ババル島事件とは、太平洋戦争中の1944年にインドネシアのババル島で起きた、日本軍と現地住民の衝突事件である。
タバコの購入に絡む口論が発端となり、最終的に女性や子供も含む村民数百名が日本軍に虐殺されるという事態にまで発展した。
「ババル島残虐事件」「ババル島民虐殺事件」「ババル島住民虐殺」等とも呼称される。
概要
日本で発見された日本軍のものとされる資料、この資料の作成に関わったとされる元日本軍人だった人物への新聞社の取材、学者(上智大学の村井吉敬)やジャーナリストによる現地の住民への取材などにおいてこの事件が確認されている。そのため、この事件が発生していたこと自体は概ね疑いが無い。
だが「発生した細かい日時」「諍いの発端の細部」「死亡した人数が400人程度なのか、700人程度なのか」などについて、日本の資料や住民同士の記憶の中に食い違いがある。
しかし、いずれの情報ソースでも概ね共通している事項もあり、それを書きだすと概ね以下のとおり。
- 1944年に、ババル島に駐留していた日本軍で働く軍属の者がタバコの買い付けにエンプラワス村を訪れた。
- だが買い付けの交渉は決裂。軍属が暴力的手段に訴えようとした(「殴った」という証言と「刃物を抜いた」という異なる証言あり)。村長は逆にこの軍属、および同行した密偵(現地人協力者)3名を殺した。
- 軍属を殺害したことにより日本軍と敵対することになると考えたエンプラワス村の者たちのうち数十人が日本軍の陣地を襲撃したが、見張りの日本兵1名が死亡したものの反撃で追い返された。
- 日本軍はエンプラワス村の討伐を行い、数十人~百人を殺害したり捕えたりした。
- エンプラワス村の他の住民は森の中に逃げていたが、捕えた住民をメッセンジャーとして帰順を促した。
- その促しに応じて帰順した数百名のエンプラワス村の住民が、女子供も含めて多数殺害された。
発生日時について、日本軍の資料では、事件全体の日付は11月3日~21日(村民の大量虐殺は20日)と記されているが、現地の住民らは虐殺が起きたのは10月5日だったと伝えている。この食い違いがなぜ生じたのかは不明。
いずれにせよ1944年に発生した事件だが、戦後数十年経過するまで現地の島以外ではほとんど知られていなかった。
だが1986年に、福岡県在住の歴史家で私設戦争資料館「兵士・庶民の戦争資料館」を主宰していた「武富登巳男」氏が「『ババル島』事件関係書類綴」という日本軍の資料を入手。その内容について、中央公論社の雑誌『歴史と人物』の昭和61年冬号にて「発掘されたババル島残虐事件」という記事として紹介し、日本でもわずかに知られるようになった。ただし現在でも知名度の高い事件とは言いがたい。
この資料「『ババル島』事件関係書類綴」は、1987年に『十五年戦争極秘資料集2 ババル島事件関係書類』として不二出版から復刻書籍としても出版されている。
この「『ババル島』事件関係書類綴」には事件についての報告書が数バージョン収録されている。なぜ複数のバージョンがあるのかと言うと、報告書案について上官からの添削が入り、日本軍の責任が軽く見積もられるようにと推敲を重ねたためであるらしい。
報告書の最初の版では、「帰順セル土民約四百名ハ現地ニ於イテ銃殺」という事になっているが、そこに「帰順セル者ニ対スル処置ハ誰ノ命令カ」「婦女子マデ連座罰ヲ課セシ理由」などの上司からの書き込みがなされているという。
次の版では「帰順した者たちは訓戒の上で釈放しようというつもりであったが、山中から叛徒による銃撃があり、住民らは狼狽えて銃口の前を右往左往したので、日本軍の銃撃と叛徒の矢の双方により死亡した」という不自然な筋書きに書き換えられているという。
そして最終的には、「婦女子に至るまで死を賭した徹底抗戦の構えをとったため、やむをえず射撃したところ、統制を失った住民らは自分たちの武器で大半が死傷した」といった記載になっているという。
1986年当時はまだこの「『ババル島』事件関係書類綴」に関わった人物が存命中であり、朝日新聞の取材に答えた記録もある。その記事によれば「報告書を改ざんすることで、戦犯として訴追されることを免れた」とのことで、最初の版の内容が報告者の生の認識に近かったと考えられる。
なお、上智大学の村井吉敬によって1992年に行われた現地住民へのインタビューにおいては、「虐殺の後に、付近に住むエンプラワス村の者と血縁がある者も追討されたが、日本軍の中にはその追討から住民を逃がした個人もいた」という証言も挙がっていた。
2日後に,母の父,母,弟・妹たちは殺されるはずだった。しかし森の中のカンポン・マドゥラ(Kampung Madura)に,日本の軍人のナガノという人がその情報を知らせてくれた。かれは乾燥肉(dengdeng)をババル島の日本軍駐屯地に配給するという仕事を持っていた。村長(ソンチョー)に対してナガノはよくしてくれていた。虐殺の情報があったあと,エンプラワスに一族のいる者はつかまり,殺される予定だった。ナガノは私の家族に対し,森から出てワクパピピに通じる道から逃げるように命令した。
関連リンク
- 村井吉敬「日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き」, 『上智アジア学』10号, 110-128ページ, 1992年12月
- ババル島事件 南の島の民間人殺害
- マルク州タニンバル紀行(9) Ke Tanimbar, MTB, Maluk (9): インドネシア文化宮(GBI-Tokyo)
- ババル島住民虐殺事件極秘資料新聞記事 - 真実を知りたい-NO2 林 俊嶺
- 【世界のマイナー戦争犯罪】ババル島事件【日本軍】 - Man On a Mission
関連項目
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