松平広忠(まつだいら・ひろただ 1526~1549)とは、三河の戦国武将である。
松平家8代当主。松平清康の嫡男。子に徳川家康がいる。弟に1540年に戦死した松平源次郎信康がいるという。
幼名は竹千代と伝えられているが、当時の書状には千松丸と署名しており
実際の幼名はこちらであろうと考えられている。
1535年に父が守山において阿部正豊によって横死すると、大叔父・松平信定により居城・岡崎城を占領される。
わずか10歳で追放された。
その後数年に渡り領国内を彷徨い続けるが、存命していた曽祖父・松平長親は信定の横暴を諌めることなく黙認し、広忠を見捨てた。
1539年、いよいよ広忠殺害が領内で強まる状態の中で阿部定吉(正豊の父)により救出され、東条城主・吉良持広の庇護を得て伊勢へと逃亡した。
しかし、庇護者の持広がまもなく亡くなってしまうと、養子・吉良義安が家督を継ぐ。
義安は当時わずか4歳であったが、親織田派の家臣の影響で広忠と定吉は吉良の所領を脱出し、三河へと逃亡した。
そこで定吉は一計を案じ、今川義元の救援を受けることを決断した。
義元のほうも驚いたが、義元にして見れば松平を今川に組みこむことで労せずに三河を手に入れることができる。
松平のほうとしても尾張の織田信秀の脅威はぬぐい切れず、今川という強力な後ろ盾を得ることで援軍を期待することができた。
1540年、今川義元の大きな協力者を得た広忠は広忠の岡崎城復帰を願う譜代衆の働きにより、叔父である松平信孝・松平康孝兄弟の協力により松平信定を降伏に追い込んだ。
しかしやがて信孝が康孝の領土である三木を横領し始めて権勢を振るようになった。
このことが原因で信孝は家中から孤立し失脚した。
ある年の今川家への年賀祝いに広忠の代理で駿府に行ってる隙に三木城を攻め落とし、広忠は康孝の三木の領土を奪還した。
そしてそのことに不満を持った信孝を追放処分にした。
家康の生母・於大の方との婚姻は1541年に婚姻したという。
1542年、嫡男・竹千代が誕生。(幼名は曽祖父・長親の命によるものだという。)
しかし1543年に岳父・水野忠政が病死すると、家督を継いだ水野信元が織田方につくことを表明。
1544年に正室・於大の方と離縁し、実家へ帰した。
1547年、織田信秀による三河侵攻では今川義元に救援を乞う。
その見返りに竹千代の人質を要求したため、これを受け入れる。
しかし、継室の岳父・戸田康光に欺かれて竹千代を1000貫(500貫とも)で織田方に売られた。
康光は同年のうちに義元に攻められて自害している。
1548年、小豆坂の戦いで今川軍の援軍を得て大勝した。
同年のうちに今川軍が織田信広(織田信長の庶兄)を捕縛し、竹千代との捕虜交換を実現させた。
1549年、岡崎城内で死去した。
佐久間氏からの刺客によって暗殺されたとの見方が現在有力である。
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最終更新:2024/12/12(木) 06:00
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