楊堅 単語

ヨウケン

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楊堅(541~604)とは、隋の初代皇帝である。諡は文

北周から譲され隋を起こした。南の陳を討伐し、滅亡以降300年近く続いた中国分裂時代を終結させた人物。かの有名な煬帝父親でもある。

生涯

隋の建国まで

楊堅の系は後漢の名望震にまでさかのぼると自称しているが、これは信用できない。ある程度信じてよいのは、楊堅の一族が北時代に北方前線基地の武鎮に移住し、その駐屯軍の将校を勤めていたことからである。は、楊堅の忠の時になって、北周建の功臣、十二大将軍の一人に数えられて出世のきっかけを得る事になった。

楊堅13歳の時には同じ武鎮の鮮卑族出身の名である独孤信の(後の独孤皇后)を娶り、は更に発言を増していった。楊堅が28歳になった時に忠がし、爵位を継いだ。南北朝時代北方民族文化が残っていた事もあり、女色に緩い世柄であったが楊堅の妻の独孤氏は極めて嫉妬深く、楊堅に厳しく浮気を禁じたので当初夫婦仲は円満であった。楊堅は独孤氏との間に勇、広、俊、秀、諒の五人の男子を得た。このうちの次男、広が後の煬帝である。楊堅は長女を北周の皇太子文贇(うぶんひん)と縁組みし、更なる箔付けに成功した。しかし、当時の楊堅の北周でのポジションはせいぜいが上の下くらいであり、これといって飛び抜けた存在ではなかった。

楊堅の地位が大きく上昇するのは、義理の息子である文贇が宣として即位してからである。これによって楊堅は、宣のいわゆる外戚になった。中国史では外戚が政治に介入することはよくあることである。しかも宣は軍功のあった自らの叔父を殺するなど疑心が強く、また紊乱の皇帝であった。彼は煩わしい政治から離れて好き放題贅沢をするために、さっさと皇帝の座を6歳の息子の静に譲り、自分は上皇となり天元皇帝と称して女色音楽を楽しむ毎日を送っていた。こうなってくると、皇后父親という地位にある楊堅の発言は必然的に上がってくる。天元皇帝想を尽かした官僚たちはこぞって楊堅の元に集まるようになった。

天元皇帝を付けてきた楊堅を危険視し何度か暗殺を命するが、楊堅は既に皇帝周りの買収を済ませており事なきを得る。そんなこんなをしているうちに天元皇帝病気で死んでしまった。わずか22歳であった。後に残ったのは8歳の静だけである。こうして楊堅は天元皇帝の詔だと称して勝手に新しい命を出すようになり、下の実権を手に入れたのだった。

しかし楊堅にはまだ二人のライバルが存在していた。(北斉の都)にいる(うっちけい)と陽の孝寛(いこうかん)である。彼らはそれぞれ齢70前後であったが、軍の官として北周に高いを持っていた。そこで楊堅は二人を対立・衝突させる方策をとった。この計は見事にはまり、尉迥は孝寛によって討伐され、都合のいい事にそれから数日後に孝寛も病死してしまった。ここにおいて楊堅を阻むものはなくなり翌年の581年に北周の静から譲を受けて隋を起こした。この時、楊堅は北周の男子を皆殺しにしている。

煬帝即位まで

楊堅の息子達は皆、ハイティーンになる頃に奢侈女色に溺れ、乱れていく傾向があった。これはに限らず、南北朝時代の統治者にありがちなことでもあった。

長男であり皇太子勇には楊堅も期待していたのだが、やがて奢侈に走るようになり、楊堅の関心は次男の王、広(後の煬帝)に移っていった。三男の俊は王に任じられ熱心な仏教徒として当初は品行方正であったのだが、やはり奢侈に流れの財政を傾ける程にまでなってしまった。結局、俊の女色に嫉妬 した妻の崔氏にを盛られて死んでしまった。4男の秀は王に封ぜられた。当初は武芸に熱心に励む優秀な子であったのだが、やはりというかやがて贅沢に溺れていった。

楊堅は、独孤皇后の気位が高く嫉妬深かったこともあって、兄弟との仲は悪かった。叔父整やその子の知積とはいがみ合い、楊堅の同である(ようさん)は北周のを貰っていたため革命の実行を巡って対立し、最終的には急死したため、楊堅に殺されたとも噂される。またもう一人のも気が狂って死んでしまい、その子の集も楊堅からは冷遇された。そんな事だから、楊堅の息子達もお互い憎しみ押しのけ合う関係になるのは必然であった。次男の広はから皇太子の座を奪い、後にであり楊堅の4男、秀と5男、諒をそれぞれ庶人に落としている。

588年、楊堅は次男の広を総大将として南最後の王になる陳討伐を開始した。陳の後妃という女性中になり政治にほとんどといっていいほど関心がなかった。隋の軍が攻めて来た時にも対策は打てず、隋は陳軍が正月に浮かれている時を狙って攻勢を仕掛け、あっという間に陳を滅ぼしてしまった。ここに滅亡以来300年にわたる内乱が終わり中国は統一された。この時の隋軍の最高責任者は煬広であったが、実戦は経験豊富な隋の将軍賀若弼(がじゃくひつ)と擒虎(かんきんこ)、また彼らの指揮官として高熲(こうけい)とという政治家導し、陳征伐を行っていた。589年には高句麗へも兵するがこれは失敗する。

内政では開皇を発布し三省六部を整え、地方に対しては止して州・県を設置した。更に楊堅は南北朝時代貴族制の基礎となった九品中正を止し、以後中国文化の代名詞ともいえる科挙を開始した。科挙政治から貴族を排除する的で開始されたのだが、当初の科挙の合格者はほぼ貴族によって占められており、少なくとも楊堅の時代には彼のもくろみは上手くいかなかった。また楊堅は仏教を厚く扱い、仏教と呼ばれた。

一方の朝廷では、独孤皇后は女遊びに熱心だった皇太子に不信感を抱くようになり、また若い頃で苦労し倹約であった楊堅も贅沢ばかりしている皇太子への信用を失いつつあった。これを見て、広は自分にもチャンスがあると考え、とは逆に妻の蕭氏以外に女性を近づけず、に来た時に琴にをかぶせて質素倹約をアピールした。また広は、隋の重臣の素にも根回しして奪嫡の基盤を固めていった。最終的に皇太子勇は謀反濡れ衣を着せられ、嫡子から外されてしまった。その後、皇太子に付いたのは当然、次男の広であった。しかし、これが楊堅と隋にとって運命を決める事になってしまった。

それから独孤皇后が亡くなると楊堅は枷が外れたように漁女に励むようになり、604年に病死した。正史には楊堅の最期は広に殺されたと記述されている。広の質素は一時的な見せかけであり、皇帝となった煬帝は凄まじい散財に溺れ、大運河建築と3度にわたる高句麗遠征を経て、中国全土で発生した反乱によって楊堅の建てた隋は滅んだ。

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