久邇宮朝彦親王(1824~1891)とは、幕末に活躍した皇族である。
概要
伏見宮邦家親王の第四子で仁孝天皇の養子。称は尊融、中川宮、賀陽宮など。幕末の朝廷では代表的な佐幕派。
幕府の通商条約調印に反対し、徳川家定の後継者に一橋慶喜(後の徳川慶喜)を推したため、安政6年(1859年)に安政の大獄で永蟄居となって出家し幽居した。孝明天皇の信任が厚く、文久2年(1862年)に還俗すると国事御用掛として公武合体策を推進。文久3年(1863年)の八月十八日の政変では、天皇親征に反対し、会津藩、薩摩藩の要請で朝廷の反攘夷派勢力を結集してクーデター成功を導いた。
その後も土佐藩や薩摩藩の軍事力を背景に勢力を伸ばすも、慶応2年(1866年)の孝明天皇の崩御によって孤立。慶応3年(1867年)の王政復古の大号令によって参朝停止となり、明治元年(1868年)には反政府運動計画の容疑によって、親王位を剥奪され、広島藩に幽閉された。後に許され、久邇宮と称するが、政治には参画せず、神道の振興や皇典の講究に尽力していった。
関連項目
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