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1 ななしのよっしん
2019/09/27(金) 13:37:11 ID: iUBhALkXJp
記事作成乙!
なお、
墓石に金網が被せられてた(裏付ける史料は残ってない)
宗春が吉宗を直接批判した(裏付ける文章は残っていない)
注;宗春が江戸でも尾張藩内と同じように派手な言動をとった記録は、市谷尾張藩邸の新築時に江戸庶民に開放した享保17年5月の端午の節句以外の直接的な資料はいまだ見つかっていない。
むしろ、吉宗は宗春にたいへん目をかけていた記録も散見さ、吉宗は謹慎中の宗春に対し、生活を気遣う使者を送っている
2 ななしのよっしん
2019/09/27(金) 19:22:55 ID: i9byb9+vRn
この人と吉宗の対立は
放漫財政VS緊縮財政
という解釈で良いのかな?
3 ななしのよっしん
2019/09/27(金) 23:01:12 ID: QDpMIj+tpj
この人は吉宗を批判したいために持ち上げられているだけで、そんなだいそれた人物じゃないと思うけどな
贅沢三昧で名古屋が活性化したからといって、その後、借金の返済で増税、倹約するんでは差し引きゼロどころか景気を不安定しだけマイナスだよ
ぶっちゃけ、政策ってレベルではなく、ただの浪費では
4 ななしのよっしん
2019/09/27(金) 23:11:41 ID: uu8Oxz/vsH
>>1
結構新し目の事典にもこんな感じで書かれていたが、そうなのか
参考までに何の本、もしくは論文に載っていたかkwsk
5 ななしのよっしん
2019/09/29(日) 01:56:59 ID: iUBhALkXJp
>>4
北川宥智氏の「徳川宗春・〈江戸〉を超えた先見力」などなど
なお、現在の宗春の墓は通説で金網が外された年に官位追贈を記念して作り直されたものなので、金網の真偽がどうあれ金網が覆われたことはない
金網以外の信じられている俗説としては吉宗からの「三箇条の詰問」などがあるが、これは時系列的な検証などによって、最近ではこれは後の創作ではないかと考えられている
「死ぬまで屋敷から出ることを禁止された」というのも誤りで、後に前藩主専用の7万坪以上あるご隠居屋敷に移っているし、自身は楽隠居状態で、側室二人と、陶器を焼いたり、吉宗から拝領した朝鮮人参を栽培したりしていた。なお、尾張藩の祈禱寺興正寺に当時の参拝記録が残っている。
また、「父母の墓参りも許されなかった」というのも文献上確認できず、後に菩提寺である建中寺へお参りに行っていて、その時、市中の人々が提灯を軒先にならべて参拝を迎えたという記録が残っている。
6 ななしのよっしん
2020/07/11(土) 05:15:09 ID: XWP+IfvNd+
とある歴史系YouTuberの動画では些か過剰に持ち上げられてたが
功罪多く、対照的に批判されがちな吉宗と比べると
地位の違いはあるが経済観念を持って政を行なっていたとは思えない
享楽的、文化的な事業は庶民受けは良かったけど後に撤回してる、されてることも多いし
だが絢爛豪華な言動と政策で町人受けの良かった宗春
質実剛健で他者にもそれを課し、人受けは良いとは言えないものの米本位の経済という難敵に終始挑み続けた吉宗
両者の対比は面白くドラマ的ではある
7 ななしのよっしん
2020/11/26(木) 23:04:09 ID: EnEh79KqxK
名古屋市長のコロナに対する記事を読んで、ふと宗春公の名前が浮かんでね。
8 ななしのよっしん
2022/12/06(火) 18:27:18 ID: Np5Piw7tQy
豊田有恒「尾張名古屋異聞」や土橋章宏「金の殿」で題材にされてるあたり、創作映えする人物であることは間違いない。>>6の言うとおり吉宗との対比も面白いし
ところで「尾張名古屋異聞」での歴史改変者の動機がすごい好きなんだけど、分かってくれる人いるかな…
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