少弐経資(1229~1292)とは、鎌倉時代に活躍した武将である。
概要
1275年ごろから少弐資能より筑前・肥前・豊前・対馬・壱岐国の三前二島の守護職を譲られ、また太宰少弐も兼ねた。二度にわたる蒙古襲来においても指揮を執り、1276年に予定していた異国討伐計画でも指揮官に推されていたほどの人物である。元軍の再来に備え、石築地の築造や警固番役の統括を行うなど、異国警護体制をまとめていった。
1284年の北条時宗の死を受け出家。法名は浄恵となった。さらに同年には大友頼泰、安達盛宗らとともに鎮西特殊合議制訴訟機関の合奉行となり、1286年には大友頼泰、宇都宮通房、渋谷重郷らと鎮西談義所の頭人に任じられ、鎮西の訴訟も担当することとなった。これに加え1288年~1290年までに二回にわたり九州の御家人の恩賞問題に大友頼泰とともに当たり、生涯の多くをモンゴル問題に費やされたのである。
その一方で、1285年に霜月騒動の余波を受け、平頼綱派に安達盛宗が博多で討たれると、弟の少弐景資は安達派につき岩門合戦で衝突。この惣庶間対立は最終的に景資が自害して決着がつくが、恩賞問題に悩んでいた幕府は景資の没収所領をこれに充て、少弐氏全体の勢力が減退することとなった。さらに筑後・豊前・肥前・肥後の守護も奪われ北条氏の鎮西支配の強化が行われたのであった。
関連項目
- 日本史の人物一覧
- 少弐盛経
- 少弐時経
- 少弐盛氏
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