加波山鉄道とは、茨城県で計画された未成線、及びその事業者である。
1924年8月、三村(現在の石岡市)の海東惣一郎らにより、恋瀬川沿岸軌道を創立し常磐線の高浜駅から柿岡を結ぶ鉄道を敷設する計画が立てられる。この会社は設立後に柿岡鉄道に社名を変更した。
常磐線から分岐して柿岡に至る鉄道計画は同時期にもう一つ、石岡駅から柿岡を結ぶ柿岡軌道が存在していた。1925年3月に鉄道省から派遣された技師によって現地調査が行われ、加波山の花崗岩生産にかかる鉄道の輸送力が見込めるとして柿岡鉄道に軍配が上がる事となった。
加波山は優良な花崗岩の産地であり、関東大震災で被災した東京や横浜の復興の為に多くの花崗岩が必要とされていた事も背景にあったと言う。
距離は15.2kmで軌間は1067mmとなっている。
高浜駅から柿岡まで恋瀬川沿いを進む計画だったがこれに留まらずに延伸も構想されており、前述の区間を第1期線とし、第2期線で柿岡から大増までを結び、第3期線で大増から水戸線まで接続しようとしていた。終点の水戸線側の駅は資料によって稲田駅だったり福原駅だったりしている。
当時の高浜は常磐線の開通に加えて水運が発達しており、石材や木材等の生産品の東京への輸送を計画していたらしい。
また、全通した際には沿線に多く存在する親鸞聖人の縁の地が鉄道で結ばれる事となり、参拝客の運搬と言った活用も視野に入れていたとの事。
ちなみに常磐線と水戸線の駅を結ぶ路線としては他に常総線や筑波線と言う例があり、本路線はそれらより小回りなルートとなっている。
1926年5月、柿岡鉄道は加波山鉄道に社名を変更し、発起人13名の追加が行われつつ、金融上の理由で農家収穫期を待つとして認可申請の延期を申し出る。そうした事が原因なのか翌月には高浜の住民を中心に36名もの発起人が脱退してしまう。
同年11月には計画路線の経路では地盤が軟弱であるのに加え、恋瀬川の水害を被ってしまう事を理由に路線の変更を申し出た。変更後の経路の詳細は不明だが高浜駅周辺の区間が常磐線に並行する形になっていたようだ。
1927年には高浜から垣岡までの工事施工が認可されるが、認可は「高浜停車場連絡設計を除き」となっているなど雲行きの怪しさが伺える。竣工期限は1927年3月15日となっていたが用地の買収交渉が難航し、1927年2月に工事竣工期限延期申請を行い、1931年の竣工を目指すとした。
しかし、工事を進めるも地盤は軟弱で、雨が降る度に土盛が崩れるて苦情を受けるなど散々であった。
1927年9月には那珂川の増水による水害に見舞われ高浜駅周辺も大きな被害を受ける。工費削減の為に起点を石岡駅に変更し、再度の工事竣工期限の延長を行おうとした。
高浜駅周辺の難工事に加え水害を受けて住民から加波山鉄道には到底困難な付帯工事を求められるなど、高浜駅を起点とした計画は行き詰まりを見せていた。起点を石岡駅に変更する事で距離を2.5km程短縮出来るのに加え、常磐線の速達列車や鹿島参宮鉄道、水戸電気鉄道との直接連絡を目論んだが、その結果、測量や設計に更に時間を費やしてしまう事となった。
この申請は鉄道省から却下されてしまい、1930年6月30日、加波山鉄道は土浦区裁判所から破産宣告を受けた。
線路敷跡の一部は石岡市内の根小屋から柿岡を結ぶ石岡市道B7363号線となり、地元住民からは「汽車道」と呼ばれ親しまれている。2km以上の直線の線形は鉄道路線らしさの鱗片を残す。
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最終更新:2024/05/04(土) 16:00
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