元弘の乱とは、鎌倉時代末期の元徳3年4月(1331年6月)から、元弘3年6月(1333年7月)までに発生した日本の内乱。
この事件で約150年続いた鎌倉幕府が崩壊し、建武新政が興るきっかけとなった。
鎌倉幕府も後期になると得宗専制が確立したことで政治に腐敗が進行、朝廷は皇位継承問題を起因とした分裂・派閥争いを引き起こしていた。貨幣経済の浸透などで社会情勢が大きく変容していく最中で幕府・朝廷共に政治的停滞を迎えた事は、現行制度化の限界を示すこととなった。
その中で即位した後醍醐天皇は、朝廷に権力を戻し天皇親政の世の中にすることでこれを打破しようと考え、そのために討幕を志した。
二度の討幕計画の漏洩で天皇は捕縛・流罪となるが、その声に呼応する形で挙兵した楠木正成の大奮戦をきっかけに幕府の軍事力に陰りが見え、鎌倉幕府への不満を持つ者達が一斉に挙兵。
足利尊氏が京都の幕府の機関である六波羅探題に、新田義貞が鎌倉にそれぞれ侵攻し勝利。幕府は滅び、後醍醐天皇の望み通り、朝廷が主導する天皇親政である建武新政へと進む。
なお幕末や戦国乱世等と同じ時代の分け目と言える事象ではあるのだが、やたらと人気・知名度共に低い。
※わかりやすさのための、この項目のみ持明院統・大覚寺統で色分けをしております。
文永9年(1272年)、元弘の乱の60年前に後嵯峨上皇が明確に後継者を定めずに崩御した事で上皇の皇子であった後深草上皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)の間で後継者争いが勃発する。承久の乱以降皇位継承は幕府の意向に沿っていたため幕府にお伺いを立てた所、持明院統・大覚寺統の皇子が交互に即位する事を幕府は提示し、朝廷もそれに従った。この2つの家系から交互に君主が即位している状態を『両統迭立』と呼ぶ。
両統迭立が成立した結果、それぞれの陣営で派閥が出来上がり政権争いが激化して朝廷は分裂状態に陥る。
正安3年(1308年)、亀山天皇の孫である後二条天皇が24歳で崩御する。これにより皇太子であった富仁親王が花園天皇として即位する。次の皇太子は両統迭立の原則では大覚寺統から選ばれるため、本来であれば後二条天皇の皇子である邦良親王が立太子されるはずであった。しかし親王は幼少でかつ病気(鶴膝風、膝関節炎で歩けなくなる)持ちで、2代続けての天皇の早世は権力争いの観点から避けなければならなかった。このため、後二条天皇の弟ですでに成人していた尊治親王が立太子されることになった。
しかしこの尊治親王の立太子はあくまで「一代限りの中継ぎ」としてのものであり、邦良親王がその後に即位し後二条天皇の血筋が大覚寺統を継ぐことも決められていた。
文保2年(1318年)、花園天皇が譲位し皇太子であった尊治親王が後醍醐天皇として即位する。上記の通り邦良親王も立太子され次期皇子の地位を得る。
元応2年(1320年)、邦良親王に後継・康仁親王が産まれ譲位への体制が整う。しかし邦良親王が皇太子として次期天皇の地位が約束されている以上、後醍醐天皇の譲位を遅らせればそれだけ大覚寺統の天皇が長く在位できるメリットがあるため皇位継承を急がなかった。これは成人したにも関わらず皇位継承が出来ない邦良親王にとっては遺恨として残る一方で、後醍醐天皇も邦良親王に譲位しなければならない状況に不満を持っており、お互いの仲は険悪となる一方となってしまった。
元亨4年(1324年)、後醍醐天皇の父である後宇多天皇が崩御。その僅か3ヶ月後に後醍醐天皇とその側近にが討幕を計画したのでないかという嫌疑を幕府にかけられる(正中の変)。取り調べの結果無罪放免となったものの、この事件以後邦良親王は後醍醐天皇に譲位の圧力を強くかけていくことになる。
大覚寺統内での主導権争いが激しくなる中で、今度は正中3年(1326)に邦良親王が亡くなってしまう。代わりに新しく立太子されたのは持明院統の量仁親王(後の光厳天皇)であった。後醍醐天皇は持明院統からの譲位への圧力を強く受けるようになる。
さらに朝廷と幕府とのパイプ役である関東申次が持明院統寄りの人間に変わったこと、後継候補として期待を寄せていた第二皇子・世良親王の早世などの事情が重なった事で後醍醐天皇は政治的に閉塞、譲位が避けられない情勢となっていく。
譲位せずにこのまま自身で国を治める事を望んだ後醍醐天皇だったが、皇位継承は幕府の意向に沿わなくてはならない。故に自身の望みを叶えるためには「幕府を討ち滅ぼして朝廷に権力を取り戻すしかない」と考えるようになっていった。
鎌倉幕府第5代執権であった北条時頼は病気となり義兄である北条長時に執権を譲るも、実権はその後も握り続けた。これはまだ6歳と幼い自身の子である時宗に後継者を確定させるためであり、長時はあくまで時宗の代理人として選ばれた。これは明確に『院政』を意識した人事であった。
鎌倉幕府の役職の外にある時頼が実権を握った事で、鎌倉幕府の権力は執権・連署といった機関から北条一門の惣領である『得宗』へと移行していくことになる。
成人した時宗は時頼の意向通りに執権へ就くが、早々に元寇への対応を迫られる。この際に国難である元寇に対して迅速に対抗・処理する事を理由に幕府と執権の権力を強大化させた。加えて御内人(得宗と私的な主従関係の従者達を指す。)を執権の代官として派遣させた。以後得宗の権力が強くなると同時に御内人の権勢も増していく事となる。
2度の元寇を防いだ時宗だったが34歳の若さで急逝してしまう。残された嫡男貞時が執権に就くが13歳と若く外戚であった御家人・安達泰盛が権力を握る。しかしこれに反発した内管領(得宗家の執事。御内人筆頭)平頼綱により泰盛は滅ぼされる。(霜月騒動)
権力を奪い取った頼綱だったが、恐怖政治を敷いたことで成人した貞時に不安視され滅ぼされる(平禅門の乱)。権力を取り戻した貞時は得宗への権力集中を強大に推し進める中で、連署であった北条庶家・北条時村の排除を自身が目をかけていた北条宗方に命じる。時村殺害は成功するも、貞時は北条庶家の反発から宗方を守りきれず、事態の沈静化を図るために宗方を追討せざるを得なかった(嘉元の乱)。
嘉元の乱以後貞時は政治への関心を失い、酒浸りの生活を送るようになる。そして貞時が強大化させるも放棄した得宗の権力は御内人・長崎一族や得宗外戚・安達一族、北条庶家によって構成される『寄合衆』が持ち、彼らによって幕府が運営されていく事になる。そして貞時の嫡男である高時が得宗を継ぐ頃には、もはや得宗すらも形骸化していた。
これにより…
という超々多重傀儡政権構造が出来上がったが、これでまともな政治になるはずがなく、貨幣経済の浸透も合わせて幕府中枢内には賄賂が横行することとなる。
これは幕府の重要な役割である紛争の調停に影響を与え、賄賂によって捻じ曲げれられた不可解な裁定が事態をさらに悪化させてしまう事もあった。これらにより幕府は権威を落とし、御家人達は幕府への不信を強くしていく。
日本最古の貨幣は無文銀銭や富本銭などがあるが、流通が確定している中で最古の貨幣は『和同開珎』を始めとする皇朝十二銭であるとされている。
しかしこれらの銭は当時の精錬技術の未熟さや、朝廷の経済学の未熟さから価値の乱高下や流通不振へ明確な対応策を打つことが出来なかった。結果銭離れを引き起こしてしまい、平安時代中期には物々交換や絹を用いた物品による貨幣制度に戻ってしまった。
清盛は日宋貿易の副産物として宋銭を大量に手に入れられる環境にあったため、これを銭として流通させたのである。当然ながら絹に比べて銭のほうが利便性が高いため、京を中心にこぞって使われるようになった。そして使われる事で需要が上がれば銭の価値は上昇、日宋貿易を独占して宋銭を仕入れることが出来る清盛は莫大な利益を得ていた。
この一方で通貨として用いられていた絹の値段は大幅に下落、絹の価値が下がると絹での納税を行っていた朝廷からすれば税収が目減りすることになる。そのため朝廷は何度か宋銭の使用停止を定めるも、その利便性から完全に守られることは無かった。
時代が下り鎌倉時代になるとさらに宋銭の利用が増えていき年貢なども銭で払うこととなった。結果そもそもの絹を前提とした財政構造が変わった事で宋銭を禁止する理由もなくなり、朝廷や幕府から公式に公認されることとなった。
このように貨幣経済が浸透するにつれて御家人達に金銭面での問題が起こるようになる。
通常御家人は地頭として民から徴収した米を売買等をして金銭に変えて生活する事になるのだが、当時は物価の安定政策等も無くなかなか安定した収入を得ることはなかなか難しい状況にいた。また武力の行使を生業とする武士・御家人の大半は経済知識に乏しかった事も状態の悪化を招いてしまった。
加えて当時の土地相続は兄弟全てに土地を分割するという性質であり、平安時代までであれば合戦で新しく土地を得る事ができたものの、鎌倉時代となり平和になると新しく土地を得ることが出来なくなってしまった。その中で分割相続を繰り返したため、各武士達の領地は小さく細切れとなり収入を増やす事は非常に難しい状態であった。
また鎌倉幕府の『御恩と奉公』という制度上、京や鎌倉の警備といった軍役の費用は全て御家人持ちである。ただでさえ収入が安定しない中から、幕府からの軍役での京の滞在費や軍事費を賄う必要があったため、慢性的な赤字かそれに近しい財政状況を強いられていた。
無論ながら元寇襲来に伴う莫大な軍備費用も各御家人持ちである。困窮した御家人達の多くは借金をしたり自らの土地を売却せざるを得なかった。しかしこれは鎌倉幕府の軍役が御家人達が稼いだお金で成り立つ以上、勝手に土地を売られてしまうと鎌倉幕府としての根幹が揺らいでしまう。
これの解決策として幕府が発令したのがかの有名な借金をチャラにしたり売った土地を元の持ち主に戻させる『徳政令』である。これが見事に逆効果になり、お金を借りる事が出来なくなった御家人はさらに困窮、没落していった。
徳政令を見てわかるように、この困窮・没落していく御家人達へは鎌倉幕府は抜本的かつ効果的な救済措置を取れずに居た。この一方で得宗家及びその御内人達は私腹を肥やし権勢を振るっていたため、これでは御家人達の強い不満が長年積もりに積もっていたのは想像に難くない。
元徳3年(1331年)4月、後醍醐天皇の臣下の中でも特に信頼の厚い3人…「後の三房」と称される内の一人である吉田定房が、六波羅探題に倒幕計画を密告し幕府に露見してしまう。計画に関与した天皇の側近たちが逮捕されてゆく中で天皇自身にも捜査の手が伸びようとしていた
元弘元年(1331年)8月になると、六波羅探題は御所にまで軍勢を押し入る強硬姿勢を見せる。しかし、後醍醐天皇は女装をし御所を脱出。配下である花山院師賢を自分の身代わりとして比叡山に送り込み、自身は笠置山(京都府相楽郡)に向かった。
比叡山には後醍醐天皇の皇子である尊雲法親王(後の護良親王)が天台座主(比叡山延暦寺の住職)であった事もあり、送り込まれた花山院師賢を天皇に思い込んだ比叡山の大衆達はこれに大いに士気を上げて、六波羅探題からの軍に激しく抵抗した。これにより幕府からの追撃の手が緩んだ事で、後醍醐天皇は笠置山での挙兵にこぎつける事が出来た。
また、この後醍醐天皇の笠置山挙兵に呼応する形で楠木正成が赤坂城(大阪府南河内郡)にて挙兵する。
笠置山の挙兵で比叡山に天皇が居ないことが発覚すると、六波羅探題の軍は笠置山に集結・包囲。さらに、この一連の反幕府の動きに対して、幕府は北条一門から大仏貞直・金沢貞冬を、御家人からは足利高氏を筆頭とした大軍勢を東国から送り込む。
天皇方は圧倒的な劣勢の中笠置山でひと月にわたり善戦するも、足利高氏の手の者が山に放火したことが原因で総崩れになり、陥落。後醍醐天皇をはじめ側近らは幕府方に捕らえられてしまう。尊雲法親王の元にも幕府の手が伸びるが、赤坂城へと逃げることで難を逃れた。
10月、幕府軍は大軍を持って楠木正成の居る赤坂城に進軍。元々急ごしらえの城であった赤坂城ではこらえきれず落城。しかし幕府軍は尊雲法親王と楠木正成の捕縛に失敗、両人は行方をくらます。
捕らえられた後醍醐天皇は天皇を廃され、幕府は皇太子であった量仁親王を光厳天皇として即位させた。
翌元弘2年(1332年)4月、後醍醐天皇は後鳥羽天皇の先例通りに隠岐に流され、天皇の側近たちの多くが斬罪となった。これにより後醍醐天皇の倒幕計画は鎮圧されたかに見えた。
元弘2年11月、楠木正成は突如活動を開始すると、先の赤坂城を攻略・奪取し城主と城主の一族まで味方につけてしまう。正成の猛攻はさらに続き、畿内で戦闘を繰り返した結果六波羅探題の主力をも打ち破り、和泉・河内の勢力を制圧下に置くことに成功する。
これらの楠木正成の活動の結果、畿内の情勢が不安定になったのを見た幕府は大軍の討伐隊を差し向ける。なお、この討伐隊の中に新田義貞も含まれていた。
翌元弘3年(1333年)1月、楠木正成が千早城(大阪府南河内郡)で挙兵。これに呼応する形で尊雲法親王から還俗した護良親王が吉野にて挙兵する。
この挙兵の際にして楠木正成は、拠点である金剛山一帯を要塞化、さらに急ごしらえで防衛力の高くない先の赤坂城(下赤坂城)の他に新しく城を作り(上赤坂城)、さらに詰めの城に天然の要害を利用した千早城を築城するなど、万全の形で幕府軍を待ち受ける形を整えていた。
2月、大群を率いて幕府軍が攻撃を仕掛けるも寡兵の上赤坂城に大苦戦を強いられる。結果的に落城させることは出来たが大損害を被る。なお『太平記』には、この際籠城する上赤坂城の水源を断つことで落城させることに成功したとされる。
同月、ほぼ同じタイミングで吉野で挙兵した護良親王にも幕府軍が侵攻、これを撃破。護良親王は一時は自害をも考えたが、配下であった村上義光(義日)が護良親王の甲冑を代わりに身に着けて身代わりとなり難を逃れた。以後護良親王は高野山に潜伏しながら、倒幕の令旨を発し続けていくことになる。
※千早城の戦いに関しては『太平記』が詳しいのだが、この『太平記』は数字やエピソードに非常に誇張が多いため現実とは大きく相違しているであろうという点が多いことを留意してお読みください。
上赤坂城と吉野を制した幕府軍は合流し、城を落とした勢いのままにまともに陣も作らずに一気呵成に千早城へと攻め寄せた。
しかし正成は櫓の上から大石を落とす、矢の雨を降らすなど徹底的に幕府軍を迎撃。金剛山の谷底には幕府軍の死体の山が連なる凄惨たる結果となってしまった。この様子を『太平記』では、死体の数を数えたら12人の書記が三日三晩書き続けたとされる。これにより、幕府軍では総大将の許可無しで攻める事に罰則が与えられることになり、一時休戦状態になった。
そんな中、先の上赤坂城の戦いで水の手を切ることで勝った例に習い、水辺に兵を伏せて水の補給でやってきた楠木軍を討つ事を画策、北条一門の名越時見がこの任に当たる。しかし、当初から籠城戦を想定していた正成は予め城の内部に大量の水を備えており、城外へ水を補給する必要性が無かった。
当初は構えていた時見の兵たちも、楠木軍がいつまで経っても水の補給に来ないために気が緩みだした。この機を正成は見逃さず、逆に深夜の奇襲で一気に攻め寄せた。たまらず時見の兵は元の陣まで逃げ戻るが、この際に楠木軍は名越軍の軍旗や大幕を奪い千早城へと持ち帰った。
翌朝城の正面に軍旗や大幕を置き、名越軍に対して『旗を取りに来い!』とからかい、挑発を仕掛けた。これに名越軍が激昂。千早城に総突撃を仕掛けるも、城の真下まで突破した所で崖から丸太を落とされ、逃げ惑う兵には矢の雨が射掛けられ散々に撃破されてしまう。これ以降幕府軍は正攻法で挑むことを諦め、兵糧攻めの持久戦へと切り替える。
持久戦となり包囲軍が攻めてこないようになると、今度は籠城側も持て余すようになる。そこで正成は籠城兵達にわら人形を30体ほど作らせると、それぞれに甲冑を着せ槍を持たせて夜中のうちに城の外に偽兵として配置、後ろに弓兵を伏せさせた上で明け方に兵たちに鬨の声をあげさせた。
これを籠城軍による最後の決死の攻撃と勘違いした幕府軍がチャンスとばかりに一斉に攻め寄せると、伏せた弓兵達が弓を放ちながら城へと後退し、わら人形の偽兵が配置されている所まで幕府軍を釣りあげた。この機を逃さず楠木軍は幕府軍目掛けて上から大石を投げ落とし、幕府軍は三度撃破されてしまう。
もはや戦をすることが自体に消極的となった幕府軍の中には遊女を呼び寄せて遊ぶ者が出たり、サイコロの目で口論となりお互いに刺し違えた結果家来同士での200人の殺し合いが発展する騒ぎが起こったりと、もはや地獄の様相を呈していた。
3月(この年はうるう月があり2月と3月の間に閏2月が存在する)、包囲するばかりでも何もしない幕府軍に対し、鎌倉からお怒りと叱咤が届く。そこで幕府軍は「長い橋を作って隣の山から千早城の城壁にかけてそこから攻める」という非常に大がかりな作戦に出た。
山から山へ届くほどの長い橋を作るために京から大量の大工を集め、70mを超える木製の橋を作らせた。そして大量の縄と滑車を使いそれを巻き上げると一気に千早城の城壁に架けて、そこから兵を侵攻させようとした。
しかし楠木軍は架かった橋に対して松明を投げ入れて油をかけて橋に火をつけてしまった。その結果先陣を切った兵達は火に煽られて前に進めず、後ろからは後続の兵が来ており戻ることも出来ず、橋から飛び降りるにも下は深い谷底と進退窮まってしまった。その間に橋に火が燃え広がり一気に崩壊、崩れた橋とともに大量の兵達が谷底へと沈んでしまった。
さらに護良親王の令旨に応じた山伏たちが幕府軍の兵站路を襲撃、封鎖したことで逆に幕府軍の方が飢える有様となってしまった。
上記のエピソード自体は『太平記』に書かれている事が大半のため、上述の通り信憑性がどこまであるかは定かではないが、楠木正成のこれらの奮戦が幕府の軍事力という権威を決定的に失墜させた事は疑いようのない事実である。
またこの千早城の戦いは、日本の大きな合戦で『山城への攻城戦』が出現した初めてのケースとも言われている。正成の卓越したゲリラ戦術で幕府軍を千早城に釘付けにした事は倒幕への大きな流れになる。
閏2月、千早城の攻城戦の最中に後醍醐天皇が隠岐から脱出し、伯耆国名和(鳥取県西伯郡)に流れ着く。名和の地頭であった名和長年が天皇を保護すると、船上山(鳥取県東伯郡)にて挙兵する。
この挙兵に対し隠岐守護であり天皇に逃げられてしまった佐々木清高が周辺の武士を集めて侵攻するも、天皇方についた名和長年の活躍もあって失敗、敗北する。
すると天皇は船上山に拠点を置きここから全国へと倒幕の綸旨を発した。これを期に天皇方に寝返る将が増え、周辺の幕府方を一掃。一帯の制圧に成功する。
4月、後醍醐天皇の脱出と挙兵を知った幕府は名越高家と足利高氏を大将軍とした討伐軍を船上山へと派遣するが、その道中で久我畷で護良親王の令旨を受けて挙兵した赤松則村の兵と交戦し、名越高家が討死にしてしまう。総大将討死を受けた足利高氏は、後醍醐天皇からの誘いを受け近畿の所領である丹波国篠村八幡宮に入ると幕府に反旗を翻し反幕府軍として挙兵。元弘3年4月29日の事であった。
反幕府として兵を挙げた高氏は近畿の反幕府軍を併合しながら京へと進軍、5月7日には六波羅探題を滅ぼしてしまう。
鎌倉幕府の西国の支配を担う六波羅探題が滅ぼされた事は西国方面の司令部が消滅した事に他ならず、これをもって千早城の包囲は解かれた。楠木正成方の勝利である。
なお『太平記』によれば、幕府軍が引き上げる際には山伏の襲撃や撤退兵同士でのトラブルが相次ぎ、散々な目にあったようである。
これにより西国は後醍醐天皇・足利高氏方の支配に委ねられる事となる。
義貞の前半生は不明なことが多い。
というのも新田氏は足利氏と同族ながらも、初代の義重が頼朝の不興を買ったことに始まり、北条氏とも関係が悪かった事もあって代が下る毎に困窮、鎌倉幕府内で名門としての地位を確立した足利氏とは対象的に幕府内での地位は非常に低かったとされる。このためめぼしい資料が残っていない。それどころか義貞の名前が見られる数少ない資料には「新田貞義」と名前を間違えて記されているほどであり、この時の義貞の立場を察する事が出来る。
一方で、そもそも新田氏は足利氏の庶家でしかなく従属的な立場であったという研究もある。
義貞までの新田氏の「氏」という名前は、足利総本家の当主から代々与えられたものであり、義貞に氏が付かないのは足利高義(尊氏の兄、宗家を継ぐも早世したとされる)から「義」の字を与えられたから、という主張である。なお高義・高氏(尊氏)・高国(直義)の「高」は全て北条高時からの偏諱である。
いずれにせよこの時期の義貞及び新田氏が立場の弱い御家人であった事は間違いない。
元弘元年(1331年)時点の義貞は大番役として京の護衛にあたっていたのだが、楠木正成の挙兵に伴う幕府からの動員令に従い翌年には千早城の戦いに出兵する。しかし元弘3年(1333年)には病気を理由に幕府で無断で領地の上野国新田荘へ帰ってしまう。
『太平記』等の記述から、一般的にはこの千早城出兵の際に護良親王から後醍醐天皇による北条氏討伐の綸旨を受け取り、倒幕を決意して領地に帰ったとされている。
この『後醍醐天皇による北条氏討伐の綸旨』の実在性は解釈が割れているものの、千早城の戦いでの幕府軍の惨状を見た事、近畿地方における倒幕の機運、あるいは関係性の悪い幕府・北条氏への個人的な怨恨等、何が切っ掛けになったかは定かでは無いにしろ、義貞が幕府に対して反抗的な行動をとったことは事実である。
新田荘に帰った義貞であったが、そこで倒幕を決意させる決定的な事件が起こる。
『太平記』によれば、楠木正成との戦で膨大な軍資金が必要となった幕府は、富裕層に対して徴税を行うことでそれを賄うことにした。義貞が支配する領土内にも御内人達が徴税の特使として幕府から送られており、5日間で6万貫文もの軍資金を用意せよという無理難題をふっかけてきた。
現在の価値で数十億円はくだらない額であり、当然そんな大金を短期間で用意できるものではない。すると御内人達は得宗の権威を盾に増長して、住民達へと苛烈な振る舞いをするようになる。困った住民達は義貞に泣きつき、この状態に怒った義貞は遂に御内人を殺害、さらし首としてしまう。
報復として幕府は新田討伐を計画、完全に追い込まれた義貞はついに挙兵する事になる。足利高氏の裏切りにより六波羅探題が滅亡した翌日、5月8日のことであった。なお挙兵時の兵数はわずか150騎であったとされる。
挙兵した義貞に対して他の新田一族や甲斐源氏・信濃源氏といった勢力が義貞に呼応する形で蜂起、それらを併合した義貞は一気に大所帯となり、5月9日に武蔵国へと出発した。
ここに合流する一つの勢力があった。足利高氏の嫡男、千寿王(後の足利義詮)の軍勢である。総大将として上洛した高氏の人質として鎌倉に置かれていたのだが、高氏の裏切りに伴い鎌倉を脱出し義貞の軍勢に合流、以後千寿王は高氏の名代として振る舞うこととなる。
千寿王の「高氏の嫡男」という立場は威光を放ち、義貞の軍に加わりたいという者が続々と集まった。『太平記』では20万7000騎(例によって誇張だと思われるが)になったとの記述がある。
なお、義貞が足利氏の従属的立場にあったと仮定すると、千寿王の脱出・保護を見据えて足利氏の指示の元で義貞が挙兵した可能性がある。つまり足利氏は最初から二面作戦を幕府方に仕掛けるつもりであった事になる。
義貞挙兵の報は幕府にも入り、5月10日に桜田定国を総大将とする軍が入間川へと出発。11日に入間川を渡り切る前の義貞軍を攻める段取りだったが、義貞の軍が早朝に入間川を迅速に渡航した事で思惑が外れ、遭遇戦という形で戦が起こる。
幕府軍は兵数では勝っていたものの、幕府に不満を持つ武蔵国の御家人のバックアップもあり義貞軍が徐々に有利となった。日没に伴い義貞軍は入間川に、幕府軍は久米川まで撤退して立て直しを図る。(小手指原の戦い)
翌12日朝、義貞は久米川の幕府軍を奇襲するもこれは予期されており失敗、しかし幕府軍の鶴翼の陣を読みきった義貞は本陣を急襲、これを撃破。これを見た桜田定国は分倍河原まで退却をした。(久米川の戦い)
小手指原・久米川の敗戦を重く見た幕府は、執権・北条高時の弟である北条泰家を大将とする10万もの援軍を分倍河原に送り込み、桜田定国と合流した。しかし義貞はこの援軍の存在を知らずに居た。
2日間の休養を経て15日、義貞は分倍河原に布陣していた幕府軍を攻めるが、援軍を得た事で士気が回復した幕府軍に迎撃されて敗走せざるを得なかった。窮地に陥った義貞は退却も覚悟していたが、その日の晩に三浦一族である大多和義勝が相模の氏族を引き連れて義貞に加勢した。すると義貞は忍びの者を使い『大多和義勝が援軍に来る』と幕府軍に流言し、翌16日、虚報で緩んだ幕府軍を奇襲して大勝を上げることに成功した。(分倍河原の戦い)
なお大多和氏は北条氏とは親しい関係ではあったが、義勝は足利氏の執事である高氏(こうし)から養子に出た人物であり、足利宗家からの要請があった可能性がある。そうでなくともこの頃にはすでに『六波羅探題滅亡』の報は関東にも届いていた可能性が高く、それを踏まえて幕府の援軍が義貞に寝返ったとも考えることが出来る。
なんにせよ分倍河原の戦いに敗北したことで、以後幕府軍は完全に守勢に回らざるを得ない状況となり、義貞の元にはさらに援軍が集まるようになったという。
同16日、多摩川を越えた義貞軍は分倍河原から退却した北条泰家を鎌倉幕府の関所がある霞ノ関で追撃しこれを撃破。家臣の決死の奮戦のおかげで泰家は命からがら鎌倉へと逃走する。(関戸の戦い)
この敗戦で鎌倉での決戦を覚悟した幕府軍は、鎌倉の7つの切通しをすべて封鎖して防備を固め、鎌倉中に兵を配置した。
翌17日、関戸に留まった義貞は自らの軍を3つの部隊に分けて、それぞれ3方向から同時に攻めることにした。担当は以下である。
鎌倉を総攻撃する手筈を整えた義貞軍は、鎌倉へと一気に進軍した。
18日朝、義貞軍は三方から鎌倉に攻め入るも天然の要害である鎌倉を攻めあぐねる。その中で義貞の義兄弟である大舘宗氏が、切通しからではなく稲村ヶ崎からの突入に成功する。しかし宗氏は幕府軍の迎撃に合って討ち死にしてしまう。
宗氏の討死で極楽寺坂方面軍の指揮系統が消失、一旦は息子である大舘氏明が代わりを務めるも討死を知った義貞は、化粧坂の指揮を弟である脇屋義助に任せて極楽寺坂方面の指揮を取ることにした。そして、20日夜に援軍を引き連れて稲村ヶ崎へと到着した。
宗氏が一度稲村ヶ崎からの突入を成功させていることもあって、幕府軍は徹底的に稲村ヶ崎の防備を徹底的に固めていたものの、21日未明~早朝にかけて義貞は稲村ヶ崎の突入に成功する。この稲村ヶ崎の突入に関しては様々な見解がある。
よく知られるのが、当時の稲村ヶ崎の波打ち際が切り立った崖であり、石も高く道も細く軍勢が通れなかった。そこで、義貞が黄金の太刀を海に投げ入れた所、龍神が現れてたちまち潮を引かせて巨大な干潟が出来る奇跡が起こり、そこを通る事で稲村ヶ崎に突入できたというエピソードである。これは『太平記』の記述による。
無論、龍神や太刀の投げ入れが脚色であることは想像に難くないため、干潮を利用して進軍したのであろうという認識をされることが一般的である。義貞が幕府の御家人である以上、干潮の時間を知っていても不自然な点がないからである。だが、当然ながら幕府側もこの時間帯に干潮が起こる事自体は知っておりその対応も想定しているはずである。つまり干潮を利用した突入であるならば、幕府軍の想定を超える何かが起こった可能性がある。
一方で同時代の資料である『梅松論』は細い道を通ったと解釈できる記述がある。これに従えば、そもそも稲村ヶ崎の干潟を通ったのではなく、極楽寺坂の切通しから正面突破した・古道を使った・精鋭部隊が山を登って後ろから奇襲させた、などといった様々な見解・主張が見られる。
また近年の天文計算では稲村ヶ崎の干潮は5月18日であり、干潮説であるならば5月21日に干潮があったとされる太平記の記述が間違っているとの指摘もある。
稲村ヶ崎を突破した義貞はそのまま由比ヶ浜に進軍、幕府軍との激戦を経て鎌倉へとなだれこんだ。背後を突かれた形になった幕府軍は総崩れとなり、切通しを突破した他の部隊との前後からの挟み撃ちに耐えられず幕府軍の敗勢が確定した。
22日、追い詰められた北条一族とその家臣は東勝寺(北条氏の菩提寺で、有事の際の要塞としての役割を持たされていた)に籠もったものの、すでに為す術もなく自ら火を放ち、一族家臣283名全員が自刃した。
1185年から数えて148年間続いた鎌倉幕府は、義貞の挙兵からたった半月、15日で滅亡したのである。
6月5日、倒幕を成し遂げた後醍醐天皇は望み通り親政の開始を宣言する。所謂『建武の新政』の開始である。
しかし論功行賞の際に勲功第一とされ、後醍醐天皇からの偏諱で高氏から名前を変えた尊氏は、自らは建武新政の要職に就かない一方で自身の配下を多数送り込んだ。これは天皇が尊氏を敬遠した説と尊氏が政権から距離を取りたかった説と解釈が割れる。
建武新政への反発が深まる中、北条時行を担ぎ上げた北条残党が蜂起する(中先代の乱)。これを尊氏の弟直義が鎌倉から迎撃するも失敗。鎌倉を奪われてしまう。尊氏は鎮圧の為に時行討伐の勅と征夷大将軍の役職を要求するも、後醍醐天皇は新政権を築かれる事を恐れ要求を拒否。結局尊氏は、後醍醐天皇の勅を待たずに鎌倉に向かい時行軍を鎌倉から放逐、中先代の乱を鎮圧する。そして鎮圧に付き従った将に独自で恩賞を与え、朝廷からの召喚命令を無視し独自の武家を築く素振りを見せるようになる。
これら一連の流れを重く見た後醍醐天皇は、尊氏を反逆者と認め義貞に討伐を命じた。(建武の乱)
これをきっかけに建武の新政は瓦解していく。
なお、近年言われる尊氏のエピソード等を鑑みるに、建武の新政で要職につかず、後醍醐天皇と距離を取ったように見えたのは、新しい武家政権への野望でもなんでもなく本当に政務を執るつもりがなかった(事実、室町幕府の運営はほぼ全て弟に丸投げしている)だけの可能性がある。
というのも、尊氏は後醍醐天皇に対しては一貫して忠義の姿勢を見せており、猜疑心に苛まれた天皇からどんな扱いを受けていても、その姿勢自体は変わらなかったからである。
また、新しい武家政権樹立へ積極的に動いていたのは尊氏ではなく弟である直義とその配下達であり、後醍醐天皇への忠義と弟直義への愛情の間で板挟みにあった尊氏が苦悩の末出した結論が、弟を立てる事であった(≒後醍醐天皇への反逆)だけに過ぎず、武家政権への野望や権勢欲からの行動では無いと見られる。
なお15年後にはそんな愛した弟と国を分けるほどの大喧嘩をした挙げ句に、弟を自ら手をかけた疑惑すらあるのだが、それはこちらの項目を参照。→『観応の擾乱』
何にせよ、実力者である尊氏を自らのコントロール下に置くことができなかったことは、建武の新政を掲げた後醍醐天皇には致命傷となってしまった。
A.わかりにくいから(室町時代にありがち)
この手の政治対立は対立構造がシンプルであれば理解もしやすく支持されやすいのだが、そもそも元弘の乱の時点で
といった具合に勢力図が複数あるためもうわかりにくい。しかもこれ以降は各人たちが所属する勢力をコロコロと変えるため、さらに混迷を極める。ちなみに元弘の乱はこれでもわかりやすい方である。
ここに権力もカリスマ性もあるのにメチャクチャな行動を取る足利尊氏が情勢をごちゃごちゃに引っ掻き回すため、脳が理解を放棄してしまいがちである。
そのせいなのか武士の時代の移り変わりをテーマにした創作物においては、それぞれ平家物語、戦国、幕末などと著名なものが多い中、太平記では弱い印象もある(一応大河ドラマにはなっているのだが)。このあたりのエンタメ性の薄さも人気が出ない理由なのではないだろうか。
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最終更新:2024/11/28(木) 05:00
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