畠山在氏(はたけやまありうじ 生没年不詳)とは、紀伊国・河内国に拠点をおいた戦国武将である。畠山総州家6代当主。官位は右衛門督。
一族
父は畠山総州家5代当主・畠山義堯。子は畠山総州家7代当主・畠山尚誠。
総州家とは上総介を称していたことからそう呼ばれていたのだが、実際に称していたのは父・義堯と祖父・畠山義英の2名のみである。
概要
1532年に父・義堯が突如出現した一向一揆により自害を余儀なくされると重臣・木沢長政の傀儡として飯盛山城を拠点とし、当初は尾州家の当主である畠山稙長と争うが、間もなく長政の手により完全に実権を奪われ思うようなことができずにいた。
長政が総州家を掌握すると、尾州家の重臣・遊佐長教と結託し、本願寺と同盟を画策して締結が露見した稙長を紀伊へ追放し、稙長の弟・畠山長経を擁立させるも間もなく彼も追放し、稙長のもう1人の弟・畠山晴熙を代行として擁立させるが、幕府に認められなかったために長教と長政の共謀の末に1538年に畠山弥九郎なるものが擁立された。
長政が細川晴元に対する挙兵する1541年までは河内半国守護として長教と長政の2人が実権を握ったまま尾州家との河内国共同統治・提携を行い、親交結んだ。
長政が挙兵するとこれに同調するわけもなくこれ幸いと長政が攻められていく様を傍観していたのだが、翌年に長政が幕府軍によって戦死すると、長政の雇い主(上司)ということで連座を受けて居城を攻められる。
実質10年近く長政の傀儡でもあったことから必死に幕府側と和睦交渉を続けていったが不調に終わったために翌年に飯盛山城を攻め落とされて追放されてしまう。
畠山政国や本願寺と提携して細川晴元政権に復権し、三好長慶が晴元に挙兵すると長慶に対抗するも敗れて完全に没落してしまい、行方不明となってしまった。
家督は子・尚誠が継ぐのだが、もう土豪に近い感じの勢力になってしまった。
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関連項目
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