
主演の坂本龍馬を演じるのは、福山雅治。
なお福山はこのドラマにおいてカツラを付けておらず、地毛で出演している。
当の坂本龍馬本人も、福山の髪型同様、縮れ毛であったと言われる。
影の主役ともいえる岩崎弥太郎を演じるのは、香川照之。
春日局・利家とまつ・功名が辻などの大河ドラマに携わった経歴を持つ。
なお、正岡子規役で出演した「坂の上の雲」第一部が終わった翌週に、龍馬伝に出たので正岡子規と岩崎弥太郎が混同するという事態も起きた。弥太郎「龍馬、やろうぞな!ベースボール!」
あまりに貧窮し汚れた岩崎弥太郎の容姿のために、三菱グループ各社から「汚すぎる」とNHKにクレームが来た。
明治15年(1882年)、郵便汽船三菱社長、岩崎弥太郎は、主催する宴会の席上で自らの半生を振り返るスピーチをしていた。語り終えた直後取り押さえられた暴漢を一喝し立ち去ろうとする弥太郎の前に土陽新聞の記者、坂崎紫瀾が声を掛ける。
坂崎「坂本龍馬という名前をご存知ですか?」
岩崎「・・・おんし、龍馬を調べて、どうするがぜよ」
坂崎「僕が聞いた話がほんとやったら、大変な人物やないですか。けんど、こんなひとがおったと、今は誰も知らん
がです。教えてください岩崎社長。坂本龍馬とは、いったい、どんな人物であったがですか?」
岩崎「・・・龍馬はのう、わしがこの世で一番嫌いな男だった。あんな能天気で、自分勝手で、人たらしで、女子(おなご)に好かれて、あればぁ腹の立つ男はどこにもおらんとじゃき!」
ハゲタカのようなシリアスなドラマからプリキュアのような子供向けアニメ作品まで幅広く手がける、佐藤直紀氏が担当する。
OPは時代という荒波に立ち向かう、龍の如く、力強い曲となっている。
女性の歌唱部分は空耳で「煮込みおーでん♪」と聞こえると一部から言われているが、一番多いのは煮込み豆派らしい。
龍馬伝前半の主要舞台となる土佐藩(土佐国)は、戦国期から安土桃山時代にかけて長宗我部氏の領土であった。
しかし時の領主、長宗我部盛親は関が原の戦いにおいて西軍についたため、徳川家康により改易(全領地没収)となってしまった。
そして代わりに土佐国主となったのは、4作前(大河ドラマ「功名が辻」)の主人公である山内一豊であった。
しかし、一領具足(長宗我部氏の遺臣団)は度々反乱を起こした。山内氏はこれを鎮圧。浦戸一揆においては反乱兵を全員斬首するという強硬策に出た。
そして長宗我部遺臣団を郷士(下位の身分の者)、旧来からの山内氏家臣団を上士に区分。
これは江戸時代を通して明治維新まで受け継がれた身分制度であった。
しかし龍馬伝の作中では家格を大きく分け「上士」と「下士」と呼んでいる。
これは上士以外の身分の者は、「郷士」のほか「白札」(郷士の家系のうち功績のあった当主のみを上士待遇にする)「地下浪人」(土佐郷士の株(身分)を売却したものの、未だに藩内に居座っている浪人)など様々な身分が存在するため、その総称として「下士」という名称をつくったと思われる。
第一話において、龍馬や弥太郎が上士にぶつかったため上士やその子息により無礼打ち(殺害)にされかけるシーンが存在するが、下士の差別は、あのような程ではない。少しオーバーな書き方をしている。
身分差別はあったものの理由の無い、ないし軽度の理由の「切捨て」は、江戸時代中期より幕領や各藩においては御法度であった。最悪、切腹も許されず斬首刑になるケースもあった。
また坂本家は、元が豪商(屋号は才谷屋)でありながら郷士になったというとても裕福な家系だったので、相当な額の大金を上士たちに貸し付けていた。そこの次男坊を些細な理由で殺害でもしようものなら、奉行による判断では、士道倫理に背き切腹・一家お取り潰しになりかねない大沙汰であった。
なお、第11話で下士・池田寅之進が弟を上士に斬殺され、上士に対して仇討ちを行い、上士と下士が内乱状態寸前まで至ったのは事実である。(井口村刃傷事件)
坂本龍馬と岩崎弥太郎は若い頃から知り合いだったか
若い頃絶対に会ったことがないと断定はできないが、確認できる史料がないため初対面は慶応3年(1867年)4月頃の長崎と思われる。
武市半平太は岡田以蔵に毒を渡して自殺をすすめたか
実際には以蔵の親族に対して服毒させるための許可を得ようとしたが拒絶されたため実行はしていない。武市から毒殺されそうになったことを悟った以蔵が自白したという話があるが、小説などの創作にしか出て来ない話(維新土佐勤王史にもあるが史料と比較した結果信憑性が低いことを郷土史家の横田達雄が指摘している)であり実際には土佐に送還されてすぐに自白している。自白した時点で死罪は免れず、関係者に累が及ぶことを恐れた武市が自殺をすすめようとしたのが事実。また以蔵にのみ特に死を求めたわけではなく、実弟の田内衛吉に対しても毒を渡しており、拷問に耐えられず自白した田内は服毒自殺している。
坂本龍馬は武市半平太の身代わりになろうとしたのか
ドラマでは土佐に戻って後藤象二郎に啖呵を切っているが、操練所を出てからの龍馬は江戸に行って軍艦の買い付け交渉を行っている。その後京都に赴き鹿児島に渡っている。土佐に戻るのは慶応3年(1867年)8月と9月の二度。
武市半平太は自白したのか
最期まで自白はしていない。三文字の切腹は事実。なお武市の命日は慶応元年(1865年)閏5月11日で、その時期龍馬は下関に滞在して西郷の到着を待っている。
坂本龍馬と操練所のメンバーは薩摩に渡っていないのか
勝海舟の斡旋で鹿児島に渡っている(龍馬だけはひと足遅れ)。この時鹿児島に渡った人々が亀山社中結成時のメンバーになる。
長崎で高杉晋作に面会したのか
3部になってから時系列がテロップで出て来ないため何年何月なのか不明だが、伊藤俊輔と井上聞多が武器調達のため長崎に来たのは慶応元年(1865年)の7月20日頃。高杉は同行していない。
薩摩藩は幕府に追い詰められていたのか
実際には薩摩の政治工作で阿部正外・本庄宗秀の2老中が兵を率いて京都を制圧しようとしたのを阻止し、逆に将軍を再度上京させるように仕向けるなど、むしろ幕府側が苦慮している。また慶応元年(1865年)9月には長州再征が決定されたが、大久保利通は「非義の勅命は勅命ではない」と批判して協力を拒んだ。薩摩を始め全国諸藩の大半は長州再征に反対だったが、幕府は旧来のごとく強引に決定して諸藩を政治から遠ざけようとしたため、西郷隆盛ら薩摩首脳達は幕府との協調路線は不可能と判断して長州との関係修復を模索していた。
近藤長次郎の死について
近藤長次郎が死んだのは通説では慶応2年(1866年)の1月14日だったが、薩摩藩士の日記には23日死去、墓のある寺の過去帳には24日死去と記載があることが発見されており、23日説、24日説が有力。なおこの時期龍馬は京都に滞在し、鹿児島に出発するのが2月末頃のため近藤の葬儀には立ち会っていない。→関連サイト
岩崎弥太郎は薩長同盟締結の時期に京都に行ったのか
行ってません。
岩崎弥太郎は新選組に捕まったことがあるのか
ありません。
龍馬とお龍は薩摩藩邸で結婚したのか
お龍本人曰く元治元年(1864年)8月に金蔵寺という寺で住職を仲人に内祝言を上げている。またお龍自身は語っていないが、慶応2年(1866年)の薩摩藩邸潜伏中に式を挙げて内縁関係から正式な夫婦になったという話もあるが真偽不明。因みに寺田屋で遭難した際に逃げ込んだのは伏見の薩摩藩邸だが、1月末頃に京都の薩摩藩邸に移動している。(伏見は洛中ではない)
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最終更新:2025/12/12(金) 22:00
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