松平親忠(まつだいら・ちかただ)とは、三河の戦国武将たちである。
松平信光の三男。2の親忠の大伯父にあたる。通称は次郎三郎。法号は西忠。
親忠存命の時は、宗家扱いは長男の「岩津殿」であったと三河物語に伝えられている。この岩津殿に関しては後代に親忠の長男として伝えられた松平親長の可能性があると言われている。恐らくは、親忠は安祥松平家初代としての分家の存在でしかなかったと推測される。実際、彼の曾孫である清康は「安城四代岡崎殿」と銘した多宝塔(現・重文)を建立している。
ただし親忠の活動として特筆すべきものに大樹寺の建立、および大樹寺への松平一族連判状の奉納が挙げられる。これは当時・惣領家として主に京都で活動していた岩津家の当主に代わって、親忠が三河の惣領になろうとする試みの一つではないかと言われている。
のちに松平長親・松平清康・徳川家康などの優秀な中心人物が出現したため、4代当主の扱いを受けたものと思われる。
松平貞副(まつだいら・さだすけ)の子。形原松平家は松平信光の五男(寛政譜では四男)・松平与副(まつだいら・ともすけ)が三河国宝飯郡形原郷というところに住みつき750貫を領したのが始まりという。
松平清康に仕えたが、守山崩れで清康が死亡して以降は織田信秀との誼を結ぼうと図る。
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最終更新:2025/12/10(水) 16:00
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