単語記事: 太平洋戦争

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太平洋戦争とは、第二次世界大戦1939~1945)のうち大日本帝国アメリカ合衆国英国中華民国オランダなどの連合軍と交戦局面をした呼称である。

概要

 英語ではPacific War現在ではアジア・太平洋戦争と呼ばれることもある。

 第二次世界大戦太平洋東南アジアの戦線であり、中華民国支那事変日中戦争)、1945年8-9月ソ連日本との戦争も含まれる。

 太平洋戦争は1941年12月7日日本では8日)に始まったと考えられている。
 1937年7月7日支那事変1931年9月19日満州事変に始まるという意見もあるが、一般的に太平洋戦争自体が第二次世界大戦の一部となったのは1941年12月とされる。
 広島長崎原爆日本への大規模な襲、満州へのソ連侵攻の結果、1945年8月15日ポツダム宣言の受諾、玉音放送が行われ、9月2日に正式に終戦した。

- 参 戦  -

連合
 アメリカ  イギリス
 中華民国  オーストラリア
 オランダ  ソビエト連邦
その他多数

VS

枢軸国
 大日本帝国  タイ王国
 ヴィシーフランス  インド民軍
ビルマ 民政府
その他

戦争の名称

 戦時中の連合では、第二次世界大戦太平洋戦線という名称であり、ヨーロッパ戦線と区別をされていなかった。時の日本政府は大東亜戦争と命名したが、日本側の敗北により進駐して来た連合軍(GHQ)によって、公式文書でこの名称は使用禁止にされ、代わりに太平洋戦争の言葉が代わりに用いられた。”大東亜戦争”はタブー扱いとされメディア教育での使用は控えられている。

歴史的背景

アヘン戦争によって清国イギリスによって打倒されと、その敗戦が江戸幕府にもたらされた。かつて強であったはずの清の敗北は、さらにその先の日本へ進出することは時間の問題であった。西洋列強による支配が現実的なものとなり、速やかな国体の変革が急務であることを日本人に知らせる形になった。1867年に大政奉還、王政復古により明治維新が起こった。しかし、江戸幕府時代の不等条約を今だ正出来ていなかった。

日清日露戦争の勝利によって日本は大として歩み始めた。不等条約の正や初めての植民地である台湾、ポーツマス条約に基づいてロシアから日本に租借権が移行した関東州、日韓併合として新たに朝鮮半島などを領土とした。

 1919年に関東が設置された。また日露戦争後にロシア帝国から獲得した租借地の関東州と南満州鉄道の付属地の守備をしていた関東都督府陸軍部を前身として新たに軍から独立した関東が誕生した。関東軍は陸軍中枢からさえ逸脱し、軍規違反は処罰されなかったとされるが実際は満州事変時のみで事実ではない。
1928年の北伐による余波が満州に及ぶことを恐れた関東軍高級参謀・河本大作陸軍歩兵大佐らが作霖爆殺事件を起こすが、作霖爆殺事件により田中内閣が崩壊、次の濱口雄幸首相世界恐慌の影もあり経済政策に失敗、軍縮政策を進めるが右翼青年撃され31死亡、さらに1931年の満州事変がおき関東軍により満州国が成立したが、満州国中華民国との話し合いで解決しようとした犬養首相1932年5月15日軍将校らにより殺された。1936年2月26日には陸軍将校によるクーデター未遂事件が起き、軍事予算の縮小を図った高橋是清などが射殺された。

 1937年7月盧溝橋事件~北京入場7日事件が発生、北京での日本軍7000と少なく、現地での調停が成立しつつあったが、中国人反日感情が高っており、事件後も反日テロ通州虐殺事件廊坊事件広安門事件など)を起こしていた。陸軍内部で強硬により蒋介石は1か以内に屈するとの対支一撃論が優勢となり、7月11日近衛麿首相は増を決定、同末に北京天津はたちまち日本軍に占領された。しかし西安事件が起こり蒋介石は意外にも敵であった共産党と手を組むことを選択した。国民党中国共産党は内戦を中断して、ソ連は直ちに大量の物資を中国軍提供した。

同年8月には二次上海事変が起こり、国民党軍が攻撃したが日本軍が反撃し、上海を占領した。この時日本海軍機が米国警備船パナイ号を攻撃して撃沈し51人の死傷者が出る事件が起きたが、2週間で事件は解決しアメリカの対日戦争引き金にならなかったが米国世論は悪化した。

 1937年12月13日日本軍首都を占領し、民は大勝に狂喜乱舞した。その後6週間にわたり、日本軍による中国捕虜の処断、反日支人便衣兵民間人の処断、婦女暴行が相次いだ(南京大虐殺)。暴支膺懲の戦意高揚のため、戦闘による中国人処分、捕虜の処断については軍部により推奨され、本にも多数報道され大いに喧伝された(人切り競争が新聞に掲載され、前線兵士の武勇談として大いに賞賛された)。しかしアメリカイギリスの対日感情はますます悪化し、1938年10月末よりはこういった写真報道も軍により検閲され開されなくなった。日本軍の快進撃は続き、10月27日三鎮を占領したが、蒋介石は重慶に首都を移して徹底抗戦した。アメリカ日本軍中国よりの撤兵をめ、1939年7月26日、日間の通商航自由と内恵待遇を保していた「日通商航条約」の破棄を宣告してきた。

ノモンハン事件

1917年のロシア革命共産主義の波及を恐れた列強はロシア内戦への干渉を決定、1918年にチェコ軍救出を名シベリア出兵を実施した。1922年の撤収後、1925年に日ソ基本条約が締結される。1920年代には日本ソ連大陸方面では直接に勢圏が接触する状態にはなかった。日本は租借地の関東州、ソ連は1924年に成立したモンゴル人民共和を勢圏に置いた。

の勢圏の中間にある満州地域は、1920年代後半には中国の奉が支配する領域だった。満州には日ソ双方の鉄道利権が存在しており、中国国民党の北伐に降伏した奉学良はソ連からの利権回収を試みたが、1929年の中ソ紛争で中華民国は敗れた。ソ連はハバロフスク議定書を中国と結び、鉄道権益を復活、再確認させ、占領地から撤退した。また、ソ連は同年に特別極東軍を極東方面に設置した。

ソ連モンゴル1934年11月紳士協定で事実上の軍事同盟を結ぶ。1936年にはソ相互援助議定書を交わし、ソ連軍がモンゴル領に常駐した。モンゴル人民革命軍はソ連の援助で整備され、1933年には騎兵師団4個と独立機甲連隊1個、1939年初頭には騎兵師団8個と装甲車団1個を有していた。

満州事変以後、日本ソ連満州で対峙するようになり、初期には衝突の回数も少なく規模も小さかったが、次第に大規模化し、鼓峰事件で頂点に達した。

 1936年11月に「日独防共協定」が結ばれて以来、モンゴルにおける赤軍関東軍の緊は増し、1937年以降は地帯での小競り合いが頻発し、38年にはウラジオトック南西のハサン付近で鼓峰事件が起きるなど(動員兵ソ連軍3万人に対して日本軍9千人。死傷者は日本軍1500人、ソ連3500人)、大規模衝突に発展することもあった。38年8月陸軍軍務局など陸軍中央が不拡大方針を採ったのに対し、関東軍の不満は募り、彼らはソ連が内戦により弱体化しているとの誤った情報のもと行動し、本に将来いかなる紛争が起ころうとも、臨機応変に対応できる白紙委任状を要した。

日ソ両軍激突 1939年5月12日モンハン事件ハルハ河の戦闘)は満州国軍とモンゴル軍のパトロール部隊の交戦で始まった。モンゴル軍がハルを渡り、いくつかの丘を占拠し、さらにモンゴルするの町のノモンハンに至った。日本軍ソ連を極東満州から排除しようとし、モンゴル軍をハルまで押し返し、戦いは段階的に拡大した。(第一次ノモンハン事件)

ゲオルギー・ジューコフ6月5日に同地に着任し、直ちに戦の増強が図られた。関東軍は、現地がシベリア鉄道拠点より650㎞も離れていることから、敵軍を過小評価した。しかし6月17日から連日、増強されたソ連航空機が自を越えてカンジュルを攻撃し、爆撃は後方のアルシャンにも及んだ。ソ連軍の小規模部隊も満州国領内に侵入し偵察攻撃を繰り返していた。20日からは満州国内のデブデン・スメ地区に戦車装甲車十数輌とソ連狙撃兵モンゴル騎兵の約200名が来襲、ソ連軍は日本軍の宿営地と集落を発見し、戦車で攻撃してきた。兵舎が撃により炎上し、集落内はパニックとなったが、この野営地の日本軍は速射機関などの対戦車火器を配備しており、戦車1輌と装甲車3輌を撃破、ソ連軍は45名の死傷者を出し撃退された。この戦闘が第二次モンハン事件の最初の戦闘となった。

東京の参謀本部は報復攻撃を禁止する命令を発したが、関東軍は6月27日モンゴル領内のソ連軍基地を爆した。7月1日および23日本軍ハルを渡りソ連軍に攻勢を仕掛け、一時的に得意の夜襲ソ連軍に大損を与えるも、かの地が重要と考えていたスターリンジューコフに大部隊を任せており、過酷な補給状況の中で、兵員5万8千、戦車500両までに膨れ上がっていたソ連軍は、特に火戦車で戦が劣る日本軍を当初の満まで押し返した。

モンハン戦闘が続くなか、1939年8月23日スターリンドイツと独ソ不可侵条約を締結した。日独防共協定の締結後、日独の軍事同盟を積極的に推進してきた陸軍はこの報に大きな衝撃を受けており、垣陸軍大臣はその時の陸軍の様子を「驚狽し憤慨し恨するなど、とりどりの形相」と記述している。25日には平沼騏一郎内閣が日独同盟の締結交渉中止を閣議決定、28日に平沼が「欧州地は複雑怪奇なる新情勢を生じ」と明し、総辞職した。

急速な際情勢に慌て、戦況は着化した。その後の外交交渉で満境線ソ連側のを飲まざるを得ず、日本軍は戦略的に破れ、その犠牲は戦死者8,440名負傷者8,640名にもおよぶ甚大な損を被ったが、一方ソ連軍も戦死者9,703名負傷者15,952名と日本軍を上回る死傷者を出している。また戦車に至っては日本軍戦車を温存し、速射火炎瓶により戦った事もあり、一方的ソ連軍の戦車装甲車が撃破されている(400両~800両)また航空戦でも性が勝る日本軍が数で勝るソ連軍相手に善戦している。

しかし、この戦訓を活かし、戦車の重装甲化や戦車戦術の一層の進化を進めたソ連軍に対し、日本軍はこの戦訓を十分に活かす事ができず(陸軍航空戦闘機の防弾の設置や新速射の開発等一部では戦訓を活かしたが)陸軍の近代化が他較して遅れを取る事となったとされているが、実際は日ソ両軍ともに戦訓を活かすことは出来なかった。

工業準や陸従予算問題もあり、日本軍ソ連並みの火力に持っていくのは最初から困難であるという認識が、ノモンハン事件研究委員会調開始前の1939年10月4日の陸軍内の秘密会議の席で既に話し合われていた。「ノモンハン事件の後始末については、12月中旬頃には、将来の策の決着をつけたいと思っている。装備については形をソ連に似せるが、そのはその8割と思わねばならぬ、戦は10対8なり。残りの2割は精で補う外なきも、これはなかなか困難である。」と結論付けているように、火力が短期間に向上するあてはないので、当面は日本兵の敢闘精に頼った、間の急襲戦法と兵戦により対抗するしかないとされた。

一方ソ連軍においても、ノモンハンでの苦い経験は活かされることなく、ソ連軍は1939年ソ連フィンランド戦争フィンランドで痛撃を浴びることとなった。さらに、ノモンハンで有効であった機甲部隊運用方式をし、既存の7個機甲軍団を分解し各歩兵師団に戦車大隊で配属し、一部を戦車団として独立的に運用する組織編を行ったが、これはノモンハンの戦訓に逆行することとなった。そのため、独ソ戦が始まると、初期でソ連軍は大敗北を喫することとなった

その後日本ソ連は日ソ中立条約を締結し、また日本は後述の南進を策としたため、ソ連との紛争は起こらなかった。しかし独ソ戦が開始されドイツ軍が有利な戦況が続くと、関東軍特別演習と称して、満州に大軍を送り、対ソ参戦の機会をがっていたが、印進駐により英との緊が高まると、対ソ参戦気運は大きく後退する事となった。

日本の南進

 1940年9月日本軍中国への補給路(援ルート)を断つため、ヴィシーフランス統治下のインドシナへ進駐した。さらに9月27日にはドイツイタリアとの間に日独同盟が成立したが、これらの事態によりイギリスアメリカとの関係がますます悪化した。10月16日アメリカの対日禁輸を決定した。

 1941年には中国戦線は着状態となっていた。日本中国北部や沿部を占領したが、民政府は重慶に首都を疎開させ、中国共産党は陝西に移動した。日本軍鉄道沿線と都市は支配したが、広大中国の農村部には支配が及ばなかった。また1940年3月汪兆銘の政府が立されたが、中国民の大多数の支持は得られなかった。しかし国民党中国共産党の協も、皖南事変により効果的なものではなくなっていた。日本軍上海、武、重慶などの大都市に戦略爆撃を行い、特に重慶では1938年2月より19438月まで行われた爆撃では、国民党政府の防政策の不備もありおびただしい民間人死者を出し、都市を荒させた。

 1935年より、日本オランダ領東インド進出をしていた。同地の石油は極めて重要であった。日本は1940年にドイツに本土を占領されている印に圧をかけ資提供めた(第二次会商)。石油をそれまでの輸入量65トン/年に対し、380トンを要し、他の必要物資の自由な開発、納入も要したが、1940年10月交渉では200万トンが認められたのみであった。さらにゴムマンガンの輸出量がドイツへの輸出を警されたため要量より大幅に少なくされた。

1941年5月会談の席上、松岡洋右外相は「印の如き弱小国日本に対してドイツに再輸出しないとの保を要するとは、大日本に対する屈辱なり」と発言し、1941年6月日本側へ交渉打ち切りを通告した。1941年6月24日南方作戦が閣議決定され、軍は対英戦を辞さずとした。7月23日日本軍のの元、南部印進駐を準備、通告し、7月26日アメリカは在日本資産凍結を発表、印の中立化を提示し、石油禁輸を警告したが、かまわず7月28日進駐したところ、アメリカにより8月1日石油の禁輸が決定された。イギリス7月26日に日英通商航条約の破棄を宣告し、イギリス連邦よりも経済制裁が発動された。結果、オーストラリアイギリスアメリカ、亡命オランダ政府いずれも、継戦に必要である、鉱石、石油などの販売を停止することになった。日本政府は、これらの禁輸を侵略行為とみなし、軍の宣伝の影を受けて日本メディアは禁輸措置をABCD包囲網と名付けた。大本営は、日露戦争以後の領地からの撤退か、禁輸措置による継戦困難かの選択を突き付けられた。

東条英機内閣成立 10月18日東条英機内閣が成立した。 日本軍要な的は、オランダ領東インドの石油、鉱石と、英領マラヤ確保による峡の輸送経路の確保であった。これは南方作戦として知られる。しかしイギリスアメリカの関係が密接であることから、アメリカが参戦してくるだろうとの誤解があり、アメリカへの先制攻撃が計画された。緒戦での珠湾への奇襲攻撃により太平洋艦隊および基地航空機の破壊を、同時にフィリピングアムウェーク島を占領し、南方作戦としてマレーシア香港を攻撃し、ビスマルク、ジャワ、そしてスマトを占領する計画が立案され、入念に準備がとられた。これらの的を達成した後で、平和交渉を行い、獲得した領土を保持し、守備する計画であった。

 日本上層部は、ドイツ軍欧州戦線での攻勢により、イギリス軍とソ連軍が太平洋では効果的に反撃することが不可能であると予測したが、アメリカに対して全面的な勝利は不可能であると考えていた。しかしアメリカに対して緒戦で勝利し、平和条約を結ぶことが可と考えていた。日清戦争日露戦争において、強大陸全征せずとも屈講和に成功した経験も、この判断を後押ししていた。

 1940年1月26日の日通商航条約の失効以後、日条約状態に突入していた。日通商関係の正常化などへの日交渉が行われてきたが、南部印進駐以後暗礁に乗り上げた。交渉は 再開されたが、11月27日議論のたたき台であるハル・ノートが手渡され、中国よりの撤兵などが条約交渉の条件として提示された。アチソン務次官補やモーゲンソー財務長官らは日本戦争しないと考えていたが、務長官コーデル・ハル戦争を覚悟した。日本12月1日国会でなく)御前会議で開戦を決定したが、交渉は打ち切らず、打ち切り通知は真珠湾攻撃30分後に手渡された。

交戦国の状況

1939年より第二次世界大戦が勃発しており、イギリスドイツと交戦していた。

  大日本帝國

 近代日本の誕生以後、1941年までに人口は143増加したが、耕地は16しか増えず、農業の進歩にもかかわらず、食品の20は輸入であった。資は石炭のみが十分に自給でき、鉱石、石油、ゴムボーキサイトをはじめとした資は輸入に頼らなくてはならなかった。政府は天皇の権限より発生する二院制の国会内閣を持ち、貴族院天皇により任命されたが衆議院選挙で選出された。内閣国会で任命されたが、軍は天皇より直接任命されたため、文民政府に依存しない自由な裁量が与えられ、政策においても大臣を出さないことにより政権を崩壊させることができた。

軍は天皇との特別な官益を強調し、1920年代初期に「軍」から「皇軍」へと変更された。陸軍と軍の統制を大本営(統合参謀本部)で行ったが、アメリカと違い文民統制の下に入らず、軍の管理下にあった。陸軍と軍は国家予算と資を奪い合う競争関係にあり、大本営は意思決定者はなく、陸軍と軍の戦略を一致させることは結局不可能であった。軍と民間政治家の間はさらに疎遠であり、大本営は内閣情報提供することを拒否し、内閣からの勧告をすべて視していた。

 日露戦争では集団での潰走も多数みられたため、戦後教育が強化された。軍の導の下、天皇崇拝が強化され、仏教儒教の影が衰退していった。民はすべて天皇に属していると信じ、勇敢に戦い、死をおそれず、戦死を名誉とした。戦死した兵士家族が祝福され、通常の喪が恥と考えられるような状態に達した。戦争の開始時は、よく訓練され勇敢な兵士、船員、飛行士と入念な準備が日本軍の大きな利点となったが、ミッドウェー以後その兵士の損失を埋めることができず、軍事的に敗退を続けるようになった。

 大日本帝国陸軍において、補給は日清戦争のころより軽視され、陸軍士官学校卒業生のうち補給部隊を希望したのは4に過ぎなかった。

産業基盤はぜい弱で、大砲や走行車両英に劣っていた。軍の合理化をし、1925年に試みられた軍縮三次にわたる軍備整理の結果、将兵約10万人(時兵の約3分の1)を削減した。ところが師団の数は維持した(将官のポストは減らさなかった)山梨軍縮とは違い軍縮は4個師団を削減したため、将官の整理を行う結果となった。それは軍備縮小に名を借りた思い切った陸軍の「体質善」(近代化)をしたものであったが、一度に大量の将校の首を切ったことは陸軍内部に深刻な衝撃を与え閥抗争の化を招いた。このことが後に垣が組閣に失敗し、総理大臣になれなかった遠因にもなった。

装備の不足を補うために精が強調された。1929年の陸軍現場マニュアルでは銃剣の使用と精の強調、夜襲と包囲の推奨と後退を考えられないものとした。また兵器開発にも影を与えた。重機関銃に高倍率の学照準器(スコープ)を取り付けて遠距離射撃に適したしたり、精密射撃ができないから迫撃の開発は見送るなど。

支那事変の勃発以来は、軍の増大は続き、17師団から51師団に増強された。

兵器が劣る分、訓練は行き届いており、緒戦は装備面で同等の植民地に展開する連合軍を、数が少ない(例えばフィリピン戦では16万人の軍に対し日本軍4万人)ながらも圧倒している。その後、太平洋戦争の戦域が拡大し、作戦失策もあり、十分な補給が受けられなくなると、戦闘より飢えや病気で亡くなる兵士増し、実を発揮できないまま各個撃破されていった。しかし戦場が本土に近づき、補給や装備が充実してくると、その実を発揮し英米軍からは「日本兵のり強さは世界最高準」とか「日本兵は頑強で機知に富んでおり身体も高い」と感嘆される事となった。また大量の火を持ち込んだ硫黄島沖縄では、米軍に大量の死傷者を出させ、多数の戦車を撃破している。

また航空機もノモンハンの戦訓もあり、防弾装備が軍に対すると強化されていた為、連合軍と互の戦いをしている。零戦以降の後継機の開発に遅れを取った軍と較すると陸軍は順調に航空機開発を進め、四式戦疾風や五式戦は、連合軍が大戦末期に投入したレシプロ機の新鋭機に決して劣る事がない性を持っていた。一式戦もよく較される零戦より防弾装備に優れていた為、ビルマ戦線や中国大陸英軍の新鋭機相手に最後まで善戦していた。

一方の大日本帝国海軍もよく訓練され、装備も英と同等であった。対防御には劣っていたものの、特に魚雷は連合軍よりはるかに優れていた。緒戦では零戦は英に衝撃を与えた。零戦は機動性、速度に優れ、英航空機より長大な航続距離を誇った。

  アメリカ

 第一次世界大戦後、アメリカはモンロー義をとり、産業の規模にべて小規模なものの、軍は維持されたが、陸軍は軍縮が進み1939年にはルーマニアよりも縮小される有様で、戦争の準備はできていなかった。ドイツUボート現実的な脅威と太平洋での状況の変化により、開戦以前より軍の増強を始めていた。しかし軍はまだ遠征を行える規模ではなかったし、戦艦空母はまだ造船所で建設中であった。しかし産業は強く、石油や石炭などの天然や、広大耕作農地にも恵まれ、物資、戦車航空機などを連合軍に大量に供給していた。開戦後アメリカの膨大な資と生産は、1945年8月太平洋には、1,137戦闘艦、14847の戦闘機2783の大上陸用舟艇と何千の小上陸用舟艇、400の前基地、152の洋上艦ドックを配備するなどとんでもないレベルであった。

 アメリカ軍として戦った兵士や船員は大半は民間人からの充員であり、他ほどのプロ意識はなく、ドイツ軍較して戦闘力70-80といったところであった。民主主義の軍の士気は優れているとの幻想は、全体の軍との戦いの実戦にて崩れ去った。特に陸軍は対独戦では多くの死傷者や精神病者を出し、軍は対日戦で多数の沈没艦と損傷艦、海兵隊日本軍の固く守備された拠点(硫黄島沖縄など)を攻撃するケースが多く多数の死傷者を出した。アメリカ太平洋戦線では、大規模な火力兵器、補給体制により対抗した。またアメリカイギリスと違い、珠湾により民世論がたきつけられていたため、日本ドイツと並ぶ敵と考えており、太平洋戦線には上戦のほぼ全てと、陸軍戦30をつぎ込んできた。

  イギリス

 かつて世界の1/4を支配した世界歴史上最大の帝国も、第一次世界大戦の犠牲により財政は破綻しかねない状態となり、植民地でのナショナリズムの勃により困難を抱えていた。1939年欧州での大戦の勃発により、イギリスドイツ敵と考えており、対日戦は枝葉の問題と考える傾向があり、太平洋戦争アメリカに任せ3次戦線の扱いであった。しかしインドイギリス治安部隊による弾圧である1919年の379人が死亡1500人が負傷したアムリトサッル事件以後反英感情が高まり、ガンジー率いるインド会議などの独立運動が盛んとなり、太平洋戦争中には常に反乱が現実的な脅威となっていた。

 イギリスは極東アジアにおいて、シンガポールに重大拠点を置いて大なコストをかけていたが、大西洋、地中海、極東の3大地域においてすべて一度に脅威にさらされないという見通しで戦略を立てていた。しかしイタリアドイツ側で参戦したことにより、大西洋と地中海に重大な局面を迎え、極東には戦が残されておらず、特に軍は開戦時より圧倒された。イギリスは予算不足のため、大戦間に陸軍は大幅に縮小され、陸軍令官の解雇もあった。軍も予算が厳しく、キングジョー2世戦艦保守的な設計であり、空母世界最高の防御だったが、航空機世界最悪だった(英国面)。しかし、アメリカより多数の優秀な艦載機のレンリースを受け、機動部隊はかなりの実を有していた。大戦後半にはドイツ軍が壊滅した為、敵がいなくなり一度は日本軍から叩きだされた太平洋戦域に投入され、日本軍の特攻機と戦を繰り広げる事となった。

幸いにも軍は、敵であるドイツと同等の品質であったが、アメリカの潤沢なレンリースもあり、4発爆撃機ランカスターの量産に注し7,000機以上を生産。大戦序盤の1940年からドイツ本土爆撃を続け、後に加わった米軍ドイツ本土の都市や生産拠点を破壊し、ドイツ軍を膚なきまでに叩きのめしている。太平洋戦域では戦場が高温多湿の東南アジアあったこともあり整備に苦労し、戦闘で失うより多くの航空機を事故や自然消耗などで失っており、数で圧倒的に劣る日本陸軍航空隊を最期まで壊滅させる事ができなかった。

  中華民国

開戦、および経過

1941年12月7日日本時間8日)、日本珠湾、グアムウェーク島を攻撃した。同日、日本軍イギリス植民地香港マレーシアアメリカの支配下にあったフィリピン、およびタイへ進攻し、太平洋戦争が始まった。

1941年から1942年

連合軍は最初の6かで多くの悲惨な敗北をこうむった。

真珠湾攻撃

詳細→真珠湾攻撃

 真珠湾攻撃12月7日日本時間8日午前3時)、日本海軍連合艦隊長官山本五十六の命により、南雲忠一率いる機動部隊は、珠湾を爆し(真珠湾攻撃)、8隻のアメリカ軍艦、188航空機が破壊され、2403人の死者をだした。攻撃は布告や最後通牒なく行われた。しかし、アメリカ軍事前暗号電文解析により、攻撃直前には真珠湾攻撃の危険性が高い事を把握していており、日本軍を発見したら構わず攻撃せよと命令をしていた上に、日本軍の攻撃開始30分前には、日本軍の特殊潜航艇を駆逐艦が撃沈し、その報告が令部になされていたにも関わらず、米軍は十分な戦闘態勢を取らずに非戦闘状態で攻撃を受ける事となった。アメリカ珠湾後に日本による宣戦布告前の奇襲という事実を最大限に利用し、民の敵愾心を煽った一方で、珠湾の大損軍事的には失態が積み重なった結果と認識しており、当時のキンメル太平洋艦隊令を更迭し予備役に回し、更に現代に至るまで名誉回復してないなど、作戦当事者の責任を厳しく問うていた。

日本は、米国がこのような突然の大打撃に直面した時、交渉による解決に持ってくることができ、アジアでの行動の自由を得られると考えていた。米海軍戦艦隊の壊滅により積極的な作戦が取れなくなり、日本軍緒戦の南方進撃は滞りなく行われる事となり、一部の日本軍論見は成果を挙げる事となったが、アメリカの損失は当初考えられていたよりも深刻ではなかった。空母上にあり、さらに重要な軍の燃料タンク、造船所、発電所などの設備、潜水艦基地、アメリカ海軍作戦部長傷であった。もっとも艦載機による爆撃で港湾施設に大打撃を与える事は最初から不可能であり、米国を講和交渉の席に立たせる消耗戦を戦うことは、日本海軍えていた。

 真珠湾攻撃前は、アメリカイギリスソ連レンリースを行っていたが、アメリカのモンロー圧力団体アメリカ第一義委員会はこれに強く反対していた。しかしこの反戦運動も攻撃後に消えた。12月8日アメリカ日本宣戦布告を行い、イギリスカナダオランダ中国がそれに続いた。翌日にはオーストラリアが対日宣戦を行い、3日後にはドイツイタリアアメリカに宣戦を行った。12月8日夕、天皇英両に対する宣戦の詔書が、内の官庁や地方役所に配布され、夕刊に掲載され、英に宣戦を宣言したとみなされた。ヒトラー真珠湾攻撃を歓迎し、アメリカ日本軍の対応に忙殺されれば、イギリスソ連への援助物資は先細りし、ヨーロッパの問題に干渉する余裕はないだろうと考えた。しかしヒトラー英両軍がまずドイツを先に敲く方針で同意していたことを知らなかったし、度重なるドイツの要請にもかかわらず、日本戦争的はあくまでも資獲得で、その為の南進が最優先であり、対ソ静謐が日本の外交の中心であったことも認識していなかった。孤立義、中立義だったアメリカに対する珠湾奇襲によりアメリカにおける大動員が可となり、大徴兵と巨大産業の鳴動が始まった。

フィリピン、ウェーク島、グアムへの攻撃

 フィリピンでは、防御軍は1941年11月30日の段階で1万6600人の米軍と1万2000人のフィリピン人からなる3万1000人ほどで構成されたアメリカ極東陸軍だけだった。開戦と前後して予備役の動員が行われ、ダグラス・マッカーサーの手元には理論上13万の兵が存在するようになったが、その圧倒的多数はフィリピン人で構成された訓練途上の予備部隊に過ぎず、小銃大砲にも不足するありさまだった。

 12月8日マッカーサー珠湾奇襲の報告を受けていたが、台湾への先制爆は行わず、フィリピンを警させたのみであったが、これは失策で、台湾よりの日本軍の先制爆により、クラークフィールドアメリカ航空機の大半が破壊された。日本軍12月10日ルソン北部に、12日南部レガスピーに上陸した。マッカーサーは増援が来るまで持ちこたえる考えであったが、ワシントンは対独戦を優先しフィリピンに軍を派遣する意思はなく、巡洋艦ペンコーラ率いる輸送船団はオーストラリアに退避した。本間率いる第14軍4万3000人は22日マニラ北西のリンガエン湾に上陸し、訓練不足のフィリピン兵は一蹴され、フィリピン全体で防衛するマッカーサーの思惑は打ち砕かれた。ここでマッカーサーは26日マニラ防備都市宣言し、アメリカ軍はマニラ湾の西側に伸びるバター半島およびコレビドールに麾下の部隊を移動させ、そこを拠点に立てこもった。1942年1月2日日本軍はマニラを占領した。1942年1月9日からの日本軍の第一次攻撃は、バター半島での地構築とフィリピン軍の奮闘により、多数の犠牲を出し、2月8日攻略中断に至るなど苦戦した。しかし、物資の不足は深刻で、バター半島の物資は4万3000人の軍の予定で集められていたが、最終的に総勢8万の軍と2万6000の難民となった民間人がバター半島に殺到し、それを養う食料および医薬品(特にキニーネ)は不足し、マラリアデング熱が流行した。アメリカからの増援は期待できなかった。

バターンの地下壕に立て籠もり出てこないマッカーサーに対して、将兵たちは「ダグアウトダグ」と揶揄していたが、その後ルーズベルト大統領からマッカーサーに直々の令が届き、3月12日に多くの兵士を置き去りにしてオーストラリアに逃走すると、将兵らは「ダグアウトダグの歌」を作り、恨み節を歌いながらジョナサンウェイライトの元、50,000名近くにも及ぶ大量の死傷者を出しながら、食糧や弾薬も欠く中で勇敢に戦った。フィリピン軍は1942年5月に降伏し13万名にも及ぶ大量の捕虜を出す事となった。

日本軍の勝利の中で悲劇も起こっている。ミンダナの大都市ダバオには古くから日本人社会が根ざし、フィリピン戦時点で約20,000名の日本人が居住していたが、ダバオを防衛していた米軍ダバオの日本人を監禁すると、男は有を言わさず殺婦女子は小児に至るまで虜辱し虐殺、その人数は4,000名以上にも上ったという。日本軍坂口部隊がダバオに突入し残った日本人1万数千人を救出したが、坂口部隊の進撃が遅れていればより多くの日本人が命を落とすところであった。

フィリピンより魚雷艇で脱出したマッカーサーは、事にオーストラリアに到着すると、南西太平洋連合軍最高令官に任命され、オーストラリアからの連合軍の反攻の揮を取る事となった。

 12月8日よりウェーク島攻略作戦が行われ、空母エンタープライズによってF4Fワイルドキャットが補充されていたが、日本軍の奇襲攻撃により、戦闘機の大半が破壊された。しかし防衛軍は奮戦し、残存F4Fワイルドキャットの活躍もあり、日本軍駆逐艦疾風」が沈没、旗艦「夕張」なども大きな損を受け、日本軍は上陸を断念した。珠湾から帰投中だった第二航空戦隊や、第八艦隊などの増援を受け敢行した第二次攻略戦は多くの負傷者、死者を出す大苦戦となるが、25なんとか占領した。アメリカの拠点のグアムも同日に陥落した。

欧米植民地への攻撃

 イギリスオーストラリアオランダ軍は、ドイツとの2年間の戦争において人員と物質を北アフリカ中東に供出されていたため、日本軍の攻勢に強く抵抗できなかった。特に本ナチスに占領されたオランダは脆弱であった。1941年12月8日マレー半島北端に奇襲上陸した山下奉文中将率いる日本軍は、55日の進撃で1942年1月31日にはマレー半島南端に至った。12月10日にはイギリス軍の戦艦レパルスプリンスオブウェールズ日本軍襲により沈没した(マレー戦)。タイ日本の進駐により24時間以内に降伏し、12月21日に正式に日本と同盟し英に宣戦した。同ラングーンでは爆が行われ、ドックが焼失し、1000-2000人の死者がでた。香港12月8日に攻撃を受け、25日に陥落した。

 1942年1月日本軍ビルマオランダ領東インドニューギニアソロモン侵略し、クアラルンプール、ラバウルを占領した。連合軍はマレーシアから駆逐された後、シンガポールにて抵抗したが、アーサーパーシバル中将2月15日降伏し、13万のインドイギリスオーストラリア兵は捕虜となり「大英帝国史上最大の敗戦」と言われた。日本軍インド兵士6万5000人を捕虜とし、2万5000人をインド民軍に編成した。マレー作戦中及びシンガポール占領後、華僑による抗日活動も盛んとなり、山下泰文中将治安維持と援の遮断のため敵性華僑の掃討・処断を命じ、辻政信中佐の活躍もあり、約2400名(戦後軍事裁判の訴状による)敵性華僑が処刑された(シンガポール粛清虐殺)。さらにアレクサンド病院などで多数の医療者、病人の処断が行われた。2-3月のスラバヤ戦で連合軍は日本海軍敗北し、ジャワスマトの連合軍は降伏した。

 3-4月には強日本海軍インド洋に襲撃を行い、セイロン戦にてイギリス空母ハーミーズほか多数の連合軍の艦艇が撃沈され、イギリス海軍インド西部への撤退を余儀なくされた。これによりビルマインドへの日本軍の攻撃へのが開かれた。ビルマでは、イギリス軍が首都ラングーンからビルマインド地を構築していた。これは中国国民党への援ルートの一つであった。戦争イギリスインド軍は20万に増強されたが、多くは訓練不足、装備不足であった。日本軍3月8日ラングーンを占領した。これを受けて、援ビルマルートの確保のため、中国遠征軍はビルマ北部で日本軍と交戦した。しかし4月29日ラーショーが占領され、5月1日中部の要衝マンダレーが占領されると、連合軍は総退却に移った。撤退は5月中旬より始まったモンスーンの中で行われ、多くの難民、落者、飢饉、捕虜を伴った。

 中国での合作は武作戦での頂点から、両軍が領域を拡しようとしたため冷却していった。民族ゲリラ領域のほとんどは最終的に共産主義にとってかわられた。一方国民党の勢の多くは、蒋介石の同盟武将で、120万の軍のうち65万が直接支配であった。これらの中国軍の統一性のなさは日本軍の攻勢に有利だった。

オーストラリアへの攻撃

 太平洋戦争開戦時、オーストラリア軍のはほとんど地中海で戦っており、準備不足であった。イギリスからの援軍もめていたが、アメリカへの支援めた。シンガポール陥落時1万5000人のオーストラリア兵士が捕虜となった。1942年初めにはニューギニアの戦いが始まり、2月19日にはダーウィン襲が行われ、少なくとも243人が死亡した。以後19か間でオーストラリアに対して約100回の襲が行われた。中東から2個師団のオーストラリア軍が返還され、チャーチルビルマに転用したかったが、オーストラリアカーティ首相オーストラリアへの復帰をした。

 日本海軍オーストラリア占領を立案したが、軍令部に反対され、南太平洋アメリカオーストラリアの連携を遮断する戦略をとった。日本軍はポートモレスビー攻略した。ルーズベルトとカーティンは1942年マッカーサー揮下にオーストラリア軍を配置することで合意した。マッカーサーは1942年3月メルボルンに移動し、アメリカ軍オーストラリアに集結し始めた。日本海軍は1942年5月潜水艦シドニー湾で攻撃を行い、6月8日シドニーの東のニューカッスル撃した。

1942年から1943年

 日本軍は、アメリカ民の厭戦気分を高める為に、アメリカ西海潜水艦隊を派遣西海での通商破壊戦と、潜水艦の搭載による艦砲射撃を行った。西海の住民の視できる距離で商船やタンカーが10隻以上撃沈され、また被害は小さかったものの、艦砲射撃は西海の住民に戦争現実的な恐怖を巻き起こした。特にフォースティーブンス陸軍基地に25潜が行った撃は、米軍にとって戦争以来となる敵側軍事による本土の米軍基地攻撃であり(この後も現代に至るまで行われていない)米軍も大きな衝撃を受けた。

その恐怖や衝撃は1942年2月に「ロサンゼルスの戦い」を引き起こす事になった。米軍はそれまでも、日本軍襲や日本兵の上陸という誤報に振り回されていたが、2月24日サンタバーバラ日本軍潜水艦撃され、警を強めていた米軍は、ロサンゼルス日本軍機が来襲したと誤認、見えない敵に向かって高射砲を乱射した。その高射砲の破片がロサンゼルス内に降り注ぎ、多くの建物やを破損させ数名の市民の死者を出している。この時のアメリカのドタバタ劇を、スティーヴン・スピルバーグの初めての映画監督作品として制作されたのがコメディ映画「1941」である。

これ以上の混乱アメリカ民の厭戦気分が高まる事を恐れたルーズベルトと米軍は、博打とも言える日本本土爆撃を計画し、アメリカ民の士気を高揚させようと考えた。1942年4月空母ホーネットから飛び立ったB-25爆撃機は、東京襲を行った。16機のB-25はすべて間悪による不時着で失われ、日本がこうむった被害は最小限であったため、指揮官のジミー・ドーリットルは失敗と考えたが、ルーベルトらはドーリットルに名誉勲章(メダルオブオナー)を授け、異例とも言える生前の二階級特進を行い英雄として祭り上げ、アメリカ民の士気高揚に徹底的に利用した。一方、日本には土の脆弱性を露呈させる心理的影をもたらした。更にドーリットル襲の最大の効果は、日本軍にミッドウェーへの破綻的な攻撃を起こさせたことだった。

日本軍東京襲の報復として、アメリカ西海で活躍し、横須賀に帰還していた25潜に搭載水上機でのアメリカ本土襲を命令。25潜は再度遠路西海まで遠征すると、藤田信雄飛曹長が操縦する零式水上偵察機は2度に渡りオレゴン州の爆撃を行った。火災を起こさせる的で焼夷弾での爆撃を行ったものの、大規模な火災は発生せず被害は最小限だったが、米軍の衝撃は大きく、西海での対監視の強化と防壕やシェルターの構築を余儀なくされた。結局この後は日本軍による本土への爆撃は行われず(大戦末期風船爆弾での攻撃はあり)また本土に対し最初で今のところは最後の敵航空機による襲となった為、藤田戦後爆撃を受けたオレゴン州ブルッキングから、本土を爆撃した「英雄」として歓待を受け、当時のロナルド・レーガン大統領からホワイトハウスに招待されている。

珊瑚海海戦とミッドウェー海戦

 1942年半ば、日本は維持するのが困難なほど、太平洋からインド洋への広大な地域を支配していたが、さらに南部と中央部太平洋に攻撃をすることを決定した。しかし、このころには連合軍の暗号解読班の活躍が始まり、奇襲が成功しなくなっていた。日本軍路ポートモレスビー占領を計画したが、フレッチャー率いるレキシントンヨークタウンを含む部隊に察知され、1942年5月珊瑚戦が始まった。これは互いの空母機動部隊同士により、艦船の見えない距離で戦われた初めての戦となった。アメリカ軍空母レキシントンを撃沈されヨークタウンが深刻な損を受け、日本軍空母祥鳳が撃沈され翔鶴が損を受け、ミッドウェー海戦に参加できなくなった。連合軍の損日本軍より大きかったが、パイロットの損はむしろ軽微であり、日本軍パイロットの損失を補充するに欠けていた。結果としてポートモレスビーへの進撃を阻止し、日本軍の攻勢が止まり、連合軍の戦略的勝利であった。

 山本五十六率いる連合艦隊赤城加賀蒼龍飛龍の4隻の空母を持ち、米軍空母サラトガ魚雷攻撃により修理に入ったため、ホーネットエンタープライズしかないと考えた。一方太平洋方面最高令官チェスター・ニミッツ率いる太平洋艦隊は、珊瑚で損傷を受けたヨークタウンをわずか3日間で修理を終え、民間修理作業員を乗せたままミッドウェに向け出航し、空母3隻で挑むこととなったた。山本五十六空母を陽動し、ミッドウェーを占領し日本軍基地に変えることで日本の勢圏を広げ、ドーリットル襲に対応することを的とした。日本軍アリューシャンを攻撃した。しかしアメリカ軍暗号解読班はその意図を見抜いていた。南雲忠一はミッドウェー攻略を進めた。しかし山本の計画には、ニミッツの対策を検討に入れていなかった。水上飛行機でのアメリカ艦隊の監視が失敗したため、フレッチャーは探知されることなく日本機動部隊を迎え撃つ位置に侵攻できた。南雲機動部隊は272機の、アメリカ軍348機(115機が陸上機)を保有していた。

詳細→ミッドウェー海戦

炎上するヨークタウン ニミッツの予測通り、日本艦隊は6月4日にミッドウェー近に到着、PBYカタリナ機により発見された。南雲機動部隊は、ミッドウェー基地に対し先制攻撃を実行した。9時20分よりアメリカ軍機動部隊の航空機が到着し、TBDデヴァステイターの攻撃が開始されたが、護衛のゼロ戦に迎撃され、15機すべてが撃墜された。午前9時35分よりエンタープライズの15機のTBDが攻撃したが14機がゼロ戦に撃墜された。しかしこの一見秩序な攻撃のため南雲機動部隊は燃料と弾薬の多くを費やし、面近くに護衛戦闘機を誘導され、魚雷を回避するため対火の密度が低下した。さらにミッドウェーへの二次攻撃と、空母発見による兵装転換により混乱が増した。この時エンタープライズおよびヨークタウンSBDドーントレスによる急降下爆撃が行われ、赤城加賀蒼龍は致命傷を受けた。飛龍は難を逃れ、ヨークタウンに打撃を与えたものの、空母の第二次攻撃により破壊された。ヨークタウン日本潜水艦により撃沈された。南雲機動部隊は空母4隻を失い、山本五十六はミッドウェー攻略の中止を余儀なくされた。戦いは連合軍の決定的勝利であった。日本海軍連合艦隊は4空母とその熟練船上員を多数失い、弱体化し、以後守勢に立つことになった。

ニューギニアとソロモン

 日本陸軍はソロモンニューギニアで進撃をつづけた。日本軍はポートモレスビー攻略を視野に入れて前進航空基地の設営を計画し、1942年3月8日ニューギニアの東部の要衝サラモアに陸軍南海支隊、同じく要衝ラエに軍陸戦隊が上陸した。どちらも連合軍はすでに撤退していたため、抵抗を受けることなく占領が行われた。1942年東部マダンを占領し、さらに7月より山脈越えの基地ココダを占領し、オーエンスタンレー山脈を越えてニューギニア南部ポートモレスビーに向けて進撃した。しかし北アフリカ戦線に引き抜かれ、予備隊で若く未熟なオーストラリア軍は、意外と善戦した。また日本軍8月25日から9月7日までのニューギニア最東端の占領を画策し、勃発したラビの戦い(ミルン湾の戦い)においてオーストラリア軍に敗れ退却した。1942年後半には、大本営はガダルカナルを優先することとし、ニューギニア戦線への補給は停まったため、ポートモレスビー攻略を断念し9月26日に撤退した。

ガダルカナル島の戦い

詳細→ガダルカナル島の戦い

 ガダルカナルでの日本海軍の建設中の飛行場を占領するため、1942年8月ヴァンデクリフト率いる6000のアメリカ軍海兵隊が上陸した(1942年8月7日 - 19432月7日ガダルカナル島の戦い)。海兵隊は占領した飛行場をヘンダーソン飛行場とめいめいしし、以後6か間の戦いの始まりとなった。日本軍航空機ガダルカナル攻撃に派遣されたが、ヘンダーソン飛行場および空母艦載機の攻撃により多数が失われた。ヘンダーソン基地を繰り返し攻撃した日本陸軍部隊は、多数の死傷者を出した。これらの攻勢を維持するための補給は東京Expressと呼ばれた。間および日中空母を含む艦隊の戦い(第一次ソロモン戦、第二次ソロモン戦、サボ夜戦、南太平洋戦、第三次ソロモン海戦)は両軍に多数の沈没船をもたらし、をめぐる峡はアイアンボトムサウンドと呼ばれた。最終的にヘンダーソン飛行場とガダルカナルは防衛され、日本軍にとってガダルカナルを攻撃するのはコストがかかりすぎる状況になり、19432月に撤退した。

中国や東南アジアでの膠着状態

 中国本土では、中国軍は長沙の戦い(1942年)で初めて勝利を収めた。ドーリットル襲の後、アメリカの飛行士は浙江付近にパラシュート降下した。大本営は兵の捜索と中国領土から日本への襲がを防ぐため同地の空港を破壊することを的とし、浙江と江西軍事進攻を行った。日本軍ゲリラを捜索するため、疑われた町や村を焼き、多くの民間人が処刑された。化学兵器生物兵器も使用され、中国人25万人が死亡し、日本軍生物兵器誤爆などにより1700人が死亡した(文献により内容が違う)。日本軍は浙江、江西米軍の飛行士を捜索したが、64名のうち8名を拘束したのみで、大部分は中国人に救出された。

 当時世界最大のコメの輸出であったビルマ日本攻略されたことにより、1941年の作により食糧が不足していたインドベンガルではビルマからのの輸入が途絶え、またビルマより難民が流入したため食糧事情が悪化し、大飢饉が起き(ベンガル飢饉)、最大300万人が死亡した。この現地事情の悪化と通信の不適切な状態ではあった。

ビルマ奪還に執着していたチャーチルビルマに名将ウィリアム・スリム中将を送り、アメリカよりのレンリースを得て順次戦を増強していたが、1943年にビルマ奪還をビルマ西部アラカン南部を攻撃した(第一次アキャブ作戦)、しかし日本軍の迎撃に遭い、の英第6令部が攻撃を受けロナルド・キャンベンディッシュ准将が捕虜になるなど(後に英軍の撃により死亡)惨敗し、5,000名近くの遺棄死体を遺して退却した。またオード・ウィンゲート率いる特殊部隊チンディットは北部ビルマで破壊活動を行ったが多大な損を受けた。この敗戦に懲りた英軍は戦が整わない中での攻勢をめ、戦の増強を進めた。一方の日本軍は、アキャブでの勝利で引き続き英軍を過小評価した事と、ウィンゲート団の破壊工作に挑発され翌年のインパール作戦を呼び込んだ。

 ドイツに亡命していたチャンドラ・ボースは、英領インド自由独立を与えるインド軍を創設しようと渡航を計画、19434月27日マダガスカルで日独潜水艦は会合に成功しボースは29に移乗、5月16日東京に到着した。6月ボースはシンガポールに入り、インド民軍最高指揮官となった。日本19438月1日ビルマ独立を与え、バー・モウが国家元首に、アウン・サンが防大臣に就任した。

 19438月に連合軍は東南アジア令部に再編され、チャーチルにより10月ルイス・マウントバッテンが最高令官として任命された。失態が続いたノエルアーウィン中将は更迭され、ウィリアム・スリムイギリスインドの混成軍であるイギリス第14軍の令となり、ビルマ日本軍と対峙した。ウィリアム・スリム中将のもと、部隊の士気と練度が大いに向上し、アメリカ陸軍のジョセフ・スティルウェルもマウントバッテンの副令官となり、インドから中国へのレド路の構築をした。11月22日フランクリン・ルーズベルトウィンストン・チャーチル蒋介石は、カイロで日本に対する戦略の会議を行い、カイロ宣言を締結した。

しかし、大戦で大した貢献もしていない中国が参加することにチャーチルは難色を示し、スターリンは同席すらしなかったが(数日後のテヘラン会談に出席、しかし蒋介石は招かれず)中国戦線の実情をよく把握してなかったルーズベルトのゴリ押しにより、連合軍の巨頭の一人として祭り上げられる事となった。しかしこの後も中国の貢献度は日本軍精鋭100万人を大陸り付けている以外には何もなく、ルーズベルトも次第に中国に対する幻滅を深めていく事となった。

ティルウェル(アメリカの対中支援責任者)「蒋介石日本軍とまともに戦う気はない、アメリカよりの援助物資を共産党との戦いにつかうつもりだ、このままでは中国はヤバい・・・死にたい・・・」(実際に何度も自殺を考えたと言う)

1943年から1944年

 太平洋戦線では、欧州戦線より数かく転換点を迎えていた。すなわち1942年6月に勃発したミッドウェー海戦は、その後2年間の戦略において多大な影を与えた戦であることが判明したのである。アメリカは船舶、飛行機、訓練された乗務員を増強する産業のすそ野の広さがあり、この時期を戦増強に費やした。同時期、日本は十分な産業基盤や技術戦略、乗務員の優れた教育プログラムを持っておらず、軍資と商業船の防衛においてさらに後を拝した。

 太平洋ではニミッツマッカーサーが、どちらが先に日本を屈させるか競争し、この種の対決を重要と考えていたルーズベルトは、両者の対決による競争をみとめた。軍はマッカーサーを憎んでいたので、提督たちはこの種の対決を歓迎した。ニミッツ率いる太平洋艦隊は194311月より攻勢をかけ、太平洋の次々に占領した。日本軍の拠点は必ずしもすべて占領せず、トラック、ラバウル、フォルモサのように放置されるところもあった。的は日本に接近し、その後大規模な航空機による戦略爆撃上封鎖を実行し、最終的に(必要あれば)日本本土上陸作戦を実行することだった。194311月タラワに戦いでは、海兵隊4500人強の日本軍守備隊を圧倒したが、3,000名以上の死傷者を出し海兵隊トラウマとなった。この教訓より学習し、上陸前爆撃撃、潮の満ち引きや上陸用舟艇の日程についてはより慎重で全体の調整などを行われるようになり、上陸船の技術が向上し連合軍を助けた。また同時に行われたマキンの戦いでも米軍は苦戦、175潜の撃による空母リスカム・ベイ」の撃沈などで日本軍守備隊の戦死者約500人をえる1,000名以上の死傷者を出し、タラワ・マキン両攻略の「カルヴァニック作戦」は米軍にとって多くの教訓を残す戦いとなると共に、今後の日本軍しい抵抗を予感させるものとなった。

アメリカ海軍は、アルフレッド・セイヤー・マハンの戦略に基づき、日本艦隊との決戦めなかった。連合軍の前進は、日本海軍の攻撃によってのみ停止させることができたが、日本軍の原油の不足(潜水艦作戦による)により不可能となっていった。

無制限潜水艦作戦

 連合軍の潜水艦は、軍の2%に過ぎなかったものの、ブリスベン、珠湾、セイロン、ミッドウェーなどの基地より出撃し、日本敗北に大きな役割を果たした。潜水艦が輸送船を攻撃することにより、武器の生産と軍事作戦の不可欠な石油の輸入を遮断した。1945年の初めには、日本の石油供給は事実上遮断された。日本軍468隻の連合軍潜水艦を撃沈したとしたが、実際には42隻のみで、10隻は事故あるいは同士討ちであった。日本の商船の沈没のうち56潜水艦が占め、そのほかは機航空機が占めた。また日本軍艦28潜水艦により破壊され、マリア戦やレイテ沖海戦では重要な役割を果たした。潜水艦はまた、多くの航空士を上で救出し、その中にはのちの大統領ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュもいた。連合軍の潜水艦は、守勢ではなく、攻撃的だった。真珠湾攻撃以後まもなく、ルーズベルトは日本に対し制限潜水艦作戦を宣言した。

 日本軍潜水艦を大量に保持していたが、戦争に大きな影を与えることはなかった。1942年、日本の艦隊の潜水艦は、多くの連合軍の軍艦を撃沈、損傷させ、好調であった。しかし日本海軍は艦隊決戦にこだわり、通商破壊は重視されなかった。アメリカ軍は、西海戦場の間に非常に長い補給路を有していたため、潜水艦攻撃に対し脆弱であったが、日本軍は時にしか輸送船を攻撃せず、大戦序盤にはアメリカ西海インド洋、オーストラリアに対して通商破壊戦を行いかなりの効果を挙げたが、割かれた戦は一部であった。また後日、孤立したトラックやラバウルへの補給にも役立った。日本軍ソ連との中立条約を重視し、アメリカからのウラジオトクへの何トンもの軍事物資の輸送を放置し、同盟ドイツを憤慨させた。

大戦中盤以降は、大西洋でUボートとの戦いで培われた連合軍の対潜技術に対し、日本軍潜水艦はなす術もなく犠牲を重ねた。(Uボートは大戦中994隻が失われている)しかし苦戦する中でも空母リスカム・ベイ」を撃沈し米海軍史上最大の悲劇と言われる重巡インディアナポリス」を撃沈するなど、大西洋でUボートが成し遂げられかった大戦中盤以降の連合軍艦撃沈の戦果も挙げている。

 アメリカ海軍は、当初より通商破壊に従事していた。しかしMk14魚雷とそのMk6信管の信頼性が19439月まで善されなかった。さらに戦前米国税関担当官は日本の商船暗号コピーを押収していたが、情報局は情報を得ていなかった。日本はすぐ新しい暗号に変更し、1943年まで破られなかった。

 指揮官を更迭し、船上レーダーを効率的に設置し、魚雷の障善したアメリカ海軍は、1944年に最大150潜水艦を活動させた。日本の通商防御は重視されておらず、護送船団は連合軍としほとんど組織されず防御もされなかったが、アメリカミス日本の自信過剰により表面化していなかった。しかしアメリカ軍潜水艦と沈没数は、急に上昇し、1942年に350(180沈没)、1943350(335沈没)、1944年520(603沈没)となった。1945年日本船の沈没は危険が増加したため航そのものが断念されるようになった減少した。連合軍は潜水艦により1200隻、500トンの商船を破壊した。多くは小貨物船だったが、石油を必死に運搬したタンカー124隻、客船や軍の輸送艦320隻もあった。ガダルカナルサイパンレイの戦いでは日本人数千人が犠牲になった。200以上の軍艦も沈没した。中戦は熾で、潜水艦作戦に参加した16000人のアメリカ兵のうち3500人(22)が未帰還となり、第二次世界大戦中のどの軍よりも高い死亡率だった。日本軍130潜水艦を失い、高確率だった。

ニューギニアでの1943年から44年における戦い

 ガダルカナルの苦戦を受け、1942年11月日本軍ニューギニアおよびソロモンを担当する第八方面軍に編成し、今村均令としラバウルに令部を置き、その下にニューギニアを担当する第18軍を新設し、安達十三令官においた。マッカーサーは、メルボルンに移動し、1942年4-5月オーストラリアアメリカ41歩兵師団、32歩兵師団が集結し、欧州戦線より戻ってきたオーストラリア第6,7師団も揮下に入った。マッカーサー7月オーストラリア北部ブリスベンに移動し、日本軍のポートモレスビー作戦を受け、ニューギニアへのアメリカ軍派遣を決定した。しかし訓練不足およびジャングルに対応した装備が不十分な状態で軍を派遣するに至った。1942年11月16日から43年1月22日まで続いたブナゴナの戦いは、季、マラリアなどの病気、補給の困難さ、日本軍の強固な地、偵察の不備のため、攻略遅延が起こった。ここでマッカーサー攻略へ圧をかけたため、オーストラリア1270人、アメリカ軍787人が死亡し、全軍13600のうち7920病気となるなど犠牲が多くなり、米軍マッカーサーは、オーストラリア軍に非難された。これを受け、19433月マッカーサーカートホイール作戦を立案し、期勝利よりも制権を確保してのアイランドホッピングによる作戦に移行した。同マッカーサー揮下にある南西太平洋軍部隊が編され第7艦隊となった。一方ブナの日本軍は補給の問題のため、飢餓状態となり、1月2日終了時には死者の共食いが行われた。またこの頃より、軍による日本兵への残虐行為が日常茶飯事となり、多数の日本兵捕虜や戦闘不能者が虐殺されたが、マッカーサー令官トマス・ブレイミー元帥も戦意高揚と復讐心による日本人蔑視の為に黙認していた。

 19433月連合軍はビスマルク戦に勝利し日本軍のラエへの補給を断ち制権を確保した。日本海軍連合艦隊長官山本五十六19434月バウルより艦載機のガダルカナル、ポートモレスビー、ミルン湾への襲をおこなう「い号作戦」を行ったが50機以上の損を出す敗北であり、4月18日山本もブーゲンビルP-38ライトニングに撃墜され戦死した。ウィリアムハルゼー率いる第3艦隊は6月ニュージョージア攻略を始めた。8月ニュージョージアムンダ空港米軍の手に落ちたが犠牲が多く、次のブーゲンビル南部ロキナを占領し空港を建設、守りの堅い北部は放置した。12月ニューブリテン西部アラウエ、ツルブ(グロスター岬)に上陸し、同北部のラバウルは襲するにとどめた。

 ニューギニアではビスマルク戦の敗北で制権を奪われた日本軍は、陸路キアリからラエへの陸路でのサラワケット越えでの増援を調し、北本正路少尉隊長とする50名の特別工作隊を派遣した。19433月難行軍の末にサラワケット山(Mount Bangeta 4,121m)を登頂制覇し、万歳三唱、4月ラエに到着したが、あまりの難路で到底補給路としては使えなかった。

参考:ドイツブラ作戦中、標でないエルブルス山(5,642m)をなぜか登頂(ヒトラー激おこ)。 
参考:イタリア捕虜は収容所から見えるケニア山(5,000m)が登りたくなり、わざわざ脱走して登頂。
似た者同士ですね

 19434月ついにオーストラリア軍がサラモアに進出、9月16日連合軍はラエを奪還した。敗北した日本軍は大本営の転進命令を受け、サラワケット山をえる経路で北上し、多くの犠牲を出しながらもキアリに向け撤退した。しかし、マッカーサー9月22日フィンシュハーフェンに強襲上陸し、12月同地の日本軍守備隊はキアリに向け撤退した。残存日本軍キアリに再集結し、マダンヘ向かったが、1944年1月2日キアリとマダンのほぼ中間にあるサイドル(グンビ岬)に、アメリカ軍32師団第126連隊戦闘団約7,000名が上陸し、またも日本軍は退路を絶たれてしまった。日本軍をさけ2000m級のフィニステル山系を横断し西方ダンヘ撤退した。トーマスキンケード率いるアメリカ第7艦隊1944年2月29日より5月31日までアドミラティ攻略し、ラバウルを孤立させた。連合軍はハンザ湾と、減ったものの5万4000の部隊を要し守りの堅いウェワクをパスし、4月22日領西ニューギニア首都ホーランジアとアイタペをそれぞれ4万、2万の軍で占領し、同地の日本守備隊を壊滅させた。ホーランジアでは日本軍1万4600人のうち、生きて転進できたのは500名に過ぎず、また611名が捕虜となった。補給の絶えたマダン~ウェワクに展開する残存日本軍アイタペに攻撃をかけたが、「ウルトラ」(通常英軍諜報部だが、ここではオーストラリアアメリカ共同諜報部?)に日本陸軍の暗号を解読され、連合軍はアイダペ東方30㎞のドリニュモール(坂東)に待ち受けていた。米軍は死者440人、負傷者2560人を出す、ブナ・ゴナの戦いに匹敵するニューギニア戦線で最も大きなともいえる犠牲を出したが、日本軍13000人の死者を出して撤退した。

マッカーサー「あとはジャングルが始末してくれる」

 補給を断たれた日本軍は、飢餓と病気で次々に倒れ、とくにドリニュモールに敗れた以後、退却軍は統率を失い、友軍や現地人、連合軍兵士の人を食う噂が陰惨な話となって広がるありさまだった。安達十三令はウェワクでの分散自活、持久戦に移ったが補給は途絶し、1944年12月に第十八軍は「友軍兵の屍を食す事を罰する」と布告していたが、これに反して友軍に対する人肉食が発覚した4名が処刑されている。掃討作戦に積極的なオーストラリア軍は包囲の輪を次第に狭め、1945年5月にはウェワクにも侵入、日本軍を内陸部へと追い込んだ。この頃には、日本軍としてはしい集団投降をする部隊も発生した(永事件)。西部ニューギニアでも、東のマノクワリに第2軍令部をはじめとする2万名、西端のソロンに第35師団令部をはじめとする1万2,500名があったが補給が絶え、マノクワリでは自活が不可能となり、1万5000名にイドレへの転進を命令したがそこに食糧はなかった。このイドレ死の行進での戦後の生還者は3000人に満たなかった。結果ニューギニアに上陸した20万名余の日本軍将兵のうち、生還者は2万名余に過ぎなかった。カートホイール作戦を成功させたダグラス・マッカーサーは、9月占領したホーランジアを拠点としてフィリピン奪還作戦揮を執った。

ジャワの極楽ビルマ地獄、死んでも帰れぬニューギニア

中国での日本陸軍の反攻

 1944年半ば、日本軍40万人を動員し、中国日本統治下領土と印を接続し、米軍爆撃機の基地である中国南東部の空港を占領することを的とした最大の作戦を行った(大陸打通作戦)。中国軍300万名の兵を有するとされたが、戦意に乏しかったのと、日本軍を消耗させる意味合いもあり、決戦を徹底的に避けた。日本軍は当初順調に進軍を続け、特に戦車第3師団は中国軍にまともな対戦車火器もない事から、30日で師団先鋒の捜索隊は2,000km(一日当り約70㎞)も進軍するなど、人の野を行くが如きだった。

しかし、燃料が不足し補給も滞るようになると進軍スピードは低下し、衝陽や州では固く防衛した中国軍に苦戦し進撃が停止する事となった。その後日本軍の一部がインドシナに到達し、大陸打通は成し遂げられ、広西チワン自治区の多くの占領地を得るなど、戦術的な成果はあったが、米軍の戦略爆撃マリアナ方面に移動し、中国軍戦闘のみでの死傷者が15万人をえるなど大量の戦死傷者を出しながらも決戦を避け続けた為に、壊滅は避けられた事もあり、着した中国大陸戦線に劇的な変化を与える事はできなかった。また、式装備の中国軍の多くはビルマに展開しており、消耗を避けられたため後の反撃のとなった。

中国軍アメリカの対中支援責任者のジョセフ・スティルウェルは、その式新式装備で再編した蒋介石直轄の5個師団合計約20万の大兵中国ビルマの拉・騰越の日本軍地に対して、攻撃を行った。両地を防衛する日本軍はたった4,000人に過ぎず、戦50倍の上に式装備の中国軍の方が火力でも勝っていたのにも関わらず、日本軍守備隊の防衛の前に再編中国軍は大苦戦、中国軍の死傷者は63,000名に達し2個師団が壊滅するという大損を被ったが、日本軍守備隊を玉砕させ、拉・騰越を確保し、日本軍との戦いで初めてとも言える完全勝利(今までも攻撃を撃退したことはあり)を成し遂げている。

しかし大陸打通作戦は思わぬ効果を中関係にもたらす事になった。重慶で固唾をのんで戦いの推移を見守っていたジョセフ・スティルウェルは蒋介石直属の河南中国軍40万人が数が劣る日本軍の攻撃で、あっという間に大敗し散するのをの当たりにし、ルーズベルトに慌てて「このままでは蒋介石はもたない」と報告している。その報告を聞き中国の実情をようやく把握したルーズベルトは蒋介石に疑念を持ち、蒋介石排除も考えたという。その後アメリカの対中政策は国民党一辺倒から、日中戦争中に漁夫の利を得て順調に勢を伸ばしていた共産党にも視線を向けざるを得なくなり、スティルウェルは共産党の本所地延安に部下を派遣共産党との接触を始める事となった。考えていた「四人の警察官」(戦後の秩序を英ソ中が担う構想)構想は絵に描いたにすぎない事を痛感したルーズベルトは中国に対して次第に疎遠となっていき、それはルーズベルトの病死後に大統領を引き継いだトルーマンでなお決定的となり、ヤルタやポツダムといった戦後組みを決定して重要会議蒋介石は呼ばれず、また戦後起こった共内戦ではトルーマン国民党支援を渋り、国民党台湾に放逐される遠因となった。

日本軍も多くの傷病兵を出し、戦闘による人的消耗も含め、死傷・傷病者は10万人にも達した為、これ以降は大規模な攻勢は取れなくなった。大陸打通作戦中国において社会混乱を起こし、中国共産党ゲリラはこの混乱を利用し勢を拡大した。

インドでの1944年の日本軍の攻撃

 東南アジアの連合軍は、1943年の攻勢失敗後、ビルマへ攻撃する準備をしていた。1944年初旬、中国アメリカは北部ビルマにおいて、ジョゼフ・スティルウェルの揮の下、レド行路の延長しながら進撃した。またビルマ北部アラカンにはウィンゲート率いるイギリス軍も侵攻し、日本軍の反撃は、最終的には失敗し、アラカンインド第15軍が割拠するようになり、航空による補給を受けていた。

 連合軍の攻勢に、日本軍は反対にインドに攻撃をすることにした。大本営やいくつかの部署の不安にもかかわらず、日本第15軍の令官の牟田口廉也中将により、インパール作戦が実行され、インド民軍も参加した。4月にはイギリス第14軍のいくつかの部隊は、インパールに包囲されることとなった。コヒマに進出した日本軍は、インパールへの道路閉鎖するが、コヒマを防御することは失敗した4月中に新たな連合軍がコヒマの占領地から日本軍駆逐し、インパール作戦失敗したことが明らかになった。

 多くの日本兵がおそれていたように、日本軍の補給体制は不十分であった。牟田口期勝利計画が挫折した後、日本軍は、特にコヒマでは飢餓状態に陥った。牟田口が攻撃を令し続けたが、連合軍はコヒマ南方北方に前進した。連合軍は6月22日インパールの日本軍包囲網を破った。日本軍は、最終的に7月3日に撤退を決定したが、に飢餓と病気により、50000以上の部隊を失う最悪の敗北を喫した。

 インパール作戦の迎撃に航空機を回されたため、ビルマ北部でのアラカン作戦は停止していたが、中軍は北部ビルマで前進をつづけた。1944年半ばには、中国遠征軍は雲南より北部ビルマに侵攻し、ミイトキーナの戦いで勝利し空港を確保し、路補給体制を強化した。

 当初は,日本軍を歓迎していたビルマ人たちも,支配が長引き,物資不足に陥ると,日本軍に協しなくなった。日本軍に対する物資補給は停滞していたから, 日本軍将兵は,住民から物資を徴発するしかなかった。反抗する住民には威嚇、虐殺するしかなかった。戦局悪化の状況で,日本人ビルマ人との友好関係は, 崩れていった。

1944年から1945年

 チェスター・ニミッツ率いるアメリカ太平洋艦隊は、海兵隊と連携し、194311月よりカルヴァニック作戦としてギルバートへ上陸した。441月マーシャルへ進攻し、2月クェゼリン環礁、エニウェトク環礁を占領し、マリアナ諸への進攻が計画された。

サイパンの戦い、マリアナ沖海戦

 1944年6月15日アメリカ軍は12万8000人の陸軍および海兵隊によりサイパンへの上陸を開始した。サイパンの飛行場からは、B-29による爆撃範囲に東京も含まれるため、日本軍は、サイパンを保持することが不可欠であった。しかし日本軍は、より南部への進攻を期待していたため、サイパンへの進攻は驚きをもって受け止められた。

 アメリカ海軍第5艦隊の戦は、空母15、航空機956、潜水艦28駆逐艦69、さらに巡洋艦があったが、日本海軍小沢三郎のもとには空母9、航空機473戦艦5、駆逐艦28、さらに巡洋艦という容であった。6月19日マリア戦が勃発した。日本軍は持てる航空機の9割をつぎ込んで攻撃した。しかしレーダーと対防御では劣っていたため、日本軍航空機の航続距離が長大なことを利用した、アウトレンジ戦法を行った。日本軍機は、防御を犠牲にしたため、480キロの攻撃範囲を持つなど、長大な航続距離を誇っていた。一方米軍F6Fヘルキャット320キロの攻撃範囲しか持たなかった。

 アメリカ第5艦隊は、レイモンド・スプルーアンスが率いていた。小沢艦隊より大きな戦を持っていたが、小沢はスプルーアンスは先制攻撃を仕掛けないと予測していた。アメリカ軍提督マーク・ミッチャーは日本軍への積極攻撃を具申したが、スプルーアンスはサイパン上陸軍の護衛を優先し、小沢艦隊への攻撃を拒否した。5月にはアメリカ軍駆逐艦により小沢艦隊の潜水艦17-25隻が撃沈され、マリアナ諸日本陸上航空機米軍の攻撃により破壊された。小沢艦隊は連携を断たれた。アメリカ軍では、ニミッツ示は、レーダーデータ線連絡戦闘情報センターにて集中管理し、F6Fヘルキャットに伝達された。さらに近接攻撃に対し、対火にVT信管という新兵器を投入してきた。結果はのちに「マリアナの七面うち」と呼ばれる一方的アメリカ軍の勝利となった。日本軍攻撃機が、七面うちをかいくぐっても、アメリカ艦隊のVT信管を含む対火により撃墜され、アメリカ軍艦の損はわずかにとどまった。

 翌6月20日小沢艦隊は米軍偵察機に発見され、潜水艦日本空母2隻を撃沈した。ミッチャーの揮の下、230撃機と爆撃機日本軍を攻撃した。しかし日本軍443キロ離れた位置にいたため、燃料切れによる航空機の損失リスクが高い作戦であった。アメリカ軍130機と76人のパイロットを失った。しかし日本軍450機、3空母445人のパイロットを失い、機動部隊は壊滅した。

 補給を断たれたサイパンでの戦いは、防御側には絶望的となったため、日本兵は最後の一人まで玉砕することにした。日本軍の巧みな防御で、陸軍第27師団は大損を受けて、師団長が更迭されている。その結果、陸海兵隊3軍の対立が化し(スミスVsスミス事件)後の米軍作戦に大きな影を与えている。7月7日には日本軍は退路を断たれ、最後のバンザイアタックを行い壊滅した。日本軍は最終的に3万人が死亡し、アメリカ軍も3,441人が死亡、11,685人が負傷した。当時サイパンには2万3000-5000人の民間人がいたが、犠牲者が多く出て、アメリカ軍に保護されたのは約1万5000人だった。大本営は、アメリカの寛大な処置による日本民間人の離反を恐れ、6月30日天皇サイパン民間人の死者は軍人と同じく英霊とし、民間人の自決を奨励する勅命をだした。7月5日スーサイドクリフとバンザイクリフで多くの民間人が捕虜となることを嫌い自決した。実際には寛大な処置どころか、米軍による敗残兵日本民間人に対する残虐行為も撃されており、この撃談が過大気味に広がって米軍に対する嫌悪感や恐れを増大させ、沖縄戦では民間人が中々米軍に投降しない一因ともなり、夥しい死者を出す事に繋がっていく。大本営はサイパン玉砕の表の際に「おおむねほとんどの民間人は軍と運命をともにした」と発表し忠節をたたえた。しかし、一方で同じマリアナ諸のテニアでは第一航空艦隊角田覚治が一般市民自決め、15,000名の居留民の内で戦闘に巻き込まれて亡くなった1,500名を除く90生存米軍に投降していた。

角田中将「皆さんは民間人ですから、々軍人と一緒に玉砕する事はないのですよ」

サイパンの失陥は、日本首相であり軍令官でもあった東条英機にとって大きな打撃となり、7月18日東条内閣は倒れ、陸軍出身の小磯首相となった。しかし小磯は名ばかり首相で、いかなる軍事的意思決定への参加も大本営によって阻止された。

レイテ沖海戦

詳細→レイテ沖海戦

 1944年10月23日より始まったレイテ沖海戦は、第二次世界大戦、および世界歴史上最大の戦であった。この戦はレイ周囲の4つの異なる域にて戦われた。レイテ沖海戦戦艦同士の戦闘の行われた最後の戦いであり、特攻が行われた最初の戦いでもある。これに先立つ7月28日ハワイでの会議で、元帥キングフィリピンを放置して台湾への上陸をしたが、マッカーサー日本軍の補給路を横切るフィリピンへの進攻をした。ルーズベルトは、フィリピン攻撃での多数の人的被害を危惧したが、マッカーサーは、フィリビンと緊密な連絡をとっていたので、ニミッツワシントンの連中よりもはるかによく情報をにぎっていた。それは彼が、フィリピンで活動するゲリラ組織と、たえず接触していたからである。台湾への進攻は急進的に過ぎるため、ルーズベルトは最終的にフィリピンへの進攻を支持し、ニミッツも同意した。

 一方、日本軍連合艦隊長官豊田副武は連合軍の攻撃に備え、4つの作戦を用意した。小沢率いる機動部隊は、すでにその航空の大半を失っていたが、米軍第三艦隊をレイテからおびき寄せる、令官の栗田健男艦隊は、レイテ湾に上陸する軍を攻撃する、西村祥治の艦隊と志摩清英の艦艇は機動攻撃を行う作戦であった。作戦の結果いくつかの日本艦隊の壊滅する可性があったが、豊田は艦隊を保持しても、フィリピンを失うのでは意味がないだろうとして正当化した。10月12日戦として台湾沖航空戦を開始した。しかし日本軍は3日間で600機の航空機を失う大敗北であった。

 栗田艦隊は、大和および武蔵を含む戦艦5、巡洋艦12、駆逐艦13で構成されていた。10月23日巡洋艦二隻が潜水艦により撃沈された。10月24日シブヤンで、空母イントレピッドおよびカボットの艦載機260機が航空攻撃を開始した。第二波は武蔵を攻撃した。第三波はエンタープライズフランクリンが攻撃を行い、武蔵に11の爆弾、8の魚雷を命中させ、武蔵19時30分沈没した。

 大西治郎率いる第一航空艦隊は、ルソン空港を基地とし80機が飛び立ち、米軍空母を攻撃した。プリンストン爆撃が命中し108人が死亡し沈没、バーミンガムも戦線離脱を余儀なくされた。西村艦隊戦艦2、巡洋艦1、駆逐艦4をひきいたが、線封鎖のため、栗田艦隊と共同することができなかった。西村艦隊がスリガオ峡に達した時は午前2時で、栗田艦隊はまだシブヤンにいた。ジェシー・B・オルデンドルフ率いる第七艦隊は、西村艦隊をとらえ、十字火を加えてこれを壊滅させた。

 小沢艦隊は空母4、戦艦2、巡洋艦3、駆逐艦9、航空機108機を率いたが、10月24日午後4時40分まで連合軍に発見されなかった。午後8時豊田は残存日本軍すべてに攻撃を命じた。アメリカ第3艦隊率いるウィリアムハルゼーは日本残存機動部隊を壊滅させる好機とみて、空母9、軽空母8、戦艦6、巡洋艦17駆逐艦63航空機1000機の圧倒的戦小沢艦隊を追った。ハルゼーは小沢艦隊の陽動につられた形になった。栗田艦隊はサンベルナルジノ峡に向かい攻勢していた。25小沢艦隊は75機の航空機で攻撃を仕掛けたが米軍に撃墜された。午前8時米軍航空隊は小沢艦隊を攻撃し、瑞鶴瑞鳳千代田千歳の4空母を撃沈した。

 栗田艦隊はサンベルナルジノ峡を10月25日午前3時に通過しサマールへ向かった。待ち受けるのはトーマスキンケード率いる第7艦隊の3つのグループ(タフィー1,2,3)であった。タフィー3は護衛空母6、駆逐艦7で構成されていたが、午前6時45分に栗田艦隊がタフィー3を攻撃した時、第3艦隊と誤認した。交戦により駆逐艦2と護衛空母1を撃沈され、南に退避した。さらに大西治郎率いる神風特攻隊が護衛空母セント・ローを撃沈した。しかし9時20栗田艦隊は突然北に後退した。栗田艦隊は巡洋艦3隻を撃沈され、さらなる戦闘不可能になっていた。レイテ沖海戦は終わり、日本の艦隊の大部分が壊滅した。

フィリピン防衛戦

 フィリピンでの日本の占領政策は、過酷な強制労働と処刑、虐殺、徴発および飢饉を伴ったため、フィリピン市民反日感情は悪化の一途だった。反日感情の悪化により多くの市民がのゲリラ活動に身を投じ日本軍に抵抗したが、米軍ゲリラを最大限に利用する為、ゲリラを組織化し物資や武器を供給した。その為に、日本軍ゲリラの戦いがフィリピン全土で化し、日本軍が実質的に支配している地域はどんどん圧縮されていった。日本軍ゲリラしい戦闘の結果、ゲリラとは全く関係ない一般のフィリピン民も戦闘に巻き込まれたり、日本軍ゲリラ掃討作戦の犠牲になり用な犠牲を増させる事にもなった。

1944年10月20日ダグラス・マッカーサー率いるアメリカ第6陸軍174000人は、レイ東海とミンダナ北部に上陸を開始した。レイテ沖海戦により連合艦隊が壊滅した後も、日本軍西部オルモック湾より補給を行い、レイでの決戦を行ったが、補給はアメリカ軍により妨された。さらに12月7日アメリカ軍はオルモック湾に逆上陸を仕掛け、日本軍の補給を遮断した。数かしい戦闘が行われたが、導権は常にアメリカ軍が握った。アメリカ第6陸軍は次にルソンに対する攻撃の基地として12月15日ミンドロを攻撃した。レイテからミンドロへの第七艦隊の進攻船団は、神風特攻隊による攻撃を受けていたが、進行を遅らせることはなかった。ミンドロ日本守備軍は少なく、フィリピンゲリラによりすぐに席巻された。

 1945年1月6日からルソン西海リンガエン湾に、アメリカ海軍第7艦隊による艦砲射撃が開始され、3日間かけて日本軍地の大半を破壊した。1月9日から175000のアメリカ第6陸軍が上陸した。陸軍は1月最終週にはマニラ北西のクラーク空港に達した。2月3日アメリカ第1騎兵師団はマニラ北部郊外に達した。第14方面軍令官の山下奉文はマニラ戦場にせず防備都市として開放するという方針であったが、軍が頑強に戦にこだわったのと、大本営もマニラ放棄を認めなかったため悲惨な戦が発生した。陸軍は撤退したが、岩淵三次率いる軍陸戦隊約1万と残存兵4000はマニラに残存した。連合軍はバター半島南部へのパラシュート降下を行い、マニラへの北部、南部への進撃に続き、バター半島が確保された。2月16日コレビドールが攻撃、27日占領され、マニラ湾の入り口が遮断された。

日本軍米軍が現地人の反日感情を利用し組織化したゲリラに手を焼き、ゲリラと一般市民の明確な区別がつかないこともあり、現地人に対する怒りと不満を爆発させ、米軍下に女や子供も含む数千人のフィリピンゲリラ戦闘を行なっているとし、サンファン・デ・ディオス病院サンタローザ大学、マニラ大聖堂などで現地民間人数千人を虐殺した(マニラ虐殺虐殺人数は東京裁判での検察側)。しかしマニラ市民戦争犠牲者は10万人に上り、虐殺の全容は未だ不明である。但しマニラには上記の通り、10,000名程度の装備も劣悪な軍陸戦隊を中心とした日本軍しかおらず大量虐殺は困難なこと、またマニラ米軍による執拗な爆撃スペイン統治時代からの歴史ある建物がど破壊されるなど焦土化しており、ど(一説には90以上)が米軍爆撃の巻き添えになったと推察され、戦後に、虐殺責任をとって山下奉文大将死刑とされたのは、マッカーサーの意図をみ、日本側に大量のフィリピン市民の犠牲の責任を押し付けようとしたという摘も各方面からなされている。(大など)3月3日アメリカ軍はマニラ戦終結を宣言した。ルソンを守る日本軍25万のうち、80死亡した。

フィリピンで悲惨なにあっていた米軍捕虜も解放されたが、一度は自分らを見捨てて逃走した癖に英雄面して帰ってきた「ダグアクトダグマッカーサーに決していい思いはしておらず、解放された捕虜の間ではマッカーサーの有名な言葉「アイシャルリターン」を揶揄して「トイレに行ってくるぜ、アイシャルリターン」となどのジョークが流行っていたという。

詳細→神風特攻隊

その頃、フィリピン戦より開始された特攻は、米軍に多大な損を与え続けていた、レイテ沖海戦日本海軍を壊滅させ勝利ムード一色米海軍は特攻対策で大わらわとなったが、それでも損は減少するどころか増え続け、続く沖縄戦ではアメリカ軍は建以来最大の損を被る事となった。

アメリカ軍1945年2月28日パラワンに上陸し、セブ、パナイ、ネグロススールーを占領、さらにフィリピン要な最後のであるミンダナ4月17日上陸した。6月末に要な戦闘は終結し、8月15日日本が降伏した後は残存日本兵も降伏した。

フィリピンで最後の日本小野田寛郎が降伏するのは1974年3月9日であった。連合軍はフィリピン各地に飛行場を設置し、航空機による通商破壊を本格化して日本南方航路を封鎖した。日本は、戦艦まで輸送任務に転用して北号作戦や南号作戦を行い資輸送に努めたが、1945年3月を最後に南方航路は閉鎖に至った。日本インドネシアの油田地帯などを依然として確保していたが、シーレーンの遮断により燃料供給を断たれ、艦隊の行動はおろか航空機を飛ばすことすら難しくなった。

1945年の戦い~終戦

1945年に入ってからも、日本軍敗北が続いた。

硫黄島

 1945年2月硫黄島の戦いは、太平洋戦争においてアメリカ人の流血をもたらした戦いの一つであった。硫黄島は、東京都マリアナ諸の中間に位置しする212である。侵略軍の令官であるアメリカ海兵隊のホーランドスミス的は、を占領し、日本本土に対する襲を行うための補助基地として、利用することであった。硫黄島の守備隊の令官である栗林は、戦いに勝てないことを知っていたが、アメリカ人が堪えられないような大きな損を出すことを的とした。

 栗林は堅な地下地を構築し、1944年の初旬までに地下トンネルネットワーク化され総延長18kmにも及んだ。アメリカ海軍重巡洋艦航空機による攻撃は、若干の損を与えたが、日本軍は重火器の威の及ばないさらなる地下に潜伏した。1つの地が占領されても、それが再び再占領できるように、掩蔽壕と防御地が接続され、そのネットワークは防御側を有利とした。

 1944年6月以後、硫黄島軍の艦砲射撃と爆が行われるようになった。しかし栗林の防御策によりそれらの攻撃に耐えた。1945年2月19日アメリカ海兵隊第3,4,5師団、計3万人が、すり鉢山山麓の硫黄島の南東のに上陸した。ここはの防御地のほとんどが置かれていた。上陸後しばらくは防御側の攻撃はひかえられていた。これは上陸軍がいっぱいに展開するまで攻撃しない栗林の策略であった。そして突然、防御地より殲滅的な機関銃大砲撃の海兵隊に降り注ぎ、多くの損が出た。その日の夕方には、海兵隊西海に達したが、たった一日で2000人にも及ぶすさまじい死傷者を出した。

 2月23日、第28海兵隊連隊は、すり鉢山の頂上に達し、今でも有名な、星条旗をかかげる写真を撮影した。軍長官ジェームズフォレスタルは海兵隊の活躍をたたえた。その写真はその後もよく引用され、太平洋戦争全体を徴するようなものとなっている。2月の残りの期間、アメリカ軍は北に進出し、3月1日にはの2/3を占領していた。しかし最終的にが確保されたのは3月26日にもなってからだった。日本軍が玉砕するまでに、海兵隊6800人が死亡20000人以上の負傷者をだすなど大きな損を被り、ホーランドスミス事実上解任され、沖縄戦揮はサイモン・ボリバーバックナー・ジュニアがとることになった。日本軍20000人以上が死亡し、1083人のみが捕虜になった。この死傷者が戦略的価値に見合うものであったかどうかは、現代にいたるまで議論の対となっている。

ビルマにおける連合軍の1944年から45年にかけての攻勢

 1944年の後半と、1945年の初期、連合軍の東南アジア方面軍は、ビルマのほとんどを回復するため、5月モンスーンの始まる前に首都ラングーンに攻勢を開始した。

 インド15軍はアラカン州南西部にそって進軍し、過去2年間占領に失敗していたアキャブを占拠した。そして1945年1月21日ラムリーにおいてイギリス軍は日本軍の背後より上陸し、日本軍は多数の死傷者を出して撤退した。26日にはチェトバにもイギリス軍が上陸し、両中部ビルマ奪還への攻勢を支援するための航空基地として確立された。北部ビルマでも、中国軍は、1945年、モントゥー、ラーショーシッポーに到達し、中国軍アメリカ北部エリアコマンドは、北部ビルマでの前進を開始し、1945年1月インド中国を結ぶレド路が開通したが、終戦までの戦況に大きな影を及ぼすことはなかった。

 日本ビルマ方面軍は、イラワジの対まで撤退し、ここを防衛線として連合軍の攻撃を防ぐことを試みた(イラワジ会戦)。日本の新たなビルマ方面軍指揮官木村太郎は、連合軍がこのイラワジの障により、戦線が伸びて弱体化することを期待した。しかしイギリス第14軍のウィリアム・スリム中将は、事前にイラワジを渡河してしまい、日本軍を出し抜いた。1945年2月ウィリアム・スリム率いるイギリス第14軍は、イラワジを渡河する頭保を確保した。3月1日には第4軍団を要衝メイクテーラへ向かわせ、3月3日制圧した。日本軍メイクテーラの奪還を図り、進行・包囲している間に、第19インド軍がビルマ中部の重要都市マンダレーに突入した。日本軍は両都市で大きな損を出して敗北し撤退した。イギリス軍はいたるところから戦線を突破し、日本軍は全面崩壊した。マンダレーが失陥したところで、ビルマ民の大部分およびアウンサンが率いるビルマ民軍は日本軍に対し反旗を翻した。

 イギリス第14軍はビルマ首都かつ重要港であるラングーンに向かい、4月中に南に480㎞進軍し、4月25日にはラングーン北方64㎞のペグーに達した。ウィリアム・スリムは、日本軍ラングーンでからへと守備し、モンスーンを利用した戦により、イギリス軍が危機的状況に陥る可性を危惧し、以前物資不足のため放棄されていたラングーンを陸両方より速やかに占領するドラキュラ作戦を、1945年3月復活させた。ドラキュラ作戦季の到来前の5月1日に実行に移されたが、ラングーンはすでに放棄されていることが判明した。イギリス第14軍とラングーン占領軍は5月6日通信を確保し合流した。

 イギリス軍のラングーンへの急進撃により、退路を断たれた日本軍残党は、6月から7月季にかけてシッタンを渡る経路で脱出を試みた。イギリス軍は日本軍の計画を察知し、退路に待ち伏せや大砲をおいた。多くがシッタンを渡ろうとして溺死した。日本軍は軍の半分にせまる14000の死者を出し、イギリス軍の被害はほとんどなかった。日本軍タイへと撤退したが、一連のビルマでの戦いでの敗北で15万人以上が死亡し、1700人が捕虜となった。連合軍は日本の降伏時、マレーシアへの上陸戦の準備をしていた。

ボルネオ

 1945年のボルネオの戦いは、南西太平洋地域の要な戦いだった。レスリー・モースヘッド率いるオーストラリア軍は、トーマスキンケード率いるアメリカ第7艦隊とともに重要な役割を果たした。5月1日よりタラカンへの上陸より始まり、6月1日ラブアン等、ブルネイ湾にオーストラリアが上陸した。その1週後にオーストラリア軍は北ボルネオ日本軍を攻撃した。7月1日油田のある東海中央のパクリパパンへの上陸作戦が行われ、第二次世界大戦の最後の要な強襲上陸作戦となった。連合軍は上陸した地点を占領したが、まもなく終戦を迎えたため戦略的には大きな影はなかった。作戦は、駄な死傷者を出したとして、その後数年間オーストラリア批判された。しかし作戦オランダ領東インドにおける石油供給をもたらし、また同日本軍による劣悪な管理下にあった(サンダカン収容所やバトゥ・リンタン捕虜収容所など)連合軍捕虜を解放した。もっとも劣悪な捕虜収容所であるサンダカン収容所では、2500人のイギリスオーストラリア軍捕虜のうち、6人しか生存者がいなかった。

中国

 1945年すでに日本中国は7年以上戦争状態だった。大陸打通作戦での日本の勝利後、日本ビルマを失った。日本軍3月より河南およびに進撃し(老河口作戦)、4月に8万の軍でに進撃したが、中国アメリカ軍による制権の下、ビルマおよび昆明からのアメリカ軍より装備を支給された中国軍が到着し、しい反撃にあい27000人の死傷者を出し、撤退した(シ江作戦)。これが日本軍最後の攻勢となった。この後は日本軍は持久戦方針となり、中国軍アメリカの援助をうけながら老河口においても反撃を開始し、を奪還した。1945年8月には広西で攻勢をかけていたが終戦となった。

終戦間際に攻勢の失敗と、一部の占領地を失ったが、支那派遣軍はほぼ占領地を維持し、十分な戦も保持しながら終戦を向ける事となったため、岡村令官は「徹底抗戦に邁進す」と条件降伏に難色を示したが、中国側の配慮もあり穏便に武装解除している。

岡村大将万の精鋭健在のまま敗戦の重慶軍に条件降伏するがごときは、いかなる場合にも、絶対に承しえざるところなり」

沖縄

 アメリカ軍1945年後半の日本本土上陸作戦へむけ、B-17及びB-29爆撃機のためのの航空支援基地とするために、沖縄へ進攻した。

沖縄の第32軍は中央の作戦の変遷に翻弄されながらも、令官の全幅の信頼を受けた八原博通高級参謀が「寝技戦法」と称した、堅地による徹底した防御戦により、戦闘艦の数ではノルマンディー上陸作戦を上回る大艦隊と、55万の大兵(内上陸部隊の第10軍19万人)に対し善戦、またからはフィリピン戦で猛威を振るった特攻機が殺到し、チャーチルが「軍事史の中で最も苛で名高い戦い」と評した戦が陸で展開された。

米軍は当初30日で沖縄攻略する計画であったが、3倍の90日かかっている。特に序盤の嘉数高地での戦いと中盤のシュガーローフの戦いは、海兵隊史上硫黄島戦を戦とされ、反斜面地を活用した日本軍の防衛線に米軍は全く前進ができず。シュガーローフに至ってはわずか標高200mの台地を日で11回も奪い合った。大量に持ち込まれた日本軍の火が効果を如何なく発揮し、多数のM4中戦車が撃破された(陸軍だけで250両、海兵隊含めると400両以上)また日本軍狙撃兵シモヘイヘ並みに活躍し、米軍の尉官クラスを次々とスナイプし、米軍将兵らは日替わりで代わる中隊長小隊長を「まるでトイレットペーパーのようだ」と揶揄していた。大物では副師団長准将と連隊長大佐もスナイプで戦死しており、一説では総司令官サイモンバックナー・ジュニア中将もスナイプによる戦死と言われている(公式では96式15榴弾撃により戦死)、総司令官が戦死するのは前代未聞で、米軍史上最高位での戦死者となっている。結果的に、米軍だけで14,006名の戦死者、72,012名という第二次世界大戦中でも1回の作戦としては最大級の損失を被っている

また体的な死傷以外でも、戦闘疲労による神経症の患者が26,211名にも上ったが、この患者たちは軍を退役した後も長らく神経症に悩み、社会問題化する事となった。また軍はに特攻により、36隻撃沈368隻損傷(再起不艦多数)死傷者10,000名と、米海軍史上現在に至るまで最大の損を被る事となった。そのあまりのあまりの損アメリカ議会は驚き、軍へ説明の為の喚問を行った。またマスコミ各社は日本軍地を正攻法で攻撃し大損を被り続けるバックナーに対し「珠湾以来の無能軍事作戦」としいバッシングを続け、「スミスVsスミス事件」以来関係が冷え込んでいた軍や海兵隊バックナー作戦導の疑問を唱えたが、バックナーが戦死したことによりその個人へのバッシングはトーンダウンした。

沖縄戦の大損により、米軍内にもはや大な損失を被る事が確実の日本本土上陸は理ではないかという流れを作る事となった。

ニミッツカミカゼからく解放されたい(必死)とっとと進軍しないとお前バックナー)をクビにするぞ」

一方日本軍も、正規軍7万名 現地召集兵3万名 住民は9万名~15万名が命を落とす悲劇となった。その膨大な人的損失と、特攻機1,900機を含めた4,000機もの航空機を失なうなどの戦の大量損失は、天皇首相期講和の決心を促す事ともなった。

極限の中で、住民による集団自決や、久米島事件の様にスパイ容疑を着せられて日本軍に殺された住民もいた。人数はさだかではないが、一部の研究者の中には合計で1,000名をすとする者もいる。しかし残りの99以上は米軍差別爆撃の犠牲者である。日本軍米軍侵攻前に沖縄住民を本土や台湾に疎開させようとしたが、対馬丸の悲劇の様に米軍差別潜水艦作戦の前に頓挫する事となった。(対馬丸を撃沈した潜水艦ボーフィンは殊勲艦として珠湾に展示されている)それでも官民挙げた努の結果、8万人以上の住民(に老人・婦女子)が疎開に成功している。米軍上陸後は当初の軍や沖縄県の方針通り、沖縄本島北部に避難した住民は大半が生存したが、に食糧の問題で軍や行政と動きを共にし南部に集まっていた住民に夥しい死者が出る事となった。軍に避難民を保護する余裕はなく、一部では日本兵が住民を洞から追い出したり食糧を奪ったりといった言も残されている。また太平洋上の他の戦場で見られたと同様に、米軍兵士婦女子を虜辱し殺したり、戦闘不能日本兵や住民を面半分に虐殺していたという言も数多く残っている。

凄惨な戦闘の中で、島田叡沖縄県知事や荒井退造警察本部長沖縄行政府職員らは、最後まで沖縄県民の保護に尽し殉職している。特に、沖縄米軍侵攻が見込まれる中、もが込みした沖縄県知事の任を、家族や周囲の反対を押し切って受けた島田知事の評価は今日においても非常に高く、野球愛し島田知事に因んで、沖縄県高校野球大会優勝校には島田杯が授与されている。

島田知事「かが行かなければならないなら私が行く、私が死にたくないから他の人に行ってくれとは言えない」

沖縄は結局日本本土上陸作戦の前線基地となることなく日本条件降伏したが、その後米軍の占領下が長く続き、返還後も米軍基地が多く残存する事となり、現在沖縄問題のきっかけとなっている。

本土空襲

B-29 陸軍航空ヘンリー・アーノルドは、日本本土をドイツと同様に大規模な戦略爆撃し、戦争遂行を失わせ屈させる事を計画。新の大爆撃機B-29を対日戦専用に運用する事を決め、対日爆撃部隊となる第20軍を設立した。当初は中国本土から出撃していたが、さすがのB-29でも中国国民党圏化からの出撃では九州攻撃がやっとであることや、第20軍隷下の実戦部隊第20爆撃機集団ヘイウッド・ハンセル軍事拠点や生産拠点への高高度爆撃に拘った事から成果は上がらず、アーノルドハンセルを更迭し、カーチス・ルメイを、日本軍から奪取したマリアナに新設した第21爆撃機集団(第20爆撃機集団は第21爆撃機集団へ合流)の令に任命した。ルメイは前任者ハンセルの方針であった高高度からの生産施設や軍事基地に対する爆撃では手ぬるいと考え、自らが前任地のドイツ戦略爆撃で行った地への差別爆撃による一般市民の大量虐殺が最も効果的であるとし、1945年3月深夜東京の人口密集地に低からの差別爆撃を命じた。ルメイの思惑は的中し、東京襲では起こった火災旋により、10万人が死亡した他、日本の76都市に対する爆撃により夥しい数の一般市民虐殺され、爆の死者24万1309人以上、を失ったもの804万人に及んだ。日本に大量に投下された爆弾日本屋を焼き払う為に開発された焼夷弾M69であったが、これは成分油脂の小さな焼夷弾が現在で言うクラスター爆弾の様に降り注ぐ極悪仕様であり、日本が考えていた襲対策(バケツリレーなど)ではとても太刀打ちできるものではなく、消防市民らによる消火は困難であり被害を拡大させた。

同時に、空母から出撃した艦載戦闘機硫黄島から出撃した陸軍戦闘機が面半分に一般市民を機掃射しており、「湯のトンネル事件」や「紫駅事件」など多数の死傷者が出ている。石原慎太郎松本零士といった有名人子供の頃に機掃射を浴びあやうく死にかけた経験をしていたり、手塚治虫が自身の戦争体験を描いた短編マンガカノン」では教師や友人が機掃射で残に死ぬ姿が描かれている。米軍による差別の機掃射の様子はガンカメラに撮影されて現在でも見る事ができる。

戦争化により成年男子の徴兵強化で労働不足に陥っていた日本は、これを補うために1943民徴用令の正によって、多数の学生、婦人、朝鮮人中国人、捕虜、そして刑務所の囚人を労働として動員した。その人数は336万3000人の婦人、200万の学生に加え、323000人の朝鮮人、3万4000人の中国人も、戦時労働者として日本に連れてこられた。しかし襲の化と民心の離反により生産性は低下の一途をたどり、1945年5月には稼働率は40も低下した。また、1944年12月に発生した東南海地震1945年1月に発生した三河地震航空機産業の工場の多くが破壊され、生産性低下に拍をかけている。日本1944年に最高となる28,180機の航空機を生産していたが、1945年終戦までに8,263機しか生産できなかった。

日本周辺の機封鎖作戦である飢餓作戦は、アメリカ陸軍運航空軍により実行され、日本沿航路も麻痺させ、漁業を困難にさせた。襲と上封鎖と生産性の著しい低下により日本戦争遂行が困難となっていった。

余談であるが、ルメイ戦後航空自衛隊の設立に貢献あったとして、勲一等日章の叙勲が行われている。当時の佐藤栄作内閣の決定で強行されたが、民からは非難が集中し、本来なら勲一等が天皇自ら親授されるのが恒例であるが、それもなされなかった。その後ルメイ軍参謀総長に昇進したが、キューバ危機の際にジョン・F・ケネディ大統領キューバ本土への爆を詰め寄ったり、ベトナム戦争では北爆を推進し「ベトナムを石器時代に戻してやる」と今なおネタとしてり継がれる名言を残している。

 1945年7月26日アメリカ大統領ハリー・トルーマンイギリス首相ウィンストン・チャーチル中国国民党政府蒋介石は、日本への降伏の条件を提示するポツダム宣言を提言した。この最後通告には、日本が降伏しなかった場合、連合軍により日本国速かつ全なる破壊に直面するだろうことが盛り込まれていた。

原爆

 1946年8月6日アメリカB-29爆撃機エノラ・ゲイは、西日本全体を統括する第二総軍の令部(広島)が置かれていた「軍都」である広島原子爆弾を投下し、2万人以上の軍人を含む7万人が同日に死亡し、年末までに14万人が死亡した。8月9日長崎原爆が投下され、年末までに3万9000人~8万人が死亡した。さらに放射能の影などによる悪性腫瘍等により1950-2000年にかけて1900人が死亡した。原爆の投下が、特に天皇断を通し、日本の降伏に重大な影を与えたのは間違いない。しかし上封鎖と爆、飢餓作戦継続していくことで、いずれの日にか降伏がもたらされ、原爆は不要であったとの議論も続けられている。反論としては、日本の降伏がなされず、あるいは遅延してダウンフォー作戦が実行されると、連合軍兵士日本の一般市民の間で非常に大きな犠牲(数万人から2000万人の死者)がもたらされることが予測されること、またソ連参戦についても、ソ連軍は北海道への進攻への艦船が不足していたことから、日本を降伏させることはできなかった可性を摘している。

満州へのソ連の侵攻

 1945年2月3日のヤルタ会談にて、ソ連スターリンは、日ソ中立条約を破棄し、ヨーロッパ終戦90日以内に太平洋戦線に参加することでルーズベルトと合意した。終戦後、100万以上のソ連軍がヨーロッパから転送された。日本関東軍はシベリア鉄道でのソ連の輸送を過小評価しており、8月の終わりまで十分な戦はなく、攻撃は1945年以降から1946年と考えていた。1945年8月9日に始まったソ連の対日参戦と満州国との戦いは、日本軍しい抵抗にもかかわらずソ連軍が圧倒し、大陸におけるソ連内モンゴル北朝鮮満州と南樺太千島列島における権益をもたらし、関東軍の急速な敗北日本の降伏における重要な因子であることが摘されている。8月15日玉音放送では、「降伏」の文言が使われなかったことより混乱をもたらし、関東軍のしい抵抗が続き、ソ連軍は抵抗が強い部位を避け進撃をつづけ、8月20日満州国皇帝溥儀はソ連赤軍により捕獲された。停戦命令は最終的に関東軍に伝えられたが、ソ連はすでに満州をほぼ制圧していた。

日本の降伏

 日本の非軍事政治家は、くも1943年に日本軍敗北を予測し、停戦と降伏を模索していたが、さまざまな理由のために、いずれの取り組みも失敗した。また和を口にしたものは、軍部によってただちに殺されるという空気が支配していた。満州への攻撃と、広島長崎への原爆は、日本政治デッドロックを解除して日本導者に強制的に降伏を受け入れさせた。

 過去2年間の敗北の連続から迎えた1945年フィリピン決戦敗北をうけ、小磯昭は重慶政府との単独講和をしたが(繆斌工作)、外務大臣重および昭和天皇の反対で頓挫した。この失敗を受け、小磯内閣は総辞職した。この間も硫黄島の玉砕、イラワジ会戦の敗北など、戦況は悪化をつづけた。4月7日鈴木貫太郎内閣が成立した。その後もドイツの降伏、沖縄戦敗北、連合軍の通商破壊、飢餓作戦、戦略爆撃により状況は悪化の一途であり、連合軍の本土上陸が差し迫っていた。連合軍の進攻を止める最後の試みとして、本土決戦計画である決号作戦が立案された。特攻や回天、震洋、桜花などの特攻兵器を駆使し、総計10㎞の地下壕からなる代大本営に、天皇を移し徹底抗戦する計画である。

 当時の日本の政策決定は、最高戦争会議が行っていた。1945年6月6日鈴木内閣で初めての最高戦争会議が行われ、首相鈴木貫太郎、外務大臣:東郷茂徳、陸軍大臣:阿南惟幾、軍大臣:政、参謀総長代理:河辺虎四郎、軍令部総長:豊田副武の6人が出席した。河辺陸軍参謀次長が高に本土決戦し、東郷外務大臣が即時講和と反論し論が交わされたが、鈴木首相内海相は沈黙し会議の流れを聞いていた。鈴木首相終戦を考えていたが、今の時点では機が熟しておらず、陸軍が暴発する危険があること(鈴木首相自身も226事件で撃で瀕死の重傷を負っている)また陸軍大臣が辞任を言い出す懸念あり、そうなれば内閣総辞職をせねばならなくなり、昭和天皇よりの信任により首相に就任したのにその責任が果たせなくなることから、最終的に鈴木首相戦争継続を容認せざるを得ず「今後採るべき戦争導の基本大綱」が決定された。

沖縄戦の趨勢が決するまでは、昭和天皇鈴木首相も、基本的には陸軍と同じ「一撃講和義」であった。これは、日本軍の総を結集した決戦で、連合軍に打撃を与えたうえで有利な講和を持ち出すという考え方で、日露戦争における、全体的な着状態において日本海戦の決定的勝利で講和できた経験に基づいていた。この考えに基づいて1945年2月近衛麿の和上奏文でも、昭和天皇は「もう一度戦果をあげてからでないと難しい」と答えている。その後に、沖縄戦での第32軍の総攻撃失敗による戦局の悪化や、従武官などより軍の実情を聞かされていた昭和天皇は一撃講和は理という認識となり、それは鈴木首相も同じであった。

鈴木首相は、戦争継続という方針で陸軍を安心させる一方で、東郷外相とソ連を通じた和工作を提案、陸軍もソ連であればと渋々この提案を受け入れたが、ソ連との交渉を示された独ソ戦の状況を知る駐ソ大使佐藤に一笑に付されている。1945年4月5日に日ソ中立条約はソ連側より更新しないとの通告があり、1年後に効を失う予定であったが、日本政府は引き続き、佐藤大使に交渉の継続と関係善の維持を示した。和は他にも様々なルートで講和条件を模索していたが、陸軍の反対によりスイススウェーデンの仲介は妨され、下村務相は英との直接交渉をしたが視され、日本政府はソ連を仲介した和交渉を行うこととせざるを得なくなっていた。

 ソ連駐在の日本大使佐藤尚武は、既に戦争の大勢は決まった以上、ソ連が仲介の役に立たず、終戦を促す機密電報を送った。しかし上記の通り、会議の結果、東郷外相がソ連に交渉を打診することになった。更に6月9日内大臣の木戸幸一は年末までに日本の交戦は消滅するとし、名誉ある和める木戸試案を出し、会議にも受け入れられた。6月には、天皇は、沖縄戦敗北関東軍および本土軍の状況より軍事勝利を断念し、22日閣僚に早急な和模索をめ、会議ソ連の仲介による有条件で和交渉をめざすこと同意した。6月24日広田は駐日ソ連大使マリクと会談したが、マリクは具体的提案の必要性を述べた。東郷外相は駐ソ大使佐藤尚武に、近衛麿を特使とした特使派遣ソ連外相モロトフに要請するよう訓令した、しかし7月18日日本側からの具体的提言のない、使命の不明確な特使派遣は、ソ連により拒絶された。その時既に、ヤルタの密約によりソ連の参戦は決まっており、スターリンよりモロトフに対し日本をあやし時間稼ぎを行うように示が出ており、ソ連は最初からまともに対応する気はなかった。その事情を知らない佐藤は具体的な条件を欠いた特使派遣の依頼ではソ連を動かすことはできないとして、条件降伏に近い和しかないという電報を送った。しかし会議は具体的条件を提示することができず、特使がモスクワソ連と交渉するまで決定を延ばすこととし、佐藤は東郷外相の訓令により再度特使派遣を申し入れた。しかし佐藤8月8日ようやく実現した会見の席で、モロトフから対日宣戦布告を通知されることになる。

 1945年4月12日に急死したルーズベルトの後を受け、ハリー・S・トルーマンアメリカ大統領に就任した。マンハッタン計画で、1945年7月16日トリニティ実験が成功した。7月16日よりアメリカソ連イギリス欧州情勢をとしたポツダム会談を行い、日本との戦争についても議論された。トルーマン終戦のため連合の受け入れ得る条件を提示する和提案をすることを提言し、英も同意し調整した。7月26日、トルーマンチャーチル蒋介石の名で降伏条件を示す最後通牒であるポツダム宣言が発せられた。これ以外の日本の選択は、速やかにして全な破壊あるのみと明言されていた。これを受け、東郷外相は、軍のみの条件降伏で日本国に対しては実質的な緩和された有条件降伏であり、日本が宣言を拒否する意図を表明してならないと強調し、上奏を受けた天皇も受け入れ可であるとした。しかし豊田軍令部総長ははっきりとした拒否をするようした。28日の最高統帥部連絡会議ではポツダム宣言を断固拒否すべきだとの軍のがとおり、鈴木首相ポツダム宣言視するという趣旨の発表をするよう要し、鈴木首相ポツダム宣言「黙殺」発言となった。東郷外相はソ連との和交渉に託したが、佐藤駐ソ大使7月30日ソ連の対日参戦を防ぐには即時条件降伏しかないと返信した。

原爆 8月6日広島原爆が投下された。東郷外相はポツダム宣言を直ちに受諾するよう進言し、最高戦争会議の緊急開催を要望したが、一部の構成員が出席できないとの理由で延期になった。日本軍原爆の開発を行っていたことから、それが困難であることは十分理解しており、当初はアメリカ原爆を使ったことを認めることを拒否したが、東郷外相は軍を追及し、軍も認めざるを得なくなった。豊田軍令部総長はアメリカ原爆があっても一つだけだろうとしたが、アメリカはそのような反応も予測しており、第二の原爆の投下を計画していた。8月9日午前4時ソ連が日ソ中立条約を破棄し対日宣戦布告を行い、満州へ進攻した。小磯の前例に倣えばここで総辞職だが、鈴木首相にとどまった。このツインショックを受けての8月9日の最高戦争会議では、鈴木首相と東郷外相は降伏をした。しかし軍は戦犯、武装解除、占領の3項に条件を付けるべきとした。梅津参謀総長ら陸軍幹部は、第二の原爆投下はないだろうと発言し、継戦が可だとした。しかし議論を費やしている会議中に、長崎原爆が投下された。長崎原爆後、トルーマンは降伏を促す明を発表した。降伏がなければ、8月19日に第3の原爆が投下される予定だった。阿南陸相はじめ豊田梅津はなおも抗戦をしたが、内海相は降伏に同意し、3対3に意見が割れた。会議は意見が一致せず、9日午後の閣議でも何も決められず、深夜に御前会議が行われた。天皇は東郷外相に同意し、8月10日国体保持を条件にポツダム宣言の受諾がスイススウェーデンを通じて伝達された。英中ソは協議を行い、天皇および国家統治の権限は連合最高令官の制限下に置かれる、武装解除や速やかな捕虜の返還等を要望、政体日本国民の自由に表明された意志によって決定される、等回答し、日本の返答を待った。しかし、その間も全で陸軍航空隊と艦載機によるしい襲が行われ、多くの日本国民が犠牲となっている。梅津参謀総長と豊田軍令部総長はなおも天皇に回答を断固拒否すべきだと上奏し、陸軍将校は御前会議阻止しようと首や皇族を訪問したが芳しくなく、和を打倒するため武行使する計画を作成した。阿南陸相は条件付き会議は紛糾した。米軍は、ポツダム宣言受諾の秘密の和交渉が行われていることが書かれたビラを東京やその他諸都市に散布した。14日鈴木木戸は軍の反対を押し切り緊急御前会議を開催し、ポツダム宣言の受諾が決まった。同日深夜ポツダム宣言受諾が英中ソに通告された。

 14日の阿南梅津は陸軍で降伏決定を知らせ、翌日阿南自決した。ポツダム宣言には日本軍条件降伏という項があり、陸軍は組織存亡の危機に立っていたため、徹底抗戦していた多数の陸軍将校からしい反発が起きた。15日未明一部の陸軍将校は宮殿を占拠し、NHKラジオ局を占拠ようとしし、ポツダム宣言受諾を妨するクーデターを起こしたが失敗した宮城事件)。15日正午玉音放送が行われた。その後も愛宕山事件、厚木航空隊事件、川口放送所占拠事件、江騒擾事件などの降伏に反対する反乱がおきたがすべて鎮圧された。終戦書を視し、11機を率いて特攻を行った。8月18日米軍のB-32による偵察が紫電改零戦に襲われ1人が死亡した。しかし大規模な反乱はなく降伏が受け入れられた。8月30日ダグラスマッカーサー厚木に到着し、9月2日戦艦ミズーリの艦上で降伏文書が調印され、東南アジアでは9月12日シンガポールで調印された。日本は連合軍に占領され、外地の540万の日本軍人と、180万の民間人は連合軍の捕虜となったが、順次帰還した。一部の日本兵は降伏を拒否し、残留日本兵となった。1952年4月28日日本独立を回復した。

戦争犯罪

戦争において、戦争犯罪は、各軍においてはつきものである。日本ドイツなどの枢軸国はもちろん、イギリスソ連アメリカなどの連合においても戦争犯罪がさまざまに存在する。一方、枢軸国でもイタリアでは戦争犯罪はそれほど行っていなかった(行う暇がなかった)。

平和に対する罪

ハーグ陸戦条約では、開戦に対し、宣戦布告、あるいは条件付き開戦宣言を含む最後通牒による事前の通告を定めていてる。

捕虜の虐待

戦争捕虜は、武衝突の時あるいは直後に、交戦中の軍人あるいは民間人(1949年まで)を拘束したもので、当時の捕虜の処遇に対する際法としては

  1. ハ-グ条約「陸戦の法規慣例に関する条約」付属の「陸戦の法規慣例に関する規則」
  2. ジュネ-ヴ条約「俘虜の待遇に関する条約」

があり、このうちジュネーブ条約はソ連は署名しておらず、日本は署名をしたものの軍の反対で批准をしていなかった。

太平洋戦争中の捕虜(日本側の統計)

  
捕虜
死亡
41,440
不明(西側2%中国24%?)
21,580
7,107
32.9%
50,016
12,433
24.8%
21,726
7,412
34.1%
37,000
8,500
22.9%
25-40万?(データなし)
不明(データなし)
枢軸国
連合国

 連合軍の捕虜となった日本軍はジュネーブ条約にのっとり扱われたとされているが、実際連合軍は日本人捕虜を余り捕りたがらなかった。人種的偏見、特にオーストラリア白豪主義土近くまで攻めてきた復讐心にかられ、日本軍の残虐行為(オーストラリアでは1942年2月アンボンの進攻で、日本軍が捕虜200人を処刑している。)などによる敵愾心と兵の撃ちたがりで、捕虜となる前に殺することが多かった(ビスマルク戦など)。また日本軍の死体の損壊も行った。日本兵の頭蓋を記念品として本の女にプレゼントした兵もおり、タイム誌に記事として掲載されたが、それをドイツ経由で知った日本政府はアメリカに対し外交ルートを通じ抗議している。日本兵の死体の一部を戦利品として持ち帰ったり、内に送付するのが流行しており、ルーズベルト大統領日本兵ので作られたペンが送られたこともあった。またこの時に大量に送られた日本兵の遺や遺や遺体の一部で作られた文具などが米国内に現在でも大量に残っており、博物館ネット等で見ることが出来る。

大西洋を単独初飛行したチャールズリンドバーグは、陸軍航空パイロットとしてニューギニア軍による日本兵捕虜虐殺の場面を何回も撃している。特にマッカーサー揮する西太平洋方面軍による日本兵への虐待行為が酷く、英軍従軍記者戦場で取材中に手を挙げ明確に降伏の意志を表したり、重傷で抵抗できない日本兵を残らず殺するのを撃している。また、オーストラリア軍の演習場では日本軍が手を挙げたら即射殺せよという導がなされていたという言もある。ガダルカナルではジャングルに残された日本軍敗残兵を訓練と称して、戦闘力を失った傷病兵に至るまで殺戮していたと言われている。また戦地となったサイパンでは、敗残兵や居留民の老人・女性子供を一か所に集めガソリンをまいて焼き殺したり、多くの婦女子強姦し殺しているとこの言もある。その米軍の暴虐から逃れる為に多くの居留民が自ら命を絶った。他にも同様な言が日兵士や従軍記者等より大量に残されている。戦勝である連合軍の戦争犯罪はまともに調もされることはい為に詳細は不明であるが、大量の捕虜もしくは戦闘不能日本兵が虐殺されたものと推定されている。

令官ブレイミー元帥「ジャップはと人間の間の奇妙な生物で人間ではない害獣である」

また、一方で、日本捕虜が少なかったのは、日本軍が戦訓により降伏を禁じられ、捕虜となることをきわめて嫌ったため、降伏が極めて少なかったためでもある(集団降伏が少なく1945年永事件42人が最高、一度に捕虜になった数では丸事件の1,500人)。もっとも、どの程度玉砕したのか、虐殺されたのか知る術はない。ノモンハン事件では、ソ連より返還された捕虜159人は自殺を強要された。初期の数少ない捕虜は、捕虜になったことを恥とし、地元での社会的迫をなによりもに恐れ、本政府や地元に捕虜になったことを伝えないように懇願し、そのためには軍事機密や地の場所や弱点を教えるなど敵軍に協することもいとわなかった。日本政府も捕虜がいることを公式に否定し、家族にその情報を伝えることを拒否した。捕虜となることをよしとしていなかった日本兵は各地で脱走や、暴動を起こし、19432月25日にはフェザーストン収容所で250人の日本捕虜が労務拒否の暴動を起こし、1人の看守を連れに48人が死亡した。1944年8月4日にカウラ収容所で脱走事件が起き、看守4人を連れに231人が死亡した。ただ捕虜が脱走を図るのは、各軍兵士が捕虜になった際の任務とされ、そのエピソードを元に作られたのが有名な映画「大脱走」である。

 連合軍も対策を取り、兵に捕虜をとることで情報が得られ損が減らせるメリットを兵卒に周知し、捕虜を親切に扱い、多くの情報を得て実際に戦闘に役立てた。日本側も対策を取り、1944年ごろより新聞・ラジオ等で「鬼畜英」を喧伝し、米軍に捕まると容赦なく殺されると宣伝した。サイパンではガダルカナル民間邦人が虐殺されたと宣伝されて民間人降伏の障の一因となっていた(ちなみにガダルカナル民間人はいなかった)。連合軍も優遇した捕虜にビラを書かせ、拡器で話させ、戦友を投降に勧誘させるなど連合軍による虐待を否定するなどの対策を取り、1945年には捕虜となるものが増え、最終的には他の交戦国と遜色ない人数となった。終戦後には、500万をえる軍、民間人が連合軍の捕虜となった。

日本人捕虜の死亡率

赤十字船撃沈

  • アメリカ
    • ぶゑのすあいれす丸撃沈病院船として外交手続を踏み各に通知の上、大きな十字のマークを船のいたるところに塗装していたぶゑのすあいれす丸を、アメリカ軍襲により撃沈。多くの傷病兵と従軍看護婦に投げ出されたが、米軍機は漂流する従軍看護婦らに執拗に機掃射まで加えて174名が死亡する悲劇となった。日本政府による抗議に対してアメリカは「良く見えなかった」とか「十字の塗装が拙かった」とか言い訳にならない言い訳をのらりくらりと続けて結局謝罪も補償もなされなかった
    • 波丸撃沈、同じく十字病院船であった波丸は、傷病兵を輸送する傍らで軍事物資も積載していた。(一説には北京原人の化石も積載されてたという)それを知った米軍潜水艦「クィーンフィッシュ」は令部に撃沈の許可めるが、令部が結論を出す前にクィーンフィッシュの艦長は攻撃を命令し、波丸は撃沈され傷病兵ら2,000人が溺死した。クィーンフィッシュは周囲に他の日本軍艦艇もおらず危険がかったにも関わらず、救助活動を積極的に行わなかった為、たった1名のみ救助したに止まった。違反していたからといって即撃沈していいという決まりはなく(米軍暗号解読していたが、この時点ではあくまでも“疑い”に過ぎず、同様のケースであった「丸」の様に臨検する必要あり)クィーンフィッシュの艦長は軍法会議で有罪となった上、今回はアメリカも非を認め、日本に謝罪し戦後日本政府を通じ遺族に補償を行っている。

民間人虐殺

強制労働

管理下の飢餓

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読み:タイヘイヨウセンソウ
初版作成日: 08/11/12 20:01 ◆ 最終更新日: 17/05/05 07:07
編集内容についての説明/コメント: ノモンハン事件の内容を追加。
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太平洋戦争について語るスレ

157 : ななしのよっしん :2017/09/30(土) 17:36:18 ID: 9eGJB4y6GU
>>156
意味なら大いにあっただろ。
大日本帝国の分不相応な帝国義から抜け出し、アメリカという巨大な支援者を得て急速な成長を果たすと同時、米国の抑止によってソ連の脅威を大きく減じることができた。
これはアメリカに喧を売らなきゃ得られなかったものだよ。当初想定とは全然違う方法だが、日本はあの戦争で多大な利益を得たと言って良い。

まぁ意味があろうがなかろうが戦争はダメだと思うけども。
158 : ななしのよっしん :2017/10/28(土) 14:20:56 ID: VxmJljZ4q6
意味に死んでいったからこそ、これからそれを意味のあるものにしなきゃいけないんだろ
159 : ななしのよっしん :2017/10/29(日) 12:50:45 ID: 2s2OhWmsEv
>>157
それなら最初からペリーが来た時にアメリカの属になればよかったじゃん
160 : ななしのよっしん :2017/10/29(日) 12:58:01 ID: w5/xh/hVds
おさらいだけど弾や特攻や沈没で死んだ人よりか、
戦地に行く前に意味なシゴキで殺されたり、
無能令官の意味な行軍で疫病や飢えで死んだ人の方がかに多い
天皇陛下赤子という建前なのにこの扱いだからな
原爆投下もダウンフォー作戦も必要ない、勝手に自滅しただろこのクソ民族
161 : ななしのよっしん :2017/11/04(土) 13:21:18 ID: XmYI9TAY6x
>>157
アメリカ日本戦争は両上層部の「合意事項」。
米国内でもラルフタウンゼントのような人物が投されている事からもあの戦争自体が既定路線であった事が伺える
タウンゼントについても中国人本質はかなり見抜けていたようだが日そのものが朝鮮儒学の成果物であり短期での崩壊を前提とした祭国家事であった事までは洞察出来なかったと見える
其の辺りは極東に生きる者でなければ理解は難しいので仕方ないが
何にせよ、何時の世も表で平和を唱える者達が裏で戦争導しているのが世の仕組みという事には変わりない。そうして己の身に業を深く刻んでいっているのだが
162 : ななしのよっしん :2018/01/27(土) 21:26:30 ID: JIGKbxw1S3
>>161
アメリカ大日本帝国と違って公文書に交渉決裂ヤッターバンザイ!みたいなのは残してないんですがそれは。
少なくともアメリカはズルズルと交渉を引き伸ばしたいという意思は一貫してたと思うぞ。
ラルフタウンゼントの投を過大評価しすぎ。
163 : ななしのよっしん :2018/02/21(水) 00:06:40 ID: 1HFM24TQj2
>>159
それやってたら、今は中国ロシアの一部だったと思うぞ?
しかも、日本列島日本人はいない状態で。
アメリカ中国ロシアべてまとも。って思ってる人多いと思うけど、戦前アメリカなんて大差いよ。
164 : ななしのよっしん :2018/04/02(月) 22:58:20 ID: T1/Y+y+M8f
>ラルフタウンゼント
保守系が都合の良い事しか書いてない日本語wikiしか見てないようなのが過大評価してるんだろうけど、
英語版wiki位見てくれって話だがな。のっけから
外国人エージェント登録法に違反し、日本紐付きの宣伝機関からカネ貰ってたのにそれを申告せずに
日本を擁護する発言をしたから」って書いてあるんだが。ぶっちゃけ日本のロビイストだよあの人
(むしろ日本も一応こういう工作をやれていたことが逆にちょっと安心したが)

言論弾圧も何も外エージェント登録法に則れば、
エージェント申告さえすれば敵国にカネ貰っても敵国擁護発言すら一応許されるのに
ラルフタウンゼントのような人物が投されている事からも」とか何言ってんの?としか。

当時の日本タウンゼントみたいな真似すれば防保安法違反で死刑まであるぞ?
165 : ななしのよっしん :2018/04/05(木) 19:59:28 ID: 2wGu/5RF0q
日本語wikiネトウヨに汚染されてるからな。
戦前の大本営発表そのものだわな。ねつ造、自己弁護、虚偽報告のオンパレード
あんなのに騙されるのは今の時代ネトウヨ国司様くらいだ。
166 : ななしのよっしん :2018/04/12(木) 21:58:43 ID: PSGykwAgNQ
予備知識しであんなの読まされたらネトウヨ大量発生も仕方
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