安土桃山時代とは、1573年~1603年の間を指す時代である。
戦国時代ともいわれ群雄割拠という四字熟語が相応しく全国各地で武士たちの争いや勢力拡大が激しかった。
中でも織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人がそれぞれ引き継ぐように時代を進展させ以降の江戸時代からは騒乱の世も終わり、その後も争いは絶えないもののひとまず安泰な時代へと突入する。
この時代は小氷河期が来たとされ農作物の減少などにより一揆が多発。
これなども原因で自国を守るため他国との食料争いなども増えていた。
また桃山文化と呼ばれる安土桃山時代の文化が栄え、有名なのは天守閣を備えた城でありそのうちの一つ、池田輝政の居城、姫路城が代表的である。他にも洛中洛外図で有名な狩野永徳、茶の湯のわびさびを世に知らせた千利休、 阿国歌舞伎で人気を得た出雲阿国など豪華絢爛な文化が有名である。
またゲームでもこの時代を主体としたものが多く、シミュレーションでは信長の野望や太閤立志伝、アクションでは戦国無双や戦国BASARAなどがある。それゆえにこの時代は比較的人気を得ている。
1467年、8代将軍 足利義政が跡継ぎを決めずに出家し、後見人となった細川勝元と僧籍にいた義尋から将軍へと戻され新たに名を名乗った義政の弟、足利義視を中心の東軍と守護大名 山名宗全、義政正室 日野富子 9代将軍 足利義尚を中心とした西軍とで対立し応仁の乱が勃発。
乱がおよそ11年も続き、幕府や守護大名の力が衰退すると全国で下剋上が風潮となり北条早雲を筆頭に斉藤道三、尼子経久など次々に身分の低い武士たちが勢力をさらに広げ全国に名を馳せた。
この下剋上に乗っかった織田信長は織田信秀の三男でありながら最初に織田家を統一、次に尾張を統一すると1560年の桶狭間の戦いで海道一の弓取りなどと呼ばれた駿河国の今川義元を破ると1567年には自身の妻、濃姫の父親である斉藤義龍の子供、斉藤龍興の支配する稲葉山城を攻め落としその地を岐阜と改名。翌年足利義昭を助け15代将軍就任への手助けを行なう。
しかし義昭は傀儡のごとく信長を利用し二人の間に溝が出来る。また甲斐の武田信玄、越前の朝倉義景、比叡山延暦寺などそれらの勢力により信長包囲網と呼ばれるものをつくり上げる。
信長は朝倉義景攻めに向かおうと浅井長政を頼るが長政が突如裏切る。信長命からがらに逃げると翌年1572年には姉川の戦いで朝倉・浅井連合軍を打ち破る。続いて1573年に三方原の戦いでは徳川家康と連合(ただし実質的には徳川のみ)し、一時敗れるものの、主将の武田信玄が道中で病死して戦は終了。他にも比叡山延暦寺焼き討ちをしていたため、信長包囲網は完全に崩れ去った。
そして同年15代将軍足利義昭が京から追放されると室町幕府は滅亡。以後1603年まで安土桃山時代といわれる時代が続く事になる。
その後信長は楽市楽座や関所の廃止などを行い、天下統一の兆しを見せたが1582年、重臣の明智光秀による謀反とされる本能寺の変で自害に追い込まれ天下統一目前でその命を絶つ。
信長の死後、彼の家臣の一人であった(当時の名称)羽柴秀吉は同年に山崎の戦いで明智光秀と対戦。光秀は敗走し小栗栖で落ち武者狩りに遭い切腹。
秀吉は織田家に残った次男の信雄と三男の信孝の跡継ぎ決めなどに参議し1583年には信孝を推す柴田勝家と賤ヶ岳の戦いで対立し勝家と信孝を切腹させる。翌年の小牧長久手の戦いでは信雄が連合した徳川家康と激突し、徳川勢にやられるもなんとか信雄との和睦を成功させた。こうして信長の息子たちをおさえて事実上織田信長の後継者となる。
ちなみに秀吉は百姓が血筋のため征夷大将軍になれなかった。そこで足利義昭に昇格を頼むが義昭はこれを拒否。その後関白であった近衛前久の養子を請うと前久はこれを承諾。1585年に関白に就任し羽柴から豊臣を名乗ることとなった。また太政大臣にも就任している。
その後は身分の差をさらにつけるために刀狩や太閤検地などの政策を行なう。さらには海外をも支配しようと朝鮮出兵を二度も行なったが1598年に病死。支配は終わりを告げたと当時に豊臣政権が短命に終わる原因の一つともなった。
秀吉には既に子供がいたが秀吉が56歳の時に生まれ父親となった秀吉が62歳で死去したため息子の秀頼の幼さでは政治を任すことは出来ない。そこで今後の政治をどうするか秀吉の定めた五大老と五奉行とで合議制が行なわれた。
五大老{徳川家康(関東250万石)・前田利家(加賀80万石)・宇喜多秀家(吉備55万石)毛利輝元(安芸120万石)・上杉景勝(会津120万石)}
五奉行{石田三成(近江19万石)・浅野長政(甲府20万石)・前田玄以(丹波5万石)長束正家(近江5万石)・増田長盛(大和郡山20万石)}
この中では五大老の徳川家康が一番石高が多く勢力が強く、彼は秀吉の遺言を破り次々と思うがままに活動し始め実権を握ろうとしていた。これを危機に感じた石田三成が家康を討とうと決め、1600年に天下分け目の大合戦、関が原の戦いが起こる。
当初は家康の息子徳川秀忠(後の徳川2代目将軍)率いる軍が信州上田の真田昌幸に翻弄され8日間足止め、大谷吉継の指揮などで東軍は劣勢していたものの西軍の小早川秀秋が東軍に寝返り新たに1万5千の攻め込みに遭い、わずか半日で決着がつき東軍の勝利となる。
大谷吉継はこの寝返りを読み小早川が攻め込んで来ると他の軍とも合力し撃退しようとしたが小早川勢の裏切りに備えていた別の場所にいた四軍が突然大谷勢に攻め込んできた。こうして大谷勢は総崩れして主将を務めた吉継は責任感を背負い自害。この自害が西軍に大きな動揺をもたらし敗北の原因の一つとされている。
また西軍の総大将を務めた毛利輝元は最初山に陣取ったものの麓に東軍の吉川広家が陣取り毛利の出撃を阻害した。そこで輝元は広家にそこを退くよう命令を出したが広家は霧などによる視界の悪さにより止めさせた。(その後広家は早く終われと願ったという。)結局毛利の出番無しに東軍の勝利という形で戦は終了。これもまた西軍が敗北した原因の一つとして見られている。
そんな事で勝利をおさめた家康は後に征夷大将軍となり1603年に江戸幕府を開く。ちなみにこの江戸幕府は1867年徳川15代将軍慶喜による大政奉還が行なわれるまでおよそ260年あまりは続く事になる。
こうして信長から秀吉へ、そして最後は家康の手により戦国の世に終止符を打つと同時に江戸時代が開始する。
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最終更新:2024/04/18(木) 14:00
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