ひめゆり学徒隊とは、大東亜戦争末期に生起した沖縄戦にて従軍した女学生たちの組織である。
ひめゆり学徒隊は、沖縄師範学校女子部と沖縄第一高等女学校の生徒によって編成された222名と教員18名からなる補助部隊である。他にも同様の部隊として白梅学徒隊、ずゐせん学徒隊、積徳学徒隊、なごらん学徒隊、宮古高女学徒隊、八重山高女学徒隊等が編制された。師範学校女子部と第一高等女学校は沖縄県内でも特に優秀な才女が集められた名門で、第一高等女学校の「おとひめ」、師範学校女子部の「しらゆり」を組み合わせて「ひめゆり学徒隊」と命名された。一方で県内に掛かる姫百合橋が由来とする異説もある。
彼女たちは動員されるまでは何ら変哲もない平和な学生生活を送っていた。
1944年10月10日、米機動部隊による十・十空襲が発生。初めて沖縄が大規模空襲に遭い那覇市が焼け野原になってしまった。これを機に軍民は「連合軍の沖縄侵攻が近い」と直感し、本土から増援部隊が派遣されるとともに住民の県外避難が加速。実際その予測は当たっていた。沖縄は九州まで650km、台湾まで610km、上海まで830kmしか離れておらず、ここを連合軍が出撃基地にすればマリアナ諸島からB-29を飛ばすより効率的に日本本土と台湾を爆撃する事が出来るのである。まさに足掛かりとして最適の島だったのだ。
そんな中、10月20日にアメリカ軍がレイテ湾へ上陸した事で台湾から第10師団がフィリピンに転用され、手薄になった台湾の防衛兵力を補うべく沖縄の防衛を担当する第32軍から第9師団を持っていかれるという玉突き事故のような災難に遭い、しかも第9師団の代わりとなる増援が送られて来なかったため第32軍全体の兵力が低下してしまう。第32軍司令の牛島満陸軍中将は少しでも戦力を確保するべく、21ある中等学校から生徒を動員。このうち看護訓練を受けた沖縄師範学校女子部と教師陣が中心となって、12月に結成されたのが「ひめゆり学徒隊」であった。主に13歳から18歳の少女で構成されており、動員された女学生は学業に勤しむ一方、軍の陣地構築に協力。
1945年からは学徒戦時動員体制確立要綱によって中等以上の女学生全員が国民学校で本格的な看護訓練を受けた。2月には陸軍病院も教習の場になっている。過程を修了した者は看護技術修了書が手渡され、准看護婦になった。
1945年3月25日、上陸前の準備攻撃として米機動部隊から飛び立った敵艦上機3905機が沖縄を空襲、更に沖合いの艦艇群が2万7226発もの砲弾を発射して飛行場周辺に大きなダメージを与えた。これにより第32軍は女学生を看護要員に徴用し、222名の女学生と18名の教師がひめゆり学徒隊として戦う事になったが、強要ではなく志願制であった。
可憐な乙女たちは本部指揮班、炊事班、看護班、作業班に分かれ、各々指定された部署や場所に配属。主に彼女らは病院で勤務する事になっていたが、大半が洞窟を掘削して造った即席の野戦病院だった上、掘削作業中は落盤の危険性もあった。しかし艦砲射撃や空襲から逃れるにはその危険な洞窟内に身を隠すしかなかった。野戦病院では負傷兵の治療や、戦死者の埋葬、陣地構築、医療品運搬等に従事。ちなみに彼女たちは部隊名で呼ばれず「学生さん」「学徒」と呼ばれていた。4月28日、学徒隊の一部が糸数分院へ移動。
後方勤務なのと、軍と共に行動していた事から緒戦の戦死者は少なかった。ところが!
5月28日に第32軍司令部の首里城が失陥すると主力部隊とともに南部への撤退を開始。この時、陸軍病院から撤退しようとした9名が死亡、2名が重傷を負った事でひめゆり学徒隊に初めて戦死者が生じた。自力で歩けない重傷生徒2名は放置または青酸カリを飲ませて自決させている。撤退に成功した生徒の大部分は新たに司令部が設置された摩文仁周辺に再配置。山城本部(本院)、第一外科(波平)、第二外科(糸州)、第三外科(伊原)、第一外科壕(糸数)にそれぞれ分散した。摩文仁では伝令任務も担当するようになったという。
しかし摩文仁は第32軍にとって最後の砦だったためアメリカ軍の攻撃は苛烈を極めた。首里から18kmしか離れていない摩文仁はすぐさま攻囲されて逃げ道が無くなり、加えて投降する事すら許されない極限的状況。この頃には医療品も欠乏していて治療と言う治療を施せる状態ではなかった。6月14日、山城本部壕が直撃弾を受けて伝令2名が死亡。6月17日には第一伊原外科壕に至近弾が発生して多くの女学生が負傷した。地獄の言葉すら生ぬるい世界で可憐なる乙女たちがどのような末路を辿る事になるのか、それはあまりにも明確に想像出来るものだった。
6月18日、第二外科壕が米兵からの火炎放射攻撃を受けて8名が死亡、かろうじて生き延びた女学生は第一外科壕へ逃げ込んだ。同日夜、突然の解散命令が出されて女学生や教師は任を解かれた。この日を以ってひめゆり学徒隊は解散となったが、アメリカ軍は摩文仁から約200mの場所まで進出してきており、解散以降も激しい攻撃を受ける。壕の外に出る事は自殺行為、しかしここから逃げるにはどうしても外へ出なければならない。6月19日朝、アメリカ軍は第三外科壕に毒ガス弾を投下し、4名の教師と38名の女学生が死亡。第一、第二外科壕の者は攻撃前に脱出していたが、熾烈な攻撃によって107名が斃れ、あるいは断崖から身を投げて自決。生き残ったのは222名中99名のみだった。
女学生の戦死は沖縄南部に集中しており、いかに戦闘が激しかったかを物語っている。
終戦後、女学生たちの親が遺骨収集を行い、彼女達の遺骨を納めた「ひめゆりの塔」が1946年4月7日に糸満市で除幕した。うら若き乙女たちが戦争で命を散らした悲劇を後世に語り継ぐべく今も静かに佇んでいる。戦死した女学生の遺品や生存者の手記を収蔵した「ひめゆり平和記念館」も開館し、当時の貴重な様子が窺える。わずかに生き残った生存者たちは同窓会を作ってこの悲劇を語り継いでいる。
ひめゆり学徒隊を題材としたドラマや映画が何本も作られており、若い世代にも一定の知名度がある。その甲斐あってか沖縄南部の戦跡を訪れる者は必ずひめゆりの塔にも寄って行くという。
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最終更新:2024/05/02(木) 11:00
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