有栖川宮熾仁親王(1835~1895)とは、幕末に活躍した皇族である。
概要
有栖川宮幟仁親王の第1王子で、幼名は歓宮。朝幕のトップが公武合体路線を進めたため、徳川家茂に婚約者であった和宮を奪われたことで有名な人。
嘉永元年(1848年)に仁孝天皇の猶子となり、嘉永2年(1849年)に親王宣下。嘉永4年(1851年)に仁孝天皇の妹・和宮と婚約する。安政5年(1858年)の条約勅許問題では反対派となり、外交拒絶の建白書を提出した。
万延元年(1860年)に幕府が公武合体のために和宮の降嫁を申し入れた結果、熾仁親王との婚約が解消される。元治元年(1864年)には父・幟仁親王とともに国事御用掛に任じられ、攘夷派の長州藩と密接な関係を結ぶ。その結果禁門の変で長州藩擁護の言動により、御用掛を免じられ、参朝を停止させられる。
慶応3年(1867年)に孝明天皇の大喪によって赦され、王政復古の大号令によって新政府の総裁となる。鳥羽伏見の戦いの後は、東征大総督となって江戸城を接収。戊辰戦争では会津方面出陣の部隊を指揮して東北地方を平定させる。その後兵部卿として、海陸軍の創設に尽力。明治10年(1877年)の西南戦争では征討総督を務め、その功績で西郷隆盛に次ぐ陸軍大将となる。一方で博愛社(後の日本赤十字社)総裁など社会事業にも尽力した。
明治15年(1882年)のロシア帝国でのアレクサンドル3世即位に参列、明治27年(1894年)の日清戦争では参謀総長に任じられるなど、軍事・外交方面で重職を担うも、日清戦争の終戦前に舞子で亡くなることとなった。
関連項目
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