ナムラコクオーとは、1991年生まれの日本の競走馬である。
名前の由来は「北斗の拳」のラオウの乗騎、黒王号。
その名の通り黒鹿毛の美しい馬であり、傷だらけで長い現役生活を戦い抜いた戦士である。
主な勝鞍
1993年:ラジオたんぱ杯3歳ステークス(GIII)
1994年:シンザン記念(GIII)、NHK杯(GII)
1996年:プロキオンステークス(GIII)
概要
血統
父キンググローリアス、母は未出走馬ケイジョイナー、母父サドンソー(ノーザンテーストの全弟)。
近親に目立った活躍馬はいない。
ナムラコクオーの説明のために、父キンググローリアスについても簡単に紹介しておきたい。
1986年生まれのアメリカの競走馬。GI2勝含む9戦8勝と書くと立派な成績だが、脚元の弱さに苦しみ続け、三冠をはじめとする価値の高いGIレースには出られず、同期の2強サンデーサイレンスとイージーゴアとは対戦経験すら無く3歳で屈腱炎で引退している。
引退後日本で種牡馬入り。ナムラコクオーはその初年度産駒である。
2010年まで種牡馬として活動し、芝ダート問わず短~中距離で重賞馬を出すがGIを勝つような大物は現れなかった。
産駒で賞金を最も獲得したのはこのナムラコクオー。知名度ではスペシャルウィークのダービー2着に入ったボールドエンペラーと二分することになるだろうか。
中央競馬時代~ガラスの天才
ダート短距離でデビュー。5戦2勝とややもたついたが連を外すこと無くオープン馬となる。
ここで才能を見出されたか芝に挑戦、いきなり重賞のラジオたんぱ杯3歳ステークスである。
ナムラコクオーはこのレースを4馬身差の圧勝。重賞ホースとなる。
さらに年明けてシンザン記念を途中からノーステッキで7馬身差の大圧勝。
普通ならこの時点で怪物登場、クラシック大本命と騒がれるだろうが…
この世代には既に名が知れ渡った化け物がいた。ナリタブライアンである。
次走は世代2番手としてブライアンのいない弥生賞に1番人気で出走するが、3着に敗れてしまう。
さらにこの後脚の故障が発覚。幸い軽症ではあったものの、大一番皐月賞は見送ることになった。
そう、ナムラコクオーは父の才能とともに脚の弱さを完全に受け継いでしまった馬であった。
これはずっとナムラコクオーを苦しめ続けることになる…何度も、何年も。
当時は2000mでダービーの前哨戦であったNHK杯に出走、この後菊花賞2着となるヤシマソブリンらを従え2馬身半差をつけて完勝し、重賞3勝目を記録する。
そして迎えた日本ダービー。1番人気は当然ナリタブライアンで、離されて単勝8.6倍ではあるもののナムラコクオーは2番人気だった。
これはナムラコクオーのここまでのパフォーマンスが評価されたこともあるだろうが、何より他の有力馬は既にナリタブライアンにボコボコにされていた。
倒せる可能性があるとするならば、まだ対戦経験が無いナムラコクオーに縋るしかなかったのである。
そんな願いむなしくナムラコクオーは伸びを欠き6着に敗れる。なんとレース中に骨折していた。
この骨折自体は秋には復帰できる見込みであったのだが、療養中に屈腱炎を発症してしまう。
屈腱炎。父の競走生命を奪った、競走馬にとっての不治の病である。
既に重賞3勝。目の覚めるようなパフォーマンスも見せている。
もしナムラコクオーが血統的に魅力ある馬であったなら、ここで引退して未完の大器として種牡馬になれたかもしれない。
しかし現実は父は価値が全くわからない初年度産駒、母系にもなんら引きはなかった。
こうなれば復帰を目指す他ない。なんと復帰までには2年近くの時間を費やすこととなる。
そして96年、ダートのオープン戦からナムラコクオーは復帰したが…元のような走りは見せられなかった。
なんとかプロキオンステークスは勝利したものの、他は芝もダートも惨敗。もはや第一線で戦う能力は無いのは明らかだった。しかし引退しても行き場所などない。97年、ナムラコクオーは高知競馬に戦いの場を移すこととなる。
高知競馬時代~流転、そして
ナムラコクオーを迎え入れた高知競馬の関係者たちは驚いたという。
1つは高知競馬の競走馬とは明らかに格が違う完成された馬体に。
そしてもう1つは、その脚がひと目見てわかるほどボロボロなことにだった。
もっともこれは珍しいことではなかった。
種牡馬はもちろん、誘導馬や乗馬になれる馬も引退馬の中では本当に一握り。
中央競馬で、あるいは南関などハイレベルな地方競馬で故障あるいは衰えで戦えなくなった馬たちが1日でも命を繋ぐために流入して走る、馬の流刑地。それが高知競馬場だったのだ。
ナムラコクオーはデビュー戦2着とするとまたも屈腱炎が悪化して約半年の休養。そして1戦してまた1年休養…この後ボロボロの脚で何度も休養と復帰を繰り返して走り続けた。
なんと6歳(現表記)から12歳までナムラコクオーは高知で走った。
地方33戦21勝という記録を残したが、これは休養による降格(地方は中央と違い累計のクラス分けではない)からの連勝を含むもので、高知重賞は2勝に留まった。
高知競馬唯一の交流重賞、黒船賞にも2003年に出走している。しかしナムラコクオーが中央にいた時とは違いダート路線は整備され、砂のスペシャリストが続々と登場している時代となっていた。
既にGIを制しているノボジャックとノボトゥルーのノボ軍団が襲来。ナムラコクオーは高知所属馬では最も上の4番人気であったが、12歳の屈腱炎の馬ではなすすべなく9着に敗れている。
まとめれば平凡な都落ち馬の戦績かもしれない。しかし、ナムラコクオーの死闘には意味があった。
当時高知競馬は存続の危機に貧していた。馬質も賞金も下がる一方だった。
そんな中やってきたのがナムラコクオーだった。前述した通り、時には中央オープン馬すら高知競馬場に移転してくることがあったが、ナムラコクオーほど一線級で戦った知名度ある馬はいなかった。
ナムラコクオーは当時の高知で数少ない「客が呼べる馬」だったのだ。そしてその見事な馬体で訪れた客を虜にした。ナムラコクオーが高知で出走したレースではほとんど1番人気だった。
折しも、ナムラコクオーが引退した2003年にハルウララブームが訪れ、高知競馬場は救われた。しかしそこまでもたせたのには、ナムラコクオーの働きも大いにあったと筆者は思う。
そして、ナムラコクオー自身にも意味があった。引退後ナムラコクオーは高知競馬の功労馬として土佐黒潮牧場で静養された。
牧場にはファンが訪れ続け、ナムラコクオーは28歳で天寿を全うし、この世を去った。「我が生涯に一片の悔い無し」であったかどうかは、誰にもわからない。
血統表
*キンググローリアス 1986 黒鹿毛 |
Naevus 1980 栗毛 |
Mr. Prispector | Raise a Native |
Gold Digger | |||
Mudville | *ボールドラッド | ||
Batter Up | |||
Glorious Natalie 1980 黒鹿毛 |
Reflected Glory | Jester | |
Lysistrata | |||
Blue Eyed Blonde | The Pie King | ||
Blue-Eyed Barbie | |||
ケイジョイナー 1986 鹿毛 FNo.7-c |
*サドンソー 1975 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Lady Victoria | Victoria Park | ||
Lady Angela | |||
ヒゼンガール 1979 鹿毛 |
*ツイツグ | Hul a Hul | |
Top Twig | |||
ホースメンケイ | *ムーティエ | ||
ケイザクラ | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Lady Angela 4×5(9.38%)、Native Dancer 5×5×5(9.38%)、Tom Fool 5×5(6.25%)
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
- 2
- 0pt