概要
元は優良路線でした
越中電気軌道として富山北口~四方間が開業した後、社名を越中鉄道に改称。年を追うごとに路線を伸ばし、1933年に庄川口~伏木口(旧の新湊駅、現在の六渡寺駅)が開業したことで全通した。1943年に富山地方鉄道に合併され、射水線となる。
戦後の1951年に高岡軌道線の米島口~新湊(現:六渡寺駅)間が開業したことで高岡と富山の間が1本のレールで結ばれた。東西を行き来する乗客も多く、1kmあたりの輸送密度は7000人とかなりの優良路線だった。
主力のデ5010形は路面電車型の車両ながら重連総括制御が可能で、朝ラッシュ時には専用軌道を最長4連で走る姿も見られた。
悪夢の東西分断
そんな射水線だが、国と県が富山新港を建設するにあたって、港の入り口になる堀岡~越ノ潟間(の橋梁)が邪魔であるため撤去するよう要請してきたことで運命が変わってしまう。沿線民としては乗り換えを強いられるために不便きわまりなく、地鉄としても優良路線を切られるのは死活問題であり、両者ともに根強く反対した。だが国と県の指針に逆らえず、1966年4月をもって堀岡~越ノ潟間が廃止された。並行する道路橋も撤去されたことから、代替交通として県がフェリーが運航することになり、地元住民は無料で乗船できた。
この分断にともない、西側の越ノ潟~新湊(現)間は加越能鉄道に譲渡され、路線名が万葉線に変わった現在も営業されている。一方、東側は引き続き地鉄射水線として残り、12月には旧堀江駅を復活させる形で新港東口駅が開業した。しかし分断の影響は無視できないくらい大きく、1kmあたりの輸送密度が6000人から3000人に減ってしまい、優良路線から地鉄内でも一二を争う赤字路線へと没落してしまった。
地鉄側も富山市内への乗り入れを復活させるも決め手にならず、1980年4月1日をもって廃線になった。
バス専用道への転身
廃線後、八ケ山~富山北口間はバス専用道として整備がなされた。一般道と交わる箇所には侵入防止用の遮断機と信号機が設置され、途中には行き違いができるスペースも設けられた。
のだが、この専用道を使うのは朝の富山市内方面行きの数本だけであり、しかもニコニコ動画やYouTubeに上がっている動画を見ればわかるが、運行中にもかかわらず人が歩いていたり、専用道内に一般車用の駐車スペースが設けられていたりと、普通の生活道路として使われているようである。専用道とは何だったのか・・・。
その後、2007年に北陸新幹線の工事の兼ね合いで旧富山北口近辺の専用道が撤去され、北側は引き続き朝だけ使用されたが、2012年4月1日をもって全てのバスが一般道経由に変更されその役目を終えた。
余談だが、このときのお知らせには「昭和55年の射水線廃止に伴う代替路線として運行してきた、バス専用道経由の運行を廃止」(原文ママ)と記されていた。
なお、専用道にならなかった区間はサイクリングロードや一般道として整備されている。
分断直前の駅一覧
※クリーム色は加越能鉄道に譲渡された区間、緑は射水線として残った区間
駅名 | よみ | 現在の駅名 |
新湊駅 | しんみなと | 六渡寺 |
庄川口駅 | しょうがわぐち | |
西新湊駅 | にししんみなと | 射水市新湊庁舎前 |
新町口駅 | しんまちぐち | |
中新湊駅 | なかしんみなと | |
東新湊駅 | ひがししんみなと | |
越ノ潟口駅 | こしのかたぐち | 海王丸 |
越ノ潟駅 | こしのかた | |
新港東口駅 | しんこうひがしぐち | |
堀岡駅 | ほりおか | |
射北中学校前駅 | しゃほくちゅうがっこうまえ | |
海老江駅 | えびえ | |
練合駅 | ねりや | |
本江駅 | ほんごう | |
打出駅 | うちいで | |
四方駅 | よかた | |
鯰鉱泉前駅 | なまずこうせんまえ | |
布目駅 | ぬのめ | |
八町駅 | はっちょう | |
八ケ山駅 | はっかやま | |
富山北口駅 | とやまきたぐち | |
新富山駅 | しんとやま | トヨタモビリティ富山 Gスクエア五福前(五福末広町) |
関連動画
関連項目
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