宗谷とは、ブラウザゲーム『艦隊これくしょん〜艦これ〜』に登場する艦娘――ではなく、「もしも宗谷が『艦これ』に登場したら……」というファンの想像をもとに生まれたオリジナル艦娘(艦船擬人化キャラクター)である。
モデルは、大日本帝國海軍(日本海軍)の特務艦にして、戦後は復員船を経て海上保安庁の灯台補給船、南極観測船、巡視船として活躍し、激動の昭和史を駆け抜けた奇跡の船「宗谷」。
現在も東京・お台場の『船の科学館』にて博物館船として現存している数少ない旧海軍艦艇の1隻である。
2014年11月現在、宗谷をモデルとしたオリジナル艦娘は複数存在するが、以降本項では、フラット氏によってデザインされ、MMDモデラーのEndressStorm氏によってMMDモデル化がなされたものを取り扱う。
もともとはフラット氏がpixivにて投稿していたオリジナル艦娘。
2014年8月15日に告知され、翌9月12日からニコニコ静画上で開催された二次創作企画『ブラスターB杯』にエントリーするため、フラット氏本人の手によって9月12日にニコニコ静画上に転載・再投稿される。
その後、見事準優勝を果たし、EndressStorm氏によってMMDモデル化することが決定。およそ2ヶ月後の11月9日に完成を告知する動画と共にMMDモデルが公開された。
肩の辺りまで伸ばされた髪を左右にそれぞれ束ねている少女で、モデルとなった宗谷が駆逐艦よりも小型(全長82.3m)だったことを反映してか、その外見は小柄で非常に子供っぽい。
服装は灰色のセーラー服にマフラー、白タイツ、毛皮ブーツだが、これは宗谷がもともとはソ連の発注を受けて建造された耐氷貨物船だったことにちなむ。
艤装は特務艦時代の宗谷の船尾をそのまま背負っているイメージでデザインされており、モデル同様、3本の煙突と2本のクレーン、マストが備えられている。
その他にも、特務艦時代(太平洋戦争時)の任務が測量と輸送だったことにちなみ、海図、錘付きのロープ、肩掛けバッグなどを所持。
また、クレーンの1本には大量の石炭を積んだ袋がぶら下げられている。
性格などの詳細なキャラクター設定は現在のところ存在しないようだが、これまで投稿されてきたイラストを見る限り、語尾に「です」を付けて話しているので丁寧口調だと思われる。
また、フラット氏が自身のTwitter上にアップしたイラストには「にっこにっこにー」をしているものがあり、モデルとなった宗谷は誕生から70年以上が経過した文句なしのご老体だが性格は外見年齢相応なのかもしれない。
他にも、「特務艦時代の宗谷は巡航速度8ノット(全力航行でも12ノット)という超低速艦だったため、乗員が度々甲板上で釣りを楽しんでいた」という史実のエピソードから“釣りが得意”という設定がある。
投稿されたイラストでは、修復バケツから溢れ出るほどの大量の魚と一緒に空母ヲ級の帽子らしきものまで釣り上げていた。
史実の詳細な内容は、こちらの項目を参照。
1937年(昭和12年)12月7日、長崎県の造船所・川南工業にて起工。翌1938年(昭和13年)2月16日進水。
当時は軍艦ではなく、ソ連の発注によって建造された3隻の耐氷貨物船の2番船「ボロチャエベツ」であった。
しかし、様々な大人の事情から建造された3隻はソ連に引き渡されず、そのまま日本の貨物船として就航することになる。
進水からおよそ4ヶ月後の1938年6月10日に竣工。それに合わせて、名前は「地領丸」と改められ、船体色も黒から若草色に塗り替えられた。ちなみに、3姉妹の次女であるが、竣工したのは一番最後であった。
地領丸は就航開始から1年ほどの間、民間商船会社にチャーターされる形で中国大陸や千島列島を往復する貨物船として運用されていたが、1939年(昭和14年)11月に海軍への売却が決定。同年12月10日、横須賀軍港に回航され、20日に東京石川島造船所深川第一工場のドックに入渠。そこで特務艦(測量艦兼輸送艦)としての各種改装を施され、1940年(昭和15年)2月20日、海軍艦政本部により現在の「宗谷」の名を与えられた。改装工事は同年6月4日に完了。横須賀鎮守府所属となる。船体色は灰色となった。
10月11日、横浜で行われた『紀元二千六百年特別観艦式』に拝観艦の1隻として参加。これが軍艦「宗谷」の公の場における最初で最後の晴れ舞台となる。海上保安庁は軍事組織じゃないし……
1941年(昭和16年)12月8日、大東亜戦争(太平洋戦争)が開戦すると、宗谷は井上成美中将(当時)の指揮する第四艦隊支援のため、補給物資を満載し29日に横須賀からトラック諸島に向けて出港。翌1942年(昭和17年)1月9日に第四艦隊の根拠地であるトラック諸島・夏島(トノアス島)に到着。同月17日に第四艦隊に編入され、南洋における測量、輸送の任に就く。
『MI作戦』(『ミッドウェー海戦』)では第二水雷戦隊旗下の輸送船団の1隻として参加。最終的に単独でミッドウェー島からおよそ500海里という至近距離まで接近したが、「機動艦隊壊滅」の報を受けて撤退した。
8月に発生した『第一次ソロモン海戦』にもツラギ島奪還のための陸戦隊を輸送する輸送艦の1隻として参加しているが、別の輸送艦が敵潜水艦の攻撃によって沈没したことを受けて撤退している。
1943年(昭和18年)1月28日、ソロモン諸島・ブカ島のクイーンカロライン港沖で測量任務中に敵潜水艦から雷撃を受ける。放たれた魚雷4発のうち1発が宗谷の右舷後方に直撃したが、不発だったため難を逃れた。宗谷はすぐさま味方の駆潜艇と爆雷で反撃し、潜水艦を撃退することに成功した。なお、この時宗谷に直撃した魚雷は戦闘終了後、甲板上に引き上げられ、乗員の手によって記念写真を撮られている。
この時期から宗谷は敵の航空機や潜水艦と遭遇し、攻撃を受けることが多くなったが、そのほとんどをかわし、被弾しても中破以上の損傷を受けたことは一度もなかった。そのため、乗員たちの間からいつしか「幸運艦」と呼ばれるようになった。
1944年(昭和19年)2月17日から翌18日に起きた『トラック島空襲』(『海軍丁事件』)では、味方の艦船が次々と撃沈、被弾していくなか、最高速たった12ノットという超鈍足でありながらも敵の攻撃をことごとくかわし、逆に敵航空機を1機撃墜するという戦果を挙げている。しかし、相次ぐ機銃掃射により副長を含む乗員9名が戦死し、艦長を始め多数の負傷者を出した。
ちなみに、18日の戦闘で回避行動中に座礁して身動きが取れなくなり、武装の残弾も底をついたため、総員退艦命令が出されて放棄されたが、翌19日の朝、満潮によって自然に離礁して浮かんでいるところを乗員に発見されるという「奇跡」としか言い様がない幸運ぶりを発揮。これによって宗谷の乗員はトラック島を脱出し、日本へ帰ることができた。
その後、輸送艦として「特攻輸送」とも呼ばれる危険な輸送任務に数多く従事。“敵潜水艦から雷撃を受けても、魚雷が船体の下をすり抜けたため直撃しなかった(しかも、この直後に味方艦と共に果敢に反撃し、撃退)”、“敵航空機から機関室内にガソリンタンクを落とされたが、ちょうど入渠中でボイラーに火が入っていなかったため爆発を免れる”、“敵機動部隊と遭遇し、あと少しで攻撃されるというところで宗谷を包みこむように濃霧が発生したため難を逃れた”、などの相変わらずの幸運ぶりを発揮し、その結果、一度も航行に支障をきたすほどの大きな損傷を出すことなく終戦を迎えた。
終戦後は復員船となり、およそ19000人の邦人を日本へと送り届けた。
復員船としての役目を終えた宗谷は、敵潜水艦2隻撃退(共同戦果)・敵航空機1機撃墜というとんでもない戦果持ちだが戦闘艦艇ではなかったため賠償艦には指定されず、そのまま日本に留まることになった。しかし、特務艦として海軍式のボイラーに換装している関係上、日本に残された他の海軍艦艇たちと同様、解体されるのは目に見えていた。
……のだが、幸運艦「宗谷」の物語はここで終わらなかった。むしろ、ここからが本番であった。
宗谷は、その史実から『艦これ』に実装されている艦娘たちのモデルとなった艦船の多くと、直接的・間接的問わず関わりを持っている。
ここでは、そんな史実において宗谷と縁のある艦娘たちを挙げていく。
※2014年12月現在『艦これ』に実装されている艦船のみ掲載しています
御召艦:比叡
先導艦:高雄
第二列:長門、陸奥、伊勢、山城、涼風、村雨、春雨、夕立、五月雨、漣、綾波、初雪、白雪、吹雪
第三列:金剛、榛名、熊野、鈴谷、最上、利根、筑摩、陽炎、大潮、朝潮、荒潮、満潮、霰、不知火、黒潮、雪風、初風
上述した『紀元二千六百年特別観艦式』参加艦の1隻であると同時に、宗谷の生涯にも僅かながらに関わっている。
1945年(昭和20年)7月27日、輸送任務を終えて横須賀軍港に帰港した宗谷の近くで特殊警備艦(浮き砲台)として係留されていたいたのが「長門」だった。
この時点における長門は、7月18日に発生した空襲で艦橋部が直撃弾を受けて吹き飛ばされており、おまけに資材の不足からその時に生じた損傷が修復されることなく放置され、まさに満身創痍という状態であった。
8月2日に発生した空襲でも直撃弾を受け、砲塔を吹き飛ばされ中破。空襲後、宗谷の乗員が長門を訪れると、損傷部のみならず甲板上や機銃の銃座には戦死者の遺体がそのまま放置されており、見るに耐えない状況であったという。
そんな長門の様子から、後年宗谷の乗員は「長門がその身を挺して宗谷を守ってくれたかのようだった」と当時のことを回想している。長門さんこの頃からちっちゃい娘が大好きだったんですね。
なお、宗谷もこの空襲で敵機に増槽(ガソリンタンク)を機関室に落とされて艦内に気化ガソリンが充満したが、ドックに入渠中でボイラーに火が入っていなかったため大惨事には至らなかった。ちょっと大鳳さん、なんですかその顔は?
(また、宗谷の乗員には負傷者こそ出たが、戦死者は出なかった。その他に出た被害を挙げるとすれば、充満した気化ガソリンの影響で機関部やその周辺にいた乗員が酔っ払ったぐらいである)
終戦後の8月30日、宗谷と長門は横須賀軍港にて他の残存艦艇たちと共に米軍に接収され、宗谷は10月1日に大蔵省に返還され復員船に、一方の長門は賠償艦として正式に米軍に引き渡された後、1946年(昭和21年)クロスロード作戦の標的艦の1隻となりその生涯に幕を閉じることになる。
戦前から戦中の間、姉妹艦の陸奥と共に「日本の誇り」として国民に親しまれてきた長門。戦後、宗谷も数多くの偉業を成し遂げたことで国民から親しまれるようになるが、もしかしたら長門から後事を託されたのかもしれない……
片や海軍の秘密兵器として建造され文字通り“秘密”のまま終わった傑作戦艦である「大和」、片や酷使されることに定評のある雑務担当の商船改造特務艦である「宗谷」……そんな立場である以上あたりまえだが、戦時中両艦には一切関わりがなかった。
しかし、戦後意外な形で宗谷は大和と関わりを持つことになる。
終戦から10年以上が経過した1956年(昭和31年)、南極観測船に抜擢された宗谷は、過酷な南極への航海にも耐えられるように大改造が施されることになった。
そして、そんな宗谷の南極観測船への改造設計を依頼されたのが、元海軍技術将校にして呉海軍工廠造船部設計主任の経験もある造船技師の牧野茂であった。
この牧野こそ、呉海軍工廠造船部設計主任時代に大和の設計に関わった人物の1人だった。
当時の牧野は「大和型戦艦喪失の一因は自分の設計に問題があったからではないか?」と後悔の念を抱いていたと云われており、宗谷の改造設計を依頼されると「今度こそお国のために沈まない船を設計してみせる」と奮起したという。
かくして、宗谷の南極観測船改造のための設計図の作成を開始した牧野は、僅か2ヶ月で完璧な図面を完成させ、宗谷はその設計図を元に施された大改造によって南極観測船に生まれ変わるのである。
そして、生まれ変わった宗谷はそれから20年以上もの間、南極観測船、巡視船として日本のために活躍し続け、今もなお博物館船として東京・お台場で船として浮かび続けている。「沈まぬ船を作り出す」という牧野の思いは戦後見事果たされ、同時にそんな牧野の思いが込められて生み出されながらも悲劇的な最期を遂げた大和の意志は宗谷に受け継がれたのであった。
余談だが、1960年(昭和35年)に第4次観測を終えた宗谷は帰還中、当時はまだアメリカの占領下にあった沖縄から招待を受けて寄港している。那覇の港に姿を現した宗谷を沖縄の人々は日の丸の旗を振り盛大に歓迎したという。
かつて大和たちが成し得なかった沖縄への入港を、形式や目的は違うとはいえおよそ15年後に大和の意志を受け継いだ宗谷が成し得たというのは、どこか運命めいたものを感じずにはいられない。
宗谷とは艦名が北海道の地名かつアイヌ語に由来するという共通点がある他、戦中は同じ第四艦隊および第八艦隊に所属していた。
また、一部の資料には“『第一次ソロモン海戦』後、内地に帰還していた宗谷が再度ラバウルに赴くことになった際、夕張が同行した”という記述があるが、光人社から刊行されている『日本海軍艦艇写真集 軽巡 天竜型・球磨型・夕張』に掲載されている夕張の行動年表には、宗谷がラバウルに向けて横須賀を出港した1942年(昭和17年)9月14日の時点で夕張は既に南洋で船団護衛の任に就いている。
ただし、上記書籍は1997年(平成9年)に刊行されたものであるため、その後の研究で新たに判明した経歴などがある可能性は否定できない。
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最終更新:2025/12/15(月) 09:00
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