新田義顕(?~1337)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
新田義貞の嫡男。1333年の元弘の乱のときには父とともに鎌倉攻めに従軍し、建武政権では武者所一番方の頭人に任じられ、また越後守も務めた。
1335年に足利尊氏が建武政権から離反すると、父・新田義貞とともに宮方につき、九州から再起した尊氏に敗走を重ねた。
新田義顕はさらに新田義貞とともに尊良親王、恒良親王を奉じて越前に降り、金ヶ崎城を本拠に幕府軍と戦った。しかし、義貞の命で瓜生保に援軍の要請に向かい失敗するなど、徐々に追い詰められていき、斯波高経、高師泰、今川頼貞、仁木頼章らが率いる幕府軍に包囲される。
籠城戦を強いられた新田軍は、頼みとしていた瓜生保の援軍も全滅したことで、新田義貞、脇屋義助兄弟が新たな援軍を求めに城を脱出。しかし金ヶ崎城への総攻撃で援軍が間に合わずついに落城すると、恒良親王を逃がし尊良親王とともに自害して果てた。
こうして新田三兄弟の中では、長男の彼が一番最初に亡くなったのである。
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最終更新:2025/12/06(土) 23:00
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