畠山尚誠(はたけやまひさまさ 1531~?)とは、紀伊国あるいは河内国あるいは大和国の武将である。畠山総州家7代当主。
応仁の乱で尾州家の棟梁・畠山政長と戦った畠山義就は総州家の棟梁であり、尚誠はその末裔にあたる。
『観心寺文書』249号の天文18年(1559年)に19歳とあるので、おそらく享禄4年(1531年)の生まれとされる。『天文日記』の天文5年(1536年)4月5日の条に畠山小次郎の子息が越中に送られようとした鳥、この時点で畠山尚誠はかなり幼少のため、この畠山小次郎が畠山在氏かどうかの論争が存在したりもする。なお、諱の尚誠は政長流畠山氏の畠山尚順と関係があるかどうかは不明。
『蜷川家文書』3-585号によれば、畠山在氏が細川晴元政権になった際、御供衆になった可能性があるが、確実な証拠はまだない。
木沢矩秀率いる畠山在氏の軍が天文18年(1559年)5月9日に三好長慶、遊佐長教の軍勢に敗れたころ、観心寺に文書を発給したことが確実な所見である。ともあれ、江口の戦いで三好長慶が細川晴元を破ったことで彼ら義就流畠山氏は没落した。
こんな時期に当主となったのがこの畠山尚誠である。当然何をした人物かはよくわかっていないが、『隅田八幡神社文書』34号によると、大和宇智郡に何らかの権益を持っていたことが明らかになっている。さらに『栄山寺文書』127号によると平誠祐、遊佐家盛を内衆としていたことがわかる。
そして、『良尊一筆大般若経奥書』の天文21年(1552年)6月7日の記事では河内奪還戦を繰り広げていたことがわかる。この時期はちょうど遊佐長教の暗殺、安見宗房による萱振一門の粛清が続き、細川晴元の軍事行動もあったため、この隙をついて政長流畠山氏を打倒しようとしたと思われる。
しかし、三好長慶と結ぶ政長流畠山氏の基盤は盤石であり、失敗した。弘治2年(1556年)7月には安見宗房が大和の布施氏を攻め、畠山尚誠が布施氏に加勢したことが『厳助往年記』からわかる。
完全にただの局地勢力と化した義就流畠山氏であったが、『金剛寺文書』270号などの文書はまだ存在した。しかし、永禄の変の際に永禄8年(1565年)8月26日に足利義昭側についたことが最後にわかっている彼の動向となってしまった。
軍記『続応仁後記』では松永久秀の仲介で畠山高政の家臣となったとされるが、今のところ史実かは不明。『観心寺文書』606号には彼の婚礼した事実があるが、子息がいたかどうかはわからない。『信長公記』を見る限り別所吉親の妻は畠山尚誠の姉妹か娘である。
結局こうして義就流畠山氏は消えてしまった。なお、畠山尚誠の子孫が豊臣家に仕えたという記述が散見されるが、大坂の陣絡みの軍記に畠山氏は登場せず、ネットができてから成立した都市伝説の可能性も極めて高かったりする。『翁草』の『永夜茗談抜粋』によると、政長流の畠山政信が大坂冬の陣開戦直前まで大坂城にいたらしいので、これがごっちゃになったのかもしれない。
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最終更新:2024/05/08(水) 23:00
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