松平親忠 単語


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マツダイラチカタダ

松平親忠まつだいら・ちかただ)とは、三河の戦国武将たちである。

  1. 平家4代当。⇒本項で説明。
  2. 形原平家3代当。⇒本項で説明。

松平家宗家・松平親忠(1431~1501)

の三男。2の忠の大伯父にあたる。通称は次郎三郎。法号は西忠。

忠存命の時は、宗扱いは長男の「岩殿」であったと三河物語に伝えられている。この岩殿に関しては後代に忠の長男として伝えられた長の可性があると言われている。恐らくは、忠は安祥平家初代としての分の存在でしかなかったと推測される。実際、彼の曾孫である清康は「安四代岡崎殿」と銘した多宝(現・重文)を建立している。

ただし忠の活動として特筆すべきものに大樹寺の建立、および大樹寺への一族連判状の奉納が挙げられる。これは当時・惣領として京都で活動していた岩の当に代わって、忠が三河の惣領になろうとする試みの一つではないかと言われている。

のちに松平長親松平清康徳川家康などの優秀な中心人物が出現したため、4代当の扱いを受けたものと思われる。

形原松平家・松平親忠(?~1541)

貞副(まつだいら・さだすけ)の子。形原平家の五男(寛政譜では四男)・与副(まつだいら・ともすけ)が三河宝飯形原郷というところに住みつき750貫を領したのが始まりという。

松平清康に仕えたが、守山崩れで清康が死亡して以降は織田信秀との誼を結ぼうと図る。

これは君・松平広忠も同様の行動を起こすこととなる。

1541年、東条吉良義昭を攻めた。

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