大坂の陣 単語

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大坂の陣とは、1614年と1615年日本大坂城(のち大阪城)で起こった合戦である。


1600年の関ヶ原の戦い勝利し、1603年に江戸幕府を開いて下を統べる徳川家康と、関ヶ原の戦いにおける論功行賞で勢力を縮小しつつも、依然侮りがたい勢力を誇っていた豊臣秀頼が戦った。

戦いの結果、大坂城に籠る豊臣秀頼が敗れて自豊臣秀吉以来栄を誇った豊臣はここに滅亡となり、こののち、徳川家康徳川秀忠らによる下泰が徐々に築かれていくことになる。

戦端

1600年の関ヶ原の戦いで、徳川家康率いる東軍は、毛利輝元石田三成ら率いる西軍を破った。この結果、西軍に属した大名は一部の例外を除いて衰退、一方戦争勝利した徳川家康をはじめとする東軍諸大名は戦勝褒賞の恩恵に預かることとなり、豊臣は論功行賞の代償もあって摂津河内を中心とする65万石程度にまで直轄領を衰退させる。1603年、徳川家康江戸に幕府を開き、2年後将軍職を息子である徳川秀忠に譲り、自らは大御所として駿府に在住。家康秀忠の二頭体制をもって下を統べた。

しかし、この当時の徳政権における豊臣の扱いは他と格別したものであり、他の諸大名との扱いとは隔絶されたものとなっていた。徳川秀忠豊臣秀頼婚姻を結ぶなどもあったが、官位でも家康の後任として右大臣となり、秀忠の官位である内大臣を越えるなど、扱いには細心の注意が払われていた。

ただし、徳豊臣における力関係は、日増しに徳優勢となっており、1611年の会談では、徳川家康豊臣秀頼よりも上位の存在になったとする説もある。だが、朝廷に加え幕府をる徳関白補として有力な存在であり武力を持ち筋にあたる豊臣という、極まりない構造がいつまでも続くわけはなく、当初こそ豊臣との融和的共存を考慮した家康ではあったが、しだいに秀頼及び豊臣の存在を脅威と感じるようになり、豊臣排除の方向へと突き進むこととなる。

家康の脅威をいかに取り除くかというのは、豊臣にとっても至上命題であり、豊臣恩顧の大名の協力を仰ぎ、また関ヶ原の戦いで改易処分された人物をしきりに雇い入れた。のちに人衆まで雇い入れ、この中から真田幸村毛利勝永などがあらわれる。一方織田信雄など、人物の柄や人望をアテにした人材も雇った。

1614年、方広寺の鐘銘に「国家安康」「君臣豊楽」という文面があるのを受けて、徳川家康はより強圧的に豊臣への圧迫をすすめる。後世「家康の言いがかり」とされるものの、君臣豊楽はともかく、国家安康の方に関しては当時でも諱を分断することは礼なことなので、一理ないこともない。近年ではこちらを重視した「豊臣の挑発説」などもあり、ともかく政治的な動きについては諸説ある。

しかし、結局徳豊臣の交渉は好転せず、ここに来て家康はついに豊臣討伐を決意する。

両軍の主な戦力

豊臣
徳川家康
江戸幕府初代将軍、大御所
徳川秀忠
江戸幕府二代将軍、徳家康の三男
伊達政宗
伊達。徳将軍と縁戚
井伊直孝
。徳譜代。井伊直政息子
本多忠政
本多。徳譜代。本多忠勝息子
上杉景勝
上杉
藤堂高虎
池田
池田池田輝政息子
前田利常
前田前田利家息子
黒田長政
黒田黒田孝高息子
松平忠直
越前平家松平秀康息子
真田信吉
譜代。真田信之息子
佐竹義宣
佐竹佐竹義重息子
豊臣秀頼
豊臣豊臣秀吉の嫡男
大野治長
豊臣側近。秀頼淀殿双方から重用
真田幸村(信繁)
人衆。真田昌幸の次男
長宗我部盛親
人衆。長宗我部元親の四男。元大名
毛利勝永
人衆。元豊臣秀吉
明石全登
人衆。元宇喜多秀家
後藤基次
人衆。元黒田孝高
山川賢信
人衆。元伊達政宗
大谷吉治
大谷吉継一門(息子)。元豊臣
内藤元盛
毛利臣。豊臣と両属
仙石秀範
仙石一門。仙石秀久息子
細川
細川一門。細川忠興息子

この戦いにおける特徴として、双方が双方とも大きな問題を抱えていたことにある。徳方は数では30万と号する大軍を率いていたが、世代交代の過渡期にあたり、本多忠勝井伊直政といった優秀な重臣達が尽く世を去った後であった。外様大名でも戦国時代を過ごした先代が亡くなり、次代が跡を継いだというケースが多く、細川忠興黒田長政上杉景勝といった例外を除いて、二世三世が軍の大半を占めており、徳川家康本人もそのことを嘆いている史料が存在している。

一方豊臣では、真田幸村長宗我部盛親といった関ヶ原での改易武闘組を数多く雇用できたものの、統一行動揮系統に問題があり、結局最後まで離反者が絶えなかった。織田信雄織田有楽斎片桐且元など方針の違いに諦観して徳方に走った者も多かった。また同じく穏健された大野治長大坂城内で暗殺未遂で重傷を負ういう騒ぎもあり、組織としてはかなり未熟であった。

加えて、豊臣秀頼の挙兵に呼応する恩顧大名が1人もいなかった。加藤清正前田利長といった豊臣系大名が、病死あるいは危篤の状態にあり、豊臣色の薄い大名が多かったのも要因である。残った豊臣系大名も徳幕府の厳しい監視にされ、結局福島正則大坂にある兵糧を提供する止まりであった。

また細川や仙石真田のように、一門がそれぞれ徳豊臣双方についたパターンも存在する。

大坂冬の陣

1614年10月、いよいよ徳豊臣双方が軍事的衝突に備え動き始める。徳軍は軍勢約30万、豊臣軍は軍勢約10万と伝えられている。徳方はまず徳川秀忠が大軍を率いて着。後から徳川家康率いる大軍が大和方面から進軍して着した。豊臣方では野戦か籠かと作戦立案を巡って揉めたが、結局籠となる。

方は四方八方に大軍を展開し、東西南北全ての方向から大坂城を攻め、豊臣方の付け砦を落としていった。徳方優勢で進むかに見えたこの戦いは、の南側を固める砦・真田丸を攻めた際の猛反撃によって手痛い反撃を食らうこととなる。この南側の砦を築いたのが真田幸村であり、徳軍を撃退して大きな損を与えたのも真田幸村長宗我部盛親であった。この戦いで徳軍を撃退した真田幸村は一躍名が広まり、一方長宗我部盛親の活躍は時代が下るごとにどんどん忘れ去られていった。

しかし、徳川家康は堅大坂城を力攻めすることを諦め、かつて太秀吉が得意としていた消耗戦に切り替える。家康大坂城付近を流れるを工事によって嵩を減らし、行軍を容易なものとする。また深夜に鬨のを鳴らし、豊臣方の戦意喪失を狙った。この際のにすら届いたという。

また、仕寄りを構築して敵の攻撃を防いだり、イギリスオランダから購入した大砲射撃をしたり、武田信玄も得意とした坑による石垣土塁の破壊など、ありとあらゆる方法で大坂城を削いだ。

ことに徳軍における大砲射撃は大きな効果をもたらす。一説には淀殿のいる本丸に打ち込まれ、被害を受けた女の大半が即死。これで淀殿が和を決めたとする説がある。また塞構築にもを与え、これ以降守閣と呼ばれる建物が衰退した。大きな守閣では大砲のマトにしかならず、総大将の居場所を教えるようなものだとして、以後の塞では採用されることが少なくなり、江戸城も明の大火で消失した守閣は再建されなかった。また大きな櫓を守閣のように見立てるも登場した。

和睦

理由や契機は諸説あるも、1614年12月、徳方と豊臣方によって和が結ばれた。豊臣秀頼行動不問、秀頼淀殿の安全と本領安堵を条件に、大坂城の二の丸三の丸の破壊、大野治長らから人質を出すこととなり、和が結ばれている。後世では徳方がいちゃもんをつけ、和議内容以上に大坂城を埋め立てた、とするものもあるが、当時の史料では和内容や条件について、徳豊臣における対立は発生しなかったとされる。

にあたり、徳方苦戦の要因となった真田丸をはじめ、大坂城の防衛機構はほとんどが破壊された。二の丸は屋敷まで破壊して埋め立て、門や櫓も尽く破壊した。難攻不落と呼ばれた大坂城のありし姿は既にそこにはなく、ギリギリの内容での豊臣安堵という状態で永らえることとなった。

大坂夏の陣

によって徳豊臣の停戦となるも、既に徳方は再度の合戦に備えて軍備を整えていた。そして翌年3月豊臣方へ人の解雇豊臣大坂からの転封を要し、豊臣拒否する豊臣の討伐を決意。徳川家康は諸大名に兵をあげ伏見へと集結するように命ずる。汚い流石たぬき汚い

徳川家康息子である徳川秀忠らと4月22日軍議を開き、順次大坂へと進軍させる。豊臣方では勝機を失したとして、逃げ人たちも出た。なお同時期、織田有楽斎大坂城を退去している。

大坂夏の陣では、道明寺八尾天王寺といった各地で、徳方と豊臣方が衝突。野戦において雌雄を決さんとした。豊臣方では後藤基次真田幸村毛利勝永らが必死の善戦を行うも、数に勝る徳軍に結局は押し切られ、基次・幸村は戦死、勝永は大坂城へ戻った後自した。この時の豊臣方善戦はのちに講談で有名となったが、事績のルーツは史実での活躍があった。詳細は各人のWikipediaニコニコ大百科などを参照されたいが、徳川家康が何度も後退して、武田信玄との三方ヶ原の戦い以来本の旗が倒された、本多小笠原秀政ら数多くの徳武将が戦死した、毛利勝永真田幸村大野治房が徳川本を襲い大混乱に陥らせた、など数多くの武勇伝が残っている。

しかし、徳方の黒田長政細川忠興といった戦国時代の生き残りが混乱を収拾しながら豊臣軍を押し返したことで、徐々に徳軍も体制を立て直し、結局数に勝る徳軍が勝利した。

5月7日深夜大坂城守閣は燃え盛る炎の中で陥落、翌日、豊臣秀頼淀殿大野治長らは、逃れた大坂城の一自害した。介錯には戦功褒賞として、毛利勝永が選ばれたという。のち勝永も自した。

その後

豊臣秀頼が自したことで、豊臣秀吉以来の栄を誇った豊臣は滅亡となった。秀頼の遺児は大掛かりな捜索の末探し出され、処刑された。当時8歳と伝わる。秀頼の女児秀忠であり秀頼の正室であった千の助命嘆願により、門に入れられ、子を成すこともなく寿を全うした。なお肝心の千の再婚相手には一悶着あり、坂崎直盛の憤死などもあったが、最終的には本多忠刻で落ち着く。しかし忠刻は逝。千江戸城で若くして落飾し、以後70歳で死するまでここで過ごした。

その後、徳川家康徳川秀忠らによって江戸幕府による下泰の足がかりが築かれ、以後250年近くに渡って日本平和な時代を迎えた。大坂も徳氏によって復され、現代に続く並みの礎となる。

大坂の陣に参戦した徳方武将も、豊臣方武将の奮戦は讃えており、とりわけ真田幸村に対する賞賛は相次いだ。公家衆すらも幸村を褒め称え、島津忠恒は日ノ本一の兵と彼を賞賛した。また黒田長政はこの時の合戦を絵図屏にさせ、これは大坂夏の陣図屏として現代まで残っている。「戦国ゲルニカ」と称され悲惨、残酷な描写の多いことで有名であるが、この屏にもしっかりと真田幸村の善戦ぶりは描かれた。これらの要素は、後世講談に反映され、真田幸村ひいては真田人気さきがけとなっている。ここから、秀頼幸村薩摩脱出生存説なども囁かれ始めるようになった。

戦後豊臣に味方していたものは不遇の生涯を遂げた。長宗我部盛親をはじめ、生きて逃亡したものもその大半が捕らえられ、刑死した。明石全登は生死不明となり、幕府方の捜索の手はひとまず逃れている。

論功行賞もきちんと行われ、この後大坂の陣での恩賞から大名に復帰したものもいる。立花宗茂丹羽長重織田信雄などが大名に復帰し、この3者はいずれも幕末まで御を存続させた。

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