「南条宗勝」(なんじょう・むねかつ 1497? ~ 1575 )とは、羽衣石城を拠点に伯耆国に勢力を張った戦国大名であり、尼子経久に敗れて浪人になった後に、毛利元就の援助をうけて三十年ぶりの羽衣石城奪還を果たした武将。
別名は「南条宗元」
佐々木塩冶氏を祖とする南条氏の南条宗皓の子に生まれ、父の死にともない18歳で家督を継ぎ、応仁の乱以降の衰退に歯止めがかからない山名氏を尻目に居城の羽衣石城を中心に東伯耆に勢力を張った。
しかし、謀聖・尼子経久の伯耆侵攻により、伯耆の国人が大量に国外に逃亡した「大永の五月くずれ」により、南条宗勝も羽衣石城を追われて因幡の山名氏に身を寄せた。
尼子氏の傘下にやむを得ず入った事もあったが、尼子経久の後継の尼子晴久が毛利元就討伐の兵を挙げて安芸の吉田郡山城へと出陣すると、手薄になった東伯耆を取り戻す為に、南条宗勝は、武田常信と手を組んで伯耆国の尼子方の城を攻めたが、南条宗勝挙兵の報を聞いた尼子晴久は新宮党の尼子国久を南条宗勝のもとに向かわせた。
始めは武田常信の活躍で新宮党を押していたが、尼子国久の息子・尼子豊久が討死した事をきっかけに奮起した尼子軍により、武田常信の軍が散々に討ち取られて武田常信の自害して果てた為、南条宗勝は退却した。
その後も反尼子方の一人として尼子晴久と戦い続けていたが、尼子晴久が急死して尼子義久が跡を継ぐと、毛利元就と結び、助勢を得た南条宗勝は、羽衣石城を奪還して30年ぶりに所領を回復し、羽衣石城に復帰して以降は、毛利元就の許可を得て伯耆各地に南条氏の家臣を配置した。
その後は、毛利元就について尼子義久討伐に参加し、尼子義久が降伏して尼子氏が滅亡すると、毛利元就の九州攻めに参加し、その途中、尼子勝久が尼子氏復興を旗印に還俗すると、九州から戻って尼子勝久の軍と戦う等、没するまで毛利氏に従って戦った。
南条宗勝の毛利氏への忠誠は、その最期の時に息子・南条元続・南条元忠・南条元清らに、変わらぬ忠義を尽くすように遺言するほどだったと言われている。
しかし、跡を継いだ南条元続は、羽柴秀吉の遠征軍に降伏して織田信長の配下となり、豊臣秀吉の時代には大名になったものの、関ヶ原の戦いで西軍についた為に改易され羽衣石城も廃城となった。
※その他「南条宗勝」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
▼「美希の天下創世」初登場時は波多野家臣。星井家の前に敗れた。
▼赤松家に仕えて早々の篭城戦に参加し援軍の星井家を「かつての敵をたのもしく思う」と。
▼赤松家滅亡後に星井家入りし、今では立派な星井家中の一人に。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける南条宗勝(南条宗元)の能力一覧。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 67 | 戦闘 | 51 | 智謀 | 47 | 政治 | 59 | 野望 | 38 | ||||
天翔記 | 戦才 | 132(B) | 智才 | 98(B) | 政才 | 140(B) | 魅力 | 62 | 野望 | 41 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 54 | 戦闘 | 52 | 智謀 | 60 | 政治 | 43 | ||||||
嵐世紀 | 采配 | 54 | 智謀 | 60 | 政治 | 44 | 野望 | 70 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 60 | 知略 | 68 | 政治 | 39 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 60 | 知略 | 65 | 政治 | 38 | 教養 | 59 | ||||||
革新 | 統率 | 67 | 武勇 | 60 | 知略 | 73 | 政治 | 43 | ||||||
天道 | 統率 | 67 | 武勇 | 60 | 知略 | 73 | 政治 | 43 | ||||||
創造 | 統率 | 64 | 武勇 | 60 | 知略 | 71 | 政治 | 46 |
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最終更新:2024/04/24(水) 06:00
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