安土桃山時代 単語

11件

アヅチモモヤマジダイ

2.7千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE
これはリビジョン 1316169 の記事です。
内容が古い・もしくは誤っている可能性があります。
最新版をみる

安土桃山時代とは、1573年~1603年の間をす時代である。

概要

戦国時代ともいわれ群雄割拠という四字熟語が相応しく全各地で武士たちの争いや勢拡大がしかった。

中でも織田信長豊臣秀吉徳川家康の三人がそれぞれ引き継ぐように時代を進展させ以降の江戸時代からは騒乱の世も終わり、その後も争いは絶えないもののひとまず安泰な時代へと突入する。

この時代は小氷河期が来たとされ農作物の減少などにより一が多発。
これなども原因で自を守るため他との食料争いなども増えていた。 

また文化と呼ばれる安土桃山時代の文化が栄え、有名なのは守閣を備えたでありそのうちの一つ、池田輝政の居姫路城が代表的である。他にも外図で有名な狩野永徳茶の湯わびさびを世に知らせた千利休阿国歌舞伎人気を得た出雲阿国など爛な文化が有名である。

またゲームでもこの時代を体としたものが多く、シミュレーションでは信長の野望太閤立志伝アクションでは戦国無双戦国BASARAなどがある。それゆえにこの時代は較的人気を得ている。

安土桃山時代の開始から終了までの経緯・詳細

1467年、8代将足利義政が跡継ぎを決めずに出し、後見人となった細川勝元と僧籍にいた義尋から将軍へと戻され新たに名を名乗った義政の足利義視を中心の東軍と守護大名 山名宗全、義政正室 日野富子 9代将足利義尚を中心とした西軍とで対立し応仁の乱が勃発。

乱がおよそ11年も続き、幕府や守護大名が衰退すると全で下上が潮となり北条早雲を筆頭に斉藤三、尼子経久など次々に身分の低い武士たちが勢をさらに広げ全に名を馳せた。

この下上に乗っかった織田信長織田信秀の三男でありながら最初に織田を統一、次に尾を統一すると1560年の桶狭間の戦い一の取りなどと呼ばれた駿今川義元を破ると1567年には自身の妻、濃姫父親である斉藤子供斉藤の支配する稲葉を攻め落としその地を岐阜名。翌年足利義昭を助け15代将軍就任への手助けを行なう。

しかし義昭は傀儡のごとく信長を利用し二人の間に溝が出来る。また甲斐武田信玄越前朝倉義景比叡延暦寺などそれらの勢により信長包囲網と呼ばれるものをつくり上げる。

信長朝倉義景攻めに向かおうと浅井長政を頼るが長政が突如裏切る。信長命からがらに逃げると翌年1572年にはの戦いで朝倉浅井連合軍を打ち破る。続いて1573年に三方原の戦いでは徳川家康連合(ただし実質的には徳のみ)し、一時敗れるものの、将の武田信玄中で病死して戦は終了。他にも比叡延暦寺焼き討ちをしていたため、信長包囲網全に崩れ去った。

そして同年15代将足利義昭から追放されると室町幕府は滅亡。以後1603年まで安土桃山時代といわれる時代が続く事になる。

その後信長楽市楽座や関所の止などを行い、天下統一の兆しを見せたが1582年、重臣の明智光秀による謀反とされる本能寺の変自害に追い込まれ天下統一前でその命を絶つ。 

信長の死後、彼の臣の一人であった(当時の名称)羽柴秀吉は同年に山崎の戦い明智光秀と対戦。光秀は敗走し小栗栖で落ち武者狩りに遭い切腹

秀吉織田に残った次男の信雄と三男の信孝の跡継ぎ決めなどに参議し1583年には信孝を推す柴田勝家賤ヶ岳の戦いで対立し勝と信孝を切腹させる。翌年の小牧長久手の戦いでは信雄が連合した徳川家康突し、徳勢にやられるもなんとか信雄との和を成功させた。こうして信長息子たちをおさえて事実織田信長の後継者となる。

ちなみに秀吉百姓が血筋のため征夷大将軍になれなかった。そこで足利義昭に昇格を頼むが義昭はこれを拒否。その後関白であった近衛前久の養子を請うと前久はこれを承諾。1585年に関白に就任し羽から豊臣を名乗ることとなった。また太政大臣にも就任している。

その後は身分の差をさらにつけるために狩や太検地などの政策を行なう。さらには海外をも支配しようと朝鮮出兵を二度も行なったが1598年に病死。支配は終わりを告げたと当時に豊臣政権が短命に終わる原因の一つともなった。

秀吉には既に子供がいたが秀吉が56歳の時に生まれ父親となった秀吉が62歳で死去したため息子の秀頼の幼さでは政治を任すことは出来ない。そこで今後の政治をどうするか秀吉の定めた五大老と五奉行とで合議制が行なわれた。

五大老徳川家康関東250万石)・前田利家加賀80万石)・宇喜多秀家(吉備55万石)毛利輝元(安芸120万石)・上杉景勝会津120万石)}

五奉行{石田三成近江19万石)・浅野長政甲府20万石)・前田玄以(丹波5万石)長束正家近江5万石)・増田長盛大和山20万石)}

この中では五大老徳川家康が一番石高が多く勢が強く、彼は秀吉の遺言を破り次々と思うがままに活動し始め実権を握ろうとしていた。これを危機に感じた石田三成家康を討とうと決め、1600年に下分けの大合戦、関が原の戦いが起こる。

当初は家康息子徳川秀忠(後の徳2代目将軍)率いる軍が信州上田真田昌幸に翻弄され8日間足止め、大谷吉継揮などで東軍は劣勢していたものの西軍の小早川秀秋が東軍に寝返り新たに1万5千の攻め込みに遭い、わずか半日で決着がつき東軍の勝利となる。

大谷吉継はこの寝返り読み小早川が攻め込んで来ると他の軍とも合し撃退しようとしたが小早川勢の裏切りに備えていた別の場所にいた四軍突然大谷勢に攻め込んできた。こうして大谷勢は総崩れして将を務めた吉継は責任感を背負い自害。この自害が西軍に大きな動揺をもたらし敗北の原因の一つとされている。

また西軍の総大将を務めた毛利輝元は最初山に取ったものの麓に東軍の吉川広家取り毛利の出撃を阻した。そこで元は広にそこを退くよう命を出したが広などによる視界の悪さにより止めさせた。(その後広く終われと願ったという。)結局毛利の出番しに東軍の勝利という形で戦は終了。これもまた西軍が敗北した原因の一つとして見られている。

そんな事で勝利をおさめた家康は後に征夷大将軍となり1603年に江戸幕府を開く。ちなみにこの江戸幕府は1867年15代将軍慶喜による大政奉還が行なわれるまでおよそ260年あまりは続く事になる。

こうして信長から秀吉へ、そして最後は家康の手により戦国の世に終止符を打つと同時に江戸時代が開始する。

関連動画

関連項目

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

急上昇ワード改

最終更新:2024/04/18(木) 14:00

ほめられた記事

最終更新:2024/04/18(木) 14:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP